あつ森島の評判の聞き方。 【あつ森】島クリエイターになる方法とできること【あつまれどうぶつの森】|ゲームエイト

【あつ森】名前変更はできる?やり方と注意点

あつ森島の評判の聞き方

持ち物整理をした時などにその場でアイテムを置くこともあるが、これも島のマイナス評価に繋がる。 地面に置いたまま放置している物があれば回収しよう。 これでも島評価が上がることは確認した。 島の中に家具を置くことで島の評価は上がる。 家具の種類やレイアウトは関係ない。 島の評価を上げたいだけならば、DIYで簡単に作れる家具を配置するのが効率的。 移動の邪魔にならないところに家具をまとめて設置しよう。 マイル交換や商店も活用しよう 家具はマイル交換やたぬき商店でも入手可能。 マイルやベルに余裕がある方は、安い家具を交換、購入して揃えるのもあり。 ただしベルは住民を増やしたりインフラ整備にも使うので、計画的に使おう。 おすすめのDIY家具一覧.

次の

【あつ森】島クリエイターになる方法とできること【あつまれどうぶつの森】|ゲームエイト

あつ森島の評判の聞き方

【あつ森】島の評価 評判 を効率よく上げる方法 橋や坂を建てる インフラ設備は、評価に関わるものの一つです。 多ければ多いほど評価は上がりやすいですが、ベルがかかるものです。 まずは1つ設置しておくと、評価を早く上げやすくすることができます。 家具を設置する 家具は置かずに飾りましょう。 アイテムマークの状態で置かれている場合は、評価を下げる原因になります。 柵を100個くらい設置し、家具を20個くらい配置しましょう。 雑草を片付ける 雑草も評価に影響します。 ゴミなどが置かれている場合も散らかってしまうので、キレイに片づけておきましょう。 花や木を植える 島にある花や木は、自然環境の維持に影響します。 できる限り増やし、島全体に配置していきましょう。 住民を増やす 住人は、後から引っ越しさせることができます。 一日に呼べる人数は1人なので、一日1人は勧誘しておきましょう。

次の

島の評価(評判)を効率よく上げる方法【あつ森攻略】

あつ森島の評判の聞き方

横山エンタツ・花菱アチヤコの二人がこの頃の代表者であることはよく知られていよう。 洋服姿で立って時事を捉えた話題の会話を行なう今に通じる新しさを持ちこんだ。 逆にそれまでの祝福芸の面を失った。 「万才」は明治後半に江州音頭という歌をもとにおかしく聞かせていた玉子屋円辰が愛知県の「萬歳」をとり入れ、和服で鼓を持ち太夫・才蔵と呼称し、掛け合いの世間ぱなしのしゃべくりと様々な芸をとりこんだ芸づくしを行なっていた 小島貞二「漫才世相史」毎日新聞社、昭和40年。 更に遡って「萬歳」は正月に祝福芸として祝言を唱えに訪れてくるもので、整ったものとしては御所や公家、幕府、大名邸に伺候し、また門付芸として町家を訪れる太夫才蔵という二人連れの来訪神信仰を元にした芸能で、室町時代頃迄は「千秋萬歳」と称し、「古今著聞集」などの平安時代の文献に迄遡りうるものであった。 すなわち 千秋萬歳から 萬歳、万才を経て漫才へと変化してきた芸能であり、まんざいという発音は変えずに漢字を変えるのみで、一貫してきたものと時代に応じて変化してきた意味あいとを伝えた命名の変遷史でもあった。 最も大きな変化は信仰を元にした祝福の芸であった性格が、万才となった明治以後急速に変化し漫才になった時には全く失われてしまったことである。 古態を留める萬歳も昭和40年代迄は関東地方に回勤していたが、獅子舞や御師が来なくなったのと同じく殆ど見ることができなくなってしまった。 ともかく大衆芸能はこのように世に連れ人に連れ変化していく。 また影響しあっていく。 安寿と厨子王の物語は子供の時、どこかで知る機会のあった方も多いであろう。 あの物語が最初に語られたのは説経節という芸能においてであった。 いつ頃始められた芸能か定かでないが、室町時代頃と推定されている。 この芸能が今日も多摩地方他で伝承されている。 漫才の人気のような勢いがないのは残念なことであるが、寺社や宮廷あるいは大名等の庇護を受けることもなく500年にも亘る歴史を持っているのは大衆芸能の一つとして希なこととしかいえない。 むろん時とともに変化してきた。 そうした歴史を若干ふりかえりながら、今日も伝えられている説経祭文系の説経節と愛知県に伝えられている説教源氏節との関係を詞章の上から寸見し、それらの歴史の一端を垣間見てみたい。 仏教の比楡や因縁話を物語化し芸能化したのが出発点であったろうが、その転化・物語化の過程は全く明らかでない。 初期のテキストには、例えぱ安寿と厨子王の説経節「天下一説経佐渡七太夫正本 せつきやうさんせう太夫」の冒頭には たたいまかたり申御物かたり、國を申さは、たんこの國、かなやきぢざうの御本ぢを、あらあらときたてひろめ申に、これも一たひは人げんにておはします 「説経正本集」 とあり、丹後国 京都府 の金焼地蔵という仏が地蔵仏として祭られるに至った経緯の大体の話を説いていく旨の説明がなされている。 末尾には みねにみね、門にかとをたてならへて、ふつきはんぶくとおさかへあるも、なにゆへなれは、おやかうかう、かなやきぢさうの御ほんちを、かたりおさむる、すゑはんじやうものかたり とあり祝福の言辞をもって結んでいる。 首尾において宗教色信仰色で色どられているが、本文の内容においては説教がなされるでもなく宗教的色彩は薄く、銀難辛苦の物語の果てに厨子王が母に巡り会える筋が描かれるのみである。 江戸時代より前においては漂泊の芸能で寺社の境内や門前で語られるものだったので、上例のように若干の宗教色もみられたのであるが、江戸時代になると、人形芝居として今日の文楽のように人形 但し一人で操る一人遣い と三味線と語りの三つの芸能が合流して京・大坂 江戸時代にはこの字を用いた ・江戸で主に上演されるようになると、上例のような首尾の詞章がさらに簡略化され、ついにはなくなり、物語の部分のみになる。 都市の興行に固定し、漂泊性が失われたと同時に宗教色も失われてしまった。 引き換えに固定した都市の観衆が増え、テキストの出版が可能になった。 400年近くも前の大衆芸能であるにもかかわらず、今日我々がテキストを読むことができるのは、そのためである。 語り手が違う、したがっていくつかのヴァリエーションを比較検証することも可能になるテキストが度々出版された程の観衆がいたことも知れる。 寛文・延宝期 1660年代70隼代 迄が最盛期で他の古浄瑠璃と呼ぱれる語り物の人形芝居とともに、近松門左衛門と竹本義太夫による義太夫節人形芝居 今日の文楽 が貞享元年 1684 に始まると淘汰されていった。 宝暦10年 1760 には「いたはしや浮世の隅に天満節 天満八太夫が語り出した説経節 」といわれるように衰退した。 ここで絶えてしまっていれぱ森鴎外「山槻太夫」は生まれなかったかもしれない。 また我々も安寿と厨子王の悲劇を知ることにならなかったかも知れない。 幸いにも三通りの道筋が説経節にはつけられた。 一つは佐渡ケ島に伝えられ近年まで語り伝えられていたのである。 二つ目は後述する説経祭文として寛政年間 1789-1801 に再興された説経節が多摩地方・都内・埼玉県秩父地方に今も伝。 えられている。 三つ目は他の芸能に影響を与えていた。 この三つ目の経過と道筋について煩を厭わずに挙げてみると、「小栗判官」という説経節は近松門左衛門「当流小粟判官」・紀海音「鬼鹿毛無佐志鐙」・文耕堂他「小栗判官車街道」等の文楽や歌舞伎に作られ、大坂の正月歌舞伎興行には江戸の曽我狂言のように小栗物が上演されたという。 大坂から南下して熊野本宮に向かう熊野街道は、主人公小栗判官が地獄から腐ったような体で甦った後、その体を癒すために土車という一種の車椅子で連れられていく道であったので、別名小栗街道とも呼ぱれるに至った。 「苅萱」は「苅萱桑門筑紫櫟」「苅萱道心行状記」等の文楽に 前者は歌舞伎で今も上演される 作り変えられ、曲亭馬琴は「石堂丸苅萱物語」を書いている。 他に合巻・黄表紙等の草草紙にも影響した。 今日でも高野山の苅萱堂では絵解き 僧侶が絵を見せながら物語を概説し、教訓を加える がなされ、絵本や漫画本まで売られている。 石童丸の物語として戦前までは国民伝説のような位置を占めるものであった。 民謡や盆踊り唄 例えぱ東京の佃島 に採り入れられていることもある。 長野市の善光寺の近くに苅萱・石童丸親子が地蔵仏として祭られたと物語にあるので、近くの西光寺・往生寺の二寺がその地として絵解きが今もなされている。 「山淑太夫」は文楽に「山淑太夫恋慕湊」「山淑太夫五人嬢」「由良湊千軒長者」他があり最後の「千軒長考」は歌舞伎で今も上演される。 森鴎外「山槻太夫」はいうまでもない。 「信徳丸」は近松門左衛門「弱法師」、菅専助「摂州合邦辻」になり、後者の主人公玉手御前の人形の写真は文楽の本はもとよりよく掲げられる。 大阪天王寺にはこの話に因んだ閻魔堂が作られてさえいる。 「信太妻」は竹田出雲「藤屋道満大内鑑」に作り直されて、これが有名になり説経祭文に逆戻りしている。 清元申「寸保壮名」は名曲として名高く舞踊でもよく演じられる。 このように、古い説経節は衰えたが、江戸の文芸・芸能に多大な影響を及ぼした。 説経物は信仰色を失う一方で流転しながら活き続けていたのである。 この初代若太夫から二代目 ないしは三代目まで 江戸の芝居町で説経芝居を上演し、台本も33段51冊あるような正本でも出版され市販されていた。 「説経さい文小栗判官・照手姫」は天保から弘化期 1830-1844-1848 にも再々刊行されており、版元を変えて出されたものもあり版元は6種数えられる 森中治兵衛・和泉屋栄吉・吉田屋小吉・松坂屋吉蔵・積玉堂・丸吉。 また天保15年 1844 より弘化4年 1847 の間に当時一流の三代目歌川豊国によって小栗判官が鬼鹿毛という荒馬を乗りこなす錦絵が描かれ、当時の人情本の第一人考の作家松亭金水により賛が加えられるまでにいたっている。 江戸後期の説経節である説経祭文の絶頂期であった。 名古屋の芸能について記録された「見世物雑誌」の天保6年閨7月15日 1835 より大須山 観音で有名、現在でも有名な演芸場のある地区 で山門外講釈小屋で「祭門説経」があり、江戸の「秀元」と「きく」が 小粟判官一代記 由良湊三座太夫 かるかや石とう丸 八百屋於七一代記 一の谷八しま かけ清ろう屋 あしやとうまん 法道尼 二人尼 轟徳丸 を上演している。 これらの外題は誤記や宛て字があるものの対応する作品の正本や台本が関東各地の太夫の元に残されており、説経祭文の演目として誤りはないであろう。 これらの演目が天保6年には既に成立していたことが確定できる。 「秀元」「きく」の名はこの書以外 後述 他見なくどういう語り手であったのか、費用・給金等の詳細はもとより諸事情についての記述が全くないので手掛かりもない。 同じく天保8年2月14日より若宮境内北之方にて「世津きやう上るり 江戸 春太夫」が公演している。 「春太夫」の名は早稲田大学演劇博物館所蔵「説経さい文 三荘太夫物語」第34段「安寿姫対王丸骨対面段」より第36段「太夫親子鋸挽段」までの4段、「説経祭文石童丸苅萱道心」第5段「行違段」・第7段「萱堂段」及び同博物館蔵「説経さい文 出世景清」上ノ切「阿古屋自害」において太夫名の10番目に見出せる。 これらの諸本間においては他の10余名の太夫名が一致するので同一人と考えてよいであろう。 名古屋の記録の春太夫とも同一人と仮定するならぱ一同時代に10番目に位置づけられる名を別の土地でさえも名乗る他の者がいたとは考えにくく、上位に位置する名ならぱそれを襲う者がいたことも考えねばならないが、天保8年の前後数10年の内に上記3本7巻が版行されていたと推定できる。 もう少し狭められるとよいが、目下は江戸から単独で語りにきた太夫がいたことに留意しておきたい。 彼の逗留が一時的なものか、江戸を既に離れ地方で活動しはじめたことを意味するのか、この1項目の記事のみでは即断できないが、慶応元年 1865 「門弟連名控」 八王子市郷土資料館蔵 及び明治6年 1873 書写「説経語り渡世弟子名前書上写」にないことも留意しておきたい。 「見世物雑誌」には同じく天保8年5月に大須で「せつきやう」があり「開元 秀元 鶴元 龍元」の4名の名が記されている。 前述の天保6年の10外題を掲げていた「江戸 秀元」と同名が挙げられている。 この3例は江戸から上ってきた太夫が説経祭文 説経浄瑠璃も同じものをさし、江戸で出版された正本に両方が用いられてある を名古屋で上演していたわけであるが、これらは江戸の最盛期の余勢を駆ってのためであったろう。 その実態は「武江年表」はじめ諸書に記されているので今は触れない。 この5年前頃から猿若町 浅草観音裏にあった芝居町 にあった人形操りの薩摩座と結城座は不振で取り壊されていた。 薩摩派の説経節においても困窮の度を深めていったことであろう。 嘉永4年8月 1851 上演された三世瀬川如皐作r東山桜荘子」は義民佐倉宗五を主人公にしたもので人気を呼び、宗五物の様々な作晶がこれを契機に作られたという。 埼玉県所沢市柳瀬民俗資料興蔵の薩摩若太夫正本「桜草語 浅倉当吾内乃段」「同 浅倉川渡場の段」もその主人公名浅倉当吾が「東山桜荘子」のそれと一致するので恐らくその影響下になるものであろう。 「説経浄瑠璃」と表紙に刷られているのも三代目若松若太夫 小若太夫改め 氏の推測どおり、比較的新しい版行の正本で、嘉永4年8月以降の刊行とみてよいであろう。 しかし困窮を窮めていた薩摩派にとって「東山桜荘子」の時運に乗ることは極めて適切必要な機会だったのではないだろうか。 安政大地震を予知してはいなかったであろうが、それより前ならぱ可能であったと臆測を邊しくする。 ところで、大地震に関連してよづ注視してみなけれぱならないことがある。 安政2年と3年に三代目薩摩若太夫は数回に亘り秩父入りし三峯神社に参詣し柴原 荒川村日野 の鉱泉宿に逗留し、地元の百姓坂本藤吉を弟子にし、後藤吉は江戸に出て若太夫の下で修業し、薩摩若登太夫と名乗り、帰郷後秩父に説経を弘め、若松佐登太夫他を育てていったという。 地震の直後 安政2年の逗留も地震の直後とみるならぱ 三代目若太夫は再三秩父に滞在したわけであり・江戸で立ち行かなくなったためという伝承も裏付けられよう。 早稲田大学演劇博物館に「義経奥州落」と題する4冊改装合綴の1本がある。 前に「安宅関之段 上下」2冊、後に「勧進帳之段 上下」2冊となっている。 この後の2冊は表紙の右側に刷られた太夫名が他の正本と較べて大きく異なっている。 上冊には「若太夫、辰太夫、小磯太夫、滝太夫、米太夫、津簾太夫、若登太夫」 私意に薩摩を全て略した 下冊は「若太夫、若佐太夫、玉太夫、島太夫、今津太夫、八千代太夫、若勢太夫」 同上 と他に類をみない太夫名である。 それのみならず「若登太夫」の名が目を魅く。 秩父の若登太夫が参加しているのならぱ、安政3年以降の正本ということになる。 前の「安宅関之段」には若太夫他浜太夫、君太夫、桝太夫等の正本によく刷られている高足達が刷られているのと大きく異なり、しかも「安宅関之段」の末尾の詞章と「勧進帳之段」の冒頭部の詞章は重複している不自然さがみられる。 おそらく別々に出版されたものであろう。 そしてこの2本の出版の前後で、太夫が大きく入れ替ることがあったのではなかろうか。 この合綴された巻末に本文と異質の遊紙が一丁附され明治9年の年号と磐城国川辺村の「小針 主」という署名がある。 この太夫名の一新に関して想起したい伝本がある。 この表紙の右3行には「若狭若太夫同浜太夫 同桝太夫 同伊世太夫 同三保太夫 同千賀太夫」と6名の太夫と「三弦 辰治 粂吉」の2名が刷られ上部に「江戸元祖」と周りに配字した丸に隅立て四ツ目の紋が刷られている。 既に考察したことがあるようにこの紋は薩摩派の門弟が用いるものである。 したがって若太夫を名乗るものの家元の薩摩若太夫でない若太夫が新たに出現したことになる。 しかも他の5名及び三弦の2名は先に春太夫について示した正本に共通する太夫名三弦方名である。 不可解な伝本であるが、この合綴本の裏表紙見返しに、安政5年 1858 に龍野の某 墨で消してある が求めた旨の記がある。 後述するように大坂で版行された本を合わせ綴じているので兵庫県龍野市に元所有者がいたというのは理解しやすい。 安政5年以前に大坂で刊行された説経祭文があったということは、一過性の興行のために出版されたというよりも、一時的であったにせよ、大坂に新天地を求めて主だった太夫が総移住したことを示していないであろうか。 それ故、「勧進帳之段」の三代目薩摩若太夫を固める太夫が新しい面々に変っていたのではないだろうか。 安政大地震の前後どちらとも推測しかねるが、三代目が秩父に長逗留したこともあると伝えられるのも、このことと関係があるのかもしれない。 家元の権限は三代目にあったので、大坂の若太夫は家元の紋を掲げることもできず、また大坂に近い若狭の名を名乗ったのであろう。 更に国文学研究資料館所蔵「説経祭文」本は「説経さいもん 小栗判官てる手姫清水のだん」に続いて太夫名・三弦方名や紋も刷られていない「新板江戸むかしぱなし小ぐり一代記 説経祭文 よろづやの内」廿段目上の巻及び「新はん 江戸説経祭文 むかしぱなし小ぐり一代記 萬屋内下の巻」という2冊が綴じられている。 先の早大本と比較すると、上の巻は前半ほぼ同文であるが後半部が4分の1刻まれていない。 照手姫が主人の万屋長右衛門に嘘をついて遊女になることを拒む件であるが、なくても下の巻があれぱ差し障りはない。 下の巻は冒頭に繋ぎの文句が2行新たに加えられた他は大異はない。 太夫名が一切ないので即断しかねるが「江戸説経祭文」と銘記されていること段数表記も早大本と一致することから、若狭若太夫の正本の可能性が高いと推測する。 なぜ太夫名を一切省いたのか不明であるが、大坂は小栗物を正月の狂言として歌舞伎で上演されることの多かった土地であったので、小栗判官一代記を重視しして出版したのであろう。 目下のところ大坂における説経祭文の正本として伝わってレデるものはこの3本なので、これ以上の若狭若太夫他の動向は一切不明であるが、若太夫の一向が大坂に齋たらしたものは説経祭文の歴史においては多大なものであったと考えられる。 この若太夫に刺激されて新内を語っていた大坂の岡本美根太夫が「説経祭文」を語り始めたのである。 裏表紙見返しには先述のように安政5年龍野で得た旨の記がある。 内容は以下10種15冊59丁である。 「説経祭文 岡本美根太夫章 出世かげ清獄屋破之段」上の巻・中の巻・下の巻 「岡本美根太夫章 江戸説経小栗照手姫再の対面」上・中・下 「岡本美根太失章 江戸説経由良之湊千軒長者内之段 三荘太夫」 「岡本美根太夫章 江戸説経さいもん石どう丸」上 「岡本美根太夫章 石童丸苅萱道心行違段」 「江戸説経高野山 苅萱石堂丸札書ノ段」中 「岡本美咲太夫 江戸説経かうやさん衣掛のだん 石堂丸ものがたり」下ノ畢 次に先述の若狭若太夫正本 「説経さいもん 小栗判官てる手姫 清水のだん」 「新板江戸 むかしぱなし小ぐり一代記 説経祭文 よろづやの内」廿段目上の巻 「新はん 江戸説経祭文 むかしぱなし小ぐり一代記 萬屋内」下の巻 「岡本美根太夫章 江戸説経 ゆらのみなと千げん長者 三荘太夫初編」上下巻 岡本美根太夫の正本が大半であるが、岡本美咲太夫の正本が1冊、若狭若太夫の正本が3冊・上記の順で綴じられてある。 この本の所有者、龍野の某氏またはその前の所有者にとって、どれにも江戸説経祭文と刷られているのでどの本も大差はなかったので何の秩序もなく綴じておいたのであろう。 そのように外観は似ているが、美根太夫の本文は薩摩派の本文と大いに異なる。 また節は新内を規準にしたものであったので江戸の説経祭文とは異なっていたといわれている。 なぜ美根太夫が自らの派も江戸説経祭文と称していたか臆測すれば、若狭若太夫のそれが人気を呼んでいたからではなかったろうか。 テキストを取りこんだ時、名称のみ残し・内容は換骨奪胎してしまっている。 説経祭文の詞を元にしたのであろうが対校するのは困難なまでに詞章を変えている。 「小栗判官」に例をとれば、光重こと小栗判官が甦った後、再び万屋長右衛門のところへ向い、餓鬼阿弥車を引いてくれた小萩に礼を述べに訪れる件で、 「岡本美根太夫章 江戸説経 小ぐりてる手 再 にど のたい面」中巻に 小はぎこそ、かをにゆふひのあかねさし恐れながら申あげ升お殿様、お主の仰かおもきゆへ、おさゝのおしやくにでましたが、せんぞなのりやさんげばなしにいでません、おきにいらずぱさがりましよ、光重公聞召、ぶし一代のあやまり也、人の先祖をとふときは、わがいにしへを物がたり、それより聞のがほうぎなり、 とあるところは、数少なく近いところである。 薩摩若太夫正本第32段「対面段 下」 仰セに姫メ君ミ、おもてを上ヶ、是レはしたり、お国主様マの、仰共存ンじませぬ、私シは主めいにまかせまして、御酒のおしやくには出ましたが、我カ身の上ヱのさしきさんげにや、出テませぬ。 もはやおいとまたまわれと、すでに御前ンをたゝんとす、判ン官ン、もすそをひかへ、ヤアレまて小はぎ、人トのせんぞをとふときは、我がいにしへをかたれと有ル、そちが名をといしは、判ン官ン光しげ ひとつのあやまり、 ここでもう一本、美根太夫系の太夫岡本松鳶斎の筆写した「実道記貞女鏡 小栗照手対面乃凌」という尾崎久弥氏旧蔵・蓬左文庫所蔵「蓮如上人啄をどし 石井高尾状つかひ 小栗照手対面の段」という合綴本の同じ箇所を掲げる。 ををせに照手はざを改めこうぺをさげ、コレハみようがに余おことバにハござり升れど、わたくしハ、ごぜん様のぎよふいといゝ、しゆう人のことバがおもきゆへ、ぜひのうおしやくにハ出ましたなれど、身のざんげんぱなしをいたしましよふとて、これへいでハいたしませぬ、モウ此ざハ御めんなされて下さりませと、すでにたち上らんとなし給ヘバ、いつてきたんりようのみつしげどの、そバなるせんすを手にとるやいな、う打ちかけのすそ、しつかとおさへ、ヤレまて小萩、へいはんぐわんみつしげが目どをりともはじからず、立さわいでびろうであろう、まてと言バ、まあまて、ハアゝイ、なるほど、人の先ぞをきくときハ、わがいにしへをかたれとやら、 というようにこれでも比較がなしうるところである。 三者とも同趣旨であるが異なっている。 そして三者の本文の特徴がよく表れているところである。 どれも会話の文に詳しく、くどさがあるが、松鳶斎の文章はもっとも長くなっている。 美根太夫の文章はこの件には表れていないがお金をお礼に渡そうと幾度もでてくる。 三者とも根は繋っているのであろうが親子関係を指摘できる詞章は殆ど見あたらない。 このように美根太夫は江戸説経祭文と名乗りながら、若狭若太夫が薩摩の正本をほぼ逐字的に版行していたのに対し・独自の本文を作っていたのである。 語りも新内を元にしたものであったから、美根太夫は説経祭文に刺激を受けながら、別の語り物を志向していたのである。 それが名古屋に移され、平曲に対抗しス名付けられたという説教源氏節の成立であった・尾崎久弥氏「名古屋芸能史」によれぱ明治初めに「説教源氏節」と称えられたとあるが、内実は別の語り物であったのであるから改称は当然の道程であったであろう・そして先に掲げた岡本松鳶斎は説教源氏節の中興の祖として崇められる語り手であるが、美根太夫の大坂での弟子で名古屋に移り住み名古屋の源氏節の興隆に資したのである一師に習い、独自の詞章を一層すすめた攻めの姿勢が興隆にプラスに作用したであろう。 源氏節は明治後期に東京に進出するまでに至り、源氏節女芝居として警視庁から禁止される程であったという。 ところで、尾崎久弥氏は重要な紹介をしている。 先に述べたように岡本美根太夫が若狭若太夫の大坂での活躍に刺激を受けたものならぱ、若太夫の大坂行きは嘉永4年 1851 以前となる。 安政5年 1858 以前に正本を刊行していたことも7年以上引き上げねばならなくなるのであろうか。 尾崎氏の論考に盟友市橋鐸麿氏が説経祭文の名の32段33冊を所持していられたという。 この本や大坂刊行の版本の出現が待たれる。 なお、安政4年8月 1857 より10月迄名古屋若宮境内芝居として岡本美矢登太夫他による説経新内の「小栗判官」他が上演され、その番付が早稲田大学演劇博物館にあることも想起しておきたい。 ここまで年代的に判明したことを整理しておく。 薩摩辰太夫・同小磯太夫・同若狭太夫・同玉太夫・同若登太夫他が辰太夫以外新しい太夫として登場。 しかし、それらは先に紹介した二度対面の段の前後二種であり、他の章段はない。 美根太夫の正本においても同様で現在伝えられている源氏節の正本には他の段が全く見られない点にも留意しておくべきであろう。 若狭若太夫は清水の段と万屋の段を遺していたのであるから、これらの段も大坂には伝わっていた。 但し全33段はどうであったか定かでない。 現在、もくもく座が源氏節人形芝居を復活させているが、この元になった正本や音源は愛知県海部郡甚目寺町の故六代目岡本美寿松太夫 服部松次氏 所蔵のものである。 氏の語られる「小栗判官照手姫 本陣入小萩説話段」は松鳶斎の正本「小栗判官照手姫 萬屋本陣入の段 全」に基づいている。 前半分に8丁分の省略があるが、ほぼ逐字的に対校することができる。 松鳶斎のくどきを省きすっきりさせている。 しかしこの一つをもってしても松鳶斎の影響の程がしれよう。 説経祭文から影響されて説教源氏節が成立したが、それは従属的な影響でなく、当初から独立した別個のものとして成立したといってよい。 それ故今日迄命脈を保っているのであろう。 後期説経節である説経祭文はこの他、様々な芸能に影響を与えた。 幕末から明治にかけて東京八王子市の車人形、埼玉県横瀬の人形芝居 回り舞台の機構をもつ 、同荒川村白久の串人形が考察され、写し絵 スライド映写機を幾台も同時に使用し、二重に仕掛けたフィルムによるアニメーションの先駆、近年イギリスやイタリア他でも注目され始めた の地語りになり永続化させるのに資した。 近年劇団みんわ座がさらに工夫発展させている。 又越後の警女の主な演目である祭文松坂に摂り込まれ漂泊の芸として近年迄楽しまれた。 神奈川県の伝説や念仏唄にまで溶け込んだ。 また浪曲の源になったともいわれ、多様な芸能を生み影響を及ぼしてきた。 前期の説経節が江戸の文学や芸能に大きな影響を与えたように、後期の説経節も地方の芸能に大きな刺激を与えたのである。 本家の説経祭文系の説経節も昨今若手の語り手が増え始めて期待を抱かせるが、安住したり保守的になっては先々望めないであろう。 芸能は流転していくものであるから。 小学館の「日本国語大辞典」によると、「説経節」は「説経浄瑠璃で語られる曲節。 説経浄瑠璃と同じ意にも用いる」とあり、「説経浄瑠璃」は「語り物の一種。 仏教の説経が歌謡化し和讃・平曲・謡曲などの影響を受けて、江戸初期に流行した民衆芸能。 始めは大道芸で鉦をたたきながら語られたが、次第に簓・胡弓・三味線をとりいれ、操り人形劇とも提携して興行化された」とあります。 これらの説明の中には「説教」の字は見えません。 また、初代が活躍していた当時は一般に、「説経」と「説教」を明確に使い分けていなかったという説もあるようです。 いずれにせよ、観客に向かって「お説教」をする意味で使ったのではないはずです。 なお、三代目若松若太夫は「説経節」を使っています。 節足動物、文節、季節、浪花節、鰹節、節目、関節、苦節、節介、節会、節操、節分……と「節」を使った言葉はたくさんあります。 それらから「節」の統一的なイメージを導き出すのはちょっと難しいですね。 文節や季節、節目、関節などからは境界部分、区切りをさすことがイメージできますし、浪花節ではメロディがイメージできますが、鰹節は節が何を意味するのかちょっと想像できません。 鰹節と説経節はほとんど何も関係なさそうなので、その意味を探ることはやめておきましょう。 「説経節」の「節」はもちろん、浪花節の「節」と同じで、旋律を意味します。 「ちょいとヒトフシ唄っておくれ」などと言うときの「フシ」です。 言葉をただ出すだけではなく、抑揚をつけて、リズムに乗せること、それを「節」と言います。 つまり、「説経節」とは、「説経」と「節」、経文を説き聞かせるときに、リズムをつけたもの、と言えるでしょう。 しかし、物事はそう単純ではありません。 説経節はリズミカルに経文を説き聞かせるものではありません。 そのような形態の時代もあったようですが、経文とは少し距離を置いた、例えば仏教説話であったり、社寺縁起であったり、神仏の霊験譚であったりで、仏典をそのまま語り聞かせるものではないのです。 説教節は仏教に帰依させるための芸能という性格から次第に離れて、世界観や思想性などの背景は仏教色を残しながらも、観客に感動、特に哀切を伝える「物語」こそが前面に押し出されたエンターテイメントとなっていったのです。 説経節は江戸時代の初期、寛永年間に関西で流行し、江戸でもはやっていました。 しかし、同じ語り物芸能の義太夫節 竹本義太夫が大成した、物語の筋、せりふに三味線の伴奏を付けた語り物で、操り人形と結びついて発達。 竹本座では近松門左衛門を座付きの作家とし、「曽根崎心中」や「国性爺合戦」、「女殺油地獄」などを生み出し、大変流行した。 一般に、浄瑠璃というとこの義太夫節をさすことが多い。 これに対し、説経節は古浄瑠璃系とも言われる が爆発的に流行し、説経節はそれに押される形で、特に関西で勢いを失っていきました。 江戸でも説経節は次第に衰微したのですが、18世紀末ごろ、山伏の祭文語りと結びついて復活します。 庚申講や念仏講に招かれて説経節を披露していたようです。 それと同じころ、江戸の本所で米屋の米千 薩摩若太夫 の説経と、その隣家の按摩さんの三味線が伴奏として結びつき、現在に続く薩摩派の説経節が生まれました。 若松若太夫の若松派はこの薩摩派から分かれたものです。 特に「山荘太夫」は明治の文豪、森鴎外が「山椒太夫」として小説にしており、有名です。 内容は「山椒太夫」という長者が没落する話ですが、実質的な主人公は安寿と厨子王で、その姉弟愛がテーマとなっています。 無実の罪で流された父に会いに行く途上、佐渡で人買いに騙され、母は佐渡へ売られ、安寿と厨子王は山椒太夫に売られます。 山椒太夫は彼らを奴隷のように酷使するので、安寿が厨子王を逃がします。 けれど、そのせいで安寿は拷問を受けて死んでしまいます。 その後、いろいろな経緯の末に最後に厨子王が山椒太夫を懲らしめて仇を討つ、という話です。 説経節はこのような、哀切の物語を節にのせ、三味線と合わせながら語る芸能なのです。 もっと気軽に、手軽に説経節の物語に触れてみたい、という方は、漫画はいかがでしょうか。 入手性はあまり高くありませんので、どこの書店にも置いてあるものではありませんが、ちくま文庫に近藤ようこさんが描いた「説経 小栗判官」があります。 説経節の小栗判官を忠実に漫画化したもので、小栗判官がどんな物語なのかがよくわかると思います。 現在の人気漫画のように過剰な描写はなく、静かで、それでいて情感あふれる作風ですので、どなたでも受け入れやすいのではないでしょうか。 その後石村近江守に依て、蛇皮線が改良されて三味線となり、即ち一般浄瑠璃にも三味線を用ふることになつたのである。 --家元若太夫所蔵の古文書中に日暮八太夫が音曲諸藝の司として名跡相續を許された御墨附がある。 そして八太夫の門下から、日暮小太夫、説教與八郎の如き斯道の名人を輩出した。 明治6-7年頃當代若太夫の師の、日暮龍卜の家に寄宿して居た、浮れ節語りの浪花亭駒吉なる者は、長く龍卜方にあって、カンチガヒ地節と云ふ節を加味して、浪花節を作つた。 これが抑も浪花節の鼻祖である。 この龍卜は東都家元として、始め薩摩太夫と稱したのであつたが、流轉の旅を續けて奥州白河に至り、一夜の興行をこの地に催した時、恰も戊申 注:戊辰か 戦役直後の事とて、會津藩に近きこの地方の人々が薩摩を憎むこと甚だしく、龍卜が掲げてあつた「薩摩若太夫」の行燈は、薩摩なる文字あるために何人かの爲に斬り破られた。 茲に於て餘義なく傳来の薩摩と云ふを廢して、會津の地に親しみあり且つ文字に吉意ある「若松」に改め、又の名を古来よりの日暮を繼いで、日暮龍卜と稱したのである。 私どもの年代だと恐いものの代表は「地震雷火事親父」と云われ、親父は怖い存在であった。 特に、親父の「お説教」は地獄で、長々と正座にて御叱りを被り、姿勢を崩すや間髪を入れず長い竹の物差しで叩かれる苦行であった。 嫌なら止めれば良いと解っていながらも、悪さを仕出かし又お説教にあったが、今では懐かしい思い出になっている。 このお説教と云う言葉は仏教から来たものだが、以外にもお説教自体を源とする伝統芸能が数多くある。 今回から「説教 説経 」を取り上げ、その枝葉とも言える芸能がどのようにして出来上がっていったのかを見て行こうと思う。 以前取り上げた「声明」と共に、日本の「歌う芸」「話す芸」「語る芸」の源流と云われ、謡曲・平家琵琶 琵琶唄 」・浄瑠璃・講談・浪曲・様々な門付芸などが発生しており、現在の歌謡曲もその影響下にある芸能と言える。 このように説経は日本の芸能史に欠かすことの出来ない存在であるが、又、説経に流れる仏教思想はあらゆる文学作品に多大な影響を与え、日本の文学史上でも無視出来ない存在になっている。 本来、説経 説教 と云う言葉は、仏教の経典経義を購読することで、経典を購読する僧侶を「説経師」と呼んでおり、音曲を伴う語りを意味するものではなかった。 最初に流行した平安時代の説経は、経典の講釈を中心とする「購説」と、比喩因縁を盛り込んで経典経義を説く「説経」「談義」とに別れていた。 この時代には、まだ仏教は一般民衆のものではなく、一握りの貴紳階級を対象としたものであったが、中期頃から庶民層まで広げることを考える僧侶が生じ始めた。 末期になると活発化し、教えを説く説経師達は仏教の大衆化を図る為に、無知蒙昧な庶民層に焦点を当て、彼らが仏教を迎え易くする手段として、教儀を判り易く説く為に機知に富んだ通俗的な法談を行うようになった。 しかし、教義を噛み砕いて説いても限界があり、比喩因縁と結び付ける様になった。 この「法華八講」と云うのは、法華経八巻を一日に朝座・夕座と二回講じ、四日間にて全巻を購読する法会のことである。 このように頻繁に行われるようになると、名を成す僧侶の中から説教を専門職とする者たちが出るようになり、彼らはスター的な存在になっていった。 説教の行う説教師については、皆様ご存知の源氏物語を始め様々な平安時代の物語や随筆には説経僧・説経と云う言葉で多く出てくるなど、この当時名説経師としてスター的な存在であったのが、奈良興福寺の清範、延暦寺の院源、浄土教の源信 恵心 等であった。 個々の説教師に対する聞き手の反応も様々であり、特に宮廷に仕える女房達に持て囃され、好まれる説経師がどのようなものか、女性の目から清少納言は「枕草子」30段「説経師は顔よき」の項にて次の様に記されている。 「説経の講師は顔よき。 講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説く事の尊さも覚ゆれ。 外目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪や得らむと覚ゆ。 この詞はとどむべし。 少し年などのよろしき程こそ、かやうの罪は得がたの詞書き出でけめ。 今は罪いとおそろし。 」〔説経をする講師は容貌の整った方が良い。 何故ならその美貌な顔をじっと見つめているので、精神が集中出来、その説く事が心に染み入り尊いと思う。 容貌の醜悪な講師は、聴く方がついよそ目をしてしまうので集中出来ず、その結果つい有難い話も忘れてしまう。 故に醜悪な顔の講師は、聴聞者に仏の有難さを理解させられないので仏罰を被るだろう。 この様な事を書くと仏罰が当たるので止めます。 いま少し年が若い頃には、この様な罰当たりな事を平気で書きもしただろうに、あの世に行くのが近くなった今では仏罰が恐ろしい〕また、この項の中で清少納言は、説教僧が説教を行う説経道場や貴族の館が、貴紳淑女達が華やかな装いにて集う社交の場としての一面も兼ね備えており、其処には説教が主ではなく、その場所に赴き社交に励む者も居た様を次の様に記している。 「一、二回聴聞した故に何時も行かなくてはならないと思い、夏の暑い日盛りに、きらびやかな帷子を見せびらかして着て、烏帽子には物忌みの札を付けて、敢えて善根を積むために物忌みで篭っておる日なのに来ていると人に思わせる魂胆なのか来ている。 聴聞を聞かず世話役の僧侶と立ち話をしたり、聴聞客の交通整理を買って出たり、久振りに会った人には側に行って座り、数珠を手慰みしながら世間話にうち興じ、彼方此方に視線を動かして説教を聴かず、何時も聴いているので別段耳新しくないとの素振りをしている」清少納言が書いているように彼女が華々しく女房生活をしていた時代は、仏教流布を積極的に行うために説経が盛んに用いられ、人々も宮中や有力公家の館の「講」に招かれ、説経を聴く事が1つの社会的ステータスともなっていた。 また、説経師の側としても、有力者の催す「講」の説経を任されることは、説経師としての力量を認められることとして喜ばしいことであった。 説経の主体も「法華八講」で解るように天台宗の根本経典である法華経を主体にしたものが多かった。 しかし、天台宗を学んだ僧侶達の中から仏教は一握りの者の為のものではなく、あらゆる階層の者に必要なものとの考えに立ち、仏教の大衆化を図るために様々な試みを行うものが現れるようになった。 当初は経典を判り易く噛み砕いて説教しても、一般庶民の聴聞者を引きつけるのには限界があることを知った事になった。 そこで当時刊行されていた「日本霊異記」に記載されている説話を題材にして、比喩因縁をもって経典解釈と結び付けて語るようになった。 「日本霊異記」は薬師寺の僧景戒によって弘仁14年 823 に完成された仏教説話集で、中国の仏教説話集を基に地名・人名等を日本に替え、また、多くの民間説話も収録されたもので、因果応報説話が多く、仏教的因果応報の理念に立って衆生教化を目的として編纂された説話集で、特に前世の報いの為に地獄に落とされた話しが多く収められている。 また、同じ頃に「浄土信仰」も徐々に広まり始めていた。 この浄土信仰は既に奈良ア朝期に伝来していたが広まらず、後に天台座主となった円仁 後に慈覚大師 が五台山にて授けられた「念仏の法」を唐より帰朝し、仁寿元年 851 に延暦寺常行三昧堂にて「引声念仏」として行ってから、三昧堂が法華経主体の天台宗の内にて阿弥陀仏による西方浄土を説く「浄土教」の念仏道場として存在するようになった。 この教義は浄土三部経即ち「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を指し、その説くところは「一に深く信ず、自身はこれ罪悪の凡夫にして解脱の縁もなし。 二に深く信ず、阿弥陀仏の本願は衆生を摂取す、疑なくかの本願に乗じて必ず救はる」即ち「罪悪に死し仏願力に生きる他力浄土」とする「他力本願」の教義である。 そこに流れる思想は、阿弥陀仏による極楽浄土に往生する「極楽往生思想」で、往生の意味することは「この世での生命が終った後、西方の極楽に生まれること」と説いていることである。 この浄土信仰をより早く民間の中で実践したのが「空也上人」である。 若くして優婆塞 五戒を受け在家のままで戒律を守り仏教に従事する男性を言う として諸国を回遊し、道路の改修・開発、灌漑の利用を薦め、野晒の死体を回収して火葬にし阿弥陀仏を唱え供養したと云う。 まだ念仏行が世間に知られていない天慶年間 938-47 には、京都にて民衆の中に身を置いて阿弥陀仏を唱えること即ち「称名念仏」にて庶民を教化し、人々から市聖・阿弥陀聖と呼ばれる存在であった。 「ひとたび南無阿弥陀仏といふ人の 蓮の上にのぼらぬはなし」の和歌が拾遺和歌集に収められている。 この「往生要集」はインドに生まれた仏教が、日本に到達するまでに様々な形に育成発展して来た過程において出来上がった「往生浄土」の思想と信仰を様を、様々な経論の中より選び出し、問答形式にて編纂したもので、「往生の業は念仏を本となす」を主旨として、念仏往生の要を懇切に説き、且つ地獄極楽を説いた仏教書であり、この書が世に出るや浄土教信仰において最重要な仏書として位置付けられる様になった。 また様々な知識人にも読まれ、平安時代中期以降の日本文学作品や絵画などの芸術などに及ぼした影響は計り知れず、浄土思想史上における金字塔を成すものであった。 この書に盛られた浄土思想を源として後に「浄土宗」「浄土真宗」「時宗」「天台宗眞盛派」などが創設され、また後世になると「往生要集」より六道・地獄・極楽に関する個所を抜き出して絵本が作られ、広く民間に流布され、近世になるとこの絵本を基に「覗きからくり」などの民間芸能が生まれ、また、掛け絵図を基に信者に絵の説明をする「絵解き」が寺院や小屋掛けにて行われるようになった。 現在でもお寺にて地獄極楽絵図を掲げ住職が絵解きを行っておられる所もある様ですし、読者の中には縁日やお祭りの時に小屋掛けにて地獄図の説明を聞いた方も居られると思います。 この「往生要集」は当時の説経師達にとっては、説経の題材を得るには都合のよい事例が多く載せられており、格好な教本となったし、以後の説経隆盛において欠かすことの出来ない重要な台本でもあった。 この書に盛られた「地獄観」は、苦界とも云える現世に生きる者達に取っては身近な存在であり、素直に受け入れ易いものであった。 この地獄に相対する「極楽浄土」は阿弥陀如来の居られる西方浄土にて、苦しみや煩悩がない安楽境であるとされ、現世にては求める事の出来なかった「極楽」に行く手段としては、生前ひたすら「南無阿弥陀仏」の称名を唱える事で、死後如何なる人でもこの極楽浄土に生まれ変わる事が出来るとするのが浄土教の教えであった。 阿弥陀仏の浄土と来迎 人の臨終の時に仏・菩薩が浄土へと導くために迎えに来る事 が恵心僧都によって特に鼓吹され、且つ誰にも解る様に平易に「極楽往生の道」が説かれたことにて、浄土信仰は急速に普及し、当時社会に広まっていた末法思想と相俟って貴族社会に浸透していった。 この末法思想と云いますのは、六世紀に中国にて考え出された史観で、釈迦入滅500年間は仏教が正統に実践される「正法」の時代であり、以後の千年間は仏果 修業を積んだ結果得られる成仏 や仏証を体得した者が皆無となるが、釈迦の教えと行法は存続する「像法」の時代である。 それ以後の一万年は仏法が衰え廃る「末法」の時代としている。 この思想は当時の我が国の仏教界に根強く定着しており、往生要集が出された平安中期は「像法の時代」の終末期であった。 あたかもそれに併せる如く摂関政治にて権勢を振るった藤原道長が萬寿4年 1027 に逝去するや、摂関政治も翳りを見え始め、約140年後の仁安2年 1167 に平清盛が太政大臣となり、天皇の外戚となるや藤原氏支配の摂関政治も終末を迎えた。 また治承元年 1185 に平家の滅亡にて武家政権が確立されるや平安時代も終った。 それは源信に遅れること約200年であった。 それまでの仏教は教義・経典を理解できる貴紳階層を対象にしたものであり、愚痴・無知・蒙昧・罪悪深重の一般庶民を対象にしたものではなかった。 この法然の説く専修念仏は難解な教義経典を知らなくても、ひたすら念仏称名すれば極楽往生が出来るとの事にて、今まで仏教に無縁であった一般庶民に受け入れられていった。 また法然の教えは貴紳・老若・男女を問わない万民のための念仏であったので、後白河法王・関白九条兼実の帰依を得るようになり、貴紳・宮中の女官・武士・庶民が争って庵に参集した。 現在の仏教に疑義を抱く、既存宗派の僧侶達が多数その門を叩き弟子となった。 中でも目立つのが保元・平治・平家滅亡と打続く源平の闘争に従軍した有力鎌倉方武士の無常感による念仏門への帰依であった。 法然の黒谷の庵にての浄土教の説教は、仏教自体を無縁なものと思っていた庶民層に土に浸み込む水の如く、民衆の絶大なる支持を得て受け入れられていった。 その理由として上げられるのが、文盲無知な庶民に浄土教の教義を理解させ宗門を拡大する手段とし取られた口演 説経 による布教に外ならなかった。 しかし、他宗派との差別化をするには、興味を抱かせるための庶民性豊かな説経 話芸 であった。 そこで考えられたのが、民衆が好む娯楽的要求を受け入れるために、比喩因縁談に重点を置いた説教を用い、語り掛け、身振り手振りを使い、内容に沿った表情や音色に感情表現を加えた話法が作られた。 この話法を浄土教の説教に取り入れたのが、天台門より浄土門に転じた当時説経師として著名であった安居院聖覚であった。 この聖覚は説教の達人として名高く天台宗の高僧ながら、叡山を離れ安居院に住まいし妻帯し10名の子供を設け、破戒僧として世間から指弾されながらも、説教にて道俗を教化していた澄憲法印 藤原信憲の子息 の子息である。 父と同じく比叡山にて天台門を学び、父に劣らない説教者として名を成していた。 しかし、法然の説く浄土教に接するや、天台宗を離れ、法然に傾倒し浄土宗に転向し、その高弟となった。 この説教の名人の入門は法然にとって念仏門布教には欠かすことの出来ない存在となり、様々な説教手法を創設したので、「説教念仏義の祖」として尊敬された。 法然と同時代に天台の高僧にて澄憲法印と呼ばれる説教達人がおり、比叡山を降り安居院を住まいにし、僧の身ながら妻帯し十名の子供を儲け、世人から破戒僧として厳しい指弾を受けたが、説教を持って道俗の教化に努め、安居院流唱導の祖と称されている。 因みに澄憲は保元の乱の中心人物であった小納言藤原通憲 信西 の子供で僧籍に入った者である。 子の聖覚も比叡山にて勉学し父の劣らない説教者として名を成したが、山を降り父と同じく安居院に住した。 やがて法然に傾倒し天台宗を離れ浄土宗に帰依し高弟となった。 この聖覚の入門は法然にとり念仏門布教に欠く事の出来ない存在となり、様々な説教手法を創設したので、後に「説教念仏義の祖」と尊敬されるようになった。 彼の説教手法は従来の表白体の説教を止め、比喩因縁談を中心とした口演体説教に変えたことである。 彼の説教手法は法然門下の僧侶に広まり、庶民を対象にして各所にて説教道場が開かれたので、浄土宗は一挙に信者を増やしていった。 この浄土宗の盛行に対し天台宗はじめ旧仏教側は脅威を抱き、様々な圧迫を加えて来たが、浄土門では摩擦を避け釈明にこれ努めて来た。 しかし、後鳥羽上皇熊野行幸中に御側の女官が無断にて法然の弟子により浄土宗に出家する事件が起り、これを契機として、承元元年 1207 に「念仏停止」の断が下され、法然以下主だった弟子が流罪になった。 この事件は浄土教にとっては京都での活動の停止であったが、反面流罪になった者達がその地にて浄土宗を普及させると云う、浄土宗の地方伝播と云う側面を齎した。 聖覚は安居院に拠り浄土宗説教手法はを守って来たが、以後安居院流の説教手法は説教道の大きな流派として厳しい修練と口伝より、浄土宗に数多くの説教者を輩出し連綿と継承されるようになった。 後に安居院流説教道は節付説教 説談説教 の名にて呼ばれ、本の話芸に多大な影響を与えている。 この節談説教の方法は、俗受けのため有効で、声明・和讃・講式などが発展するにつれ、これらを取り入れて改良され、次第に芸能的要素が加わっていった。 それは奈良県当麻にある浄土宗寺院当麻寺に伝わる「浄土変観経曼荼羅 通称当麻曼荼羅 」と云う、「観無量寿経」によって阿弥陀如来主宰の極楽浄土の図相を現した綴れ織の掛け物であるが、それに纏わる由来を表わした「当麻曼荼羅縁起絵巻」によると、「天平宝字7年 763 横佩大臣の姫が当麻寺に入り、生身の阿弥陀如来に会い、観音が蓮糸で構成したこの浄土図を仰いで往生の素懐を遂げた」とあり、阿弥陀経を宗派の経典とする浄土宗においては、この「当麻曼荼羅」が尊信され、浄土教の普及と共に浄土宗の僧達により多くの注釈書が出版され広く流布された。 この注釈書を基に作られたのが「絵解き」で、「当麻曼荼羅図」を掲げて「観無量寿経」の主旨を講説する絵解きは、浄土信仰を普及させる手段としての視聴覚による高度な説教であり、中世末期から近世初頭に掛けて浄土宗では盛んに行われていた。 また、この縁起絵巻が発展して作られたのが「中将姫」伝説であり、姫の名を「中将姫」として室町時代になると能「雲雀山」「当麻」、古浄瑠璃「中将姫之御本地」が作られた。 近世になり、これらを集大成した五段物人形浄瑠璃「鷓山姫捨松」が並木宗輔により作られ、元文5年二月 1740 豊竹座にて上演され、特に三段目「雪責めの段」が有名であった。 やがてこの「中将姫雪責め段」のみを「中将姫古跡の松」として、寛政9年二月 1797 大阪東の芝居にて義太夫歌舞伎狂言として上演され、現在も浄瑠璃・歌舞伎にて上演されています。 このように「当麻曼荼羅図絵解」は本来の説教以外に猿楽・浄瑠璃などの後世の芸能に大きな影響を与へています。 又、浄土宗の説教者の中からは落語の祖と言われる安楽庵策伝が、江戸時代初頭に現れ、長年に亙る説教の話材を集大成した笑話集「醒睡笑」を元和9年 1623 に完成させている。 この本の内容は著者の見聞や古今著聞集などの話を滑稽説教にした小噺集であるが、その特徴は話の最後を落ち サゲ にて締め括っていることであり、この手法は現在でも落語に踏襲されている。 落語の原点が仏教の説教である話芸である事は、現在演じられている落語には浄土宗以外に日蓮宗・浄土真宗などの説教話に題材を得たものが数多くある事からも明白である。 その説経の形態は安居院流と同じく、比喩因縁談を中心とする民間説話に重点が置かれていた。 浄土宗の安居院派と共に二大説経道の流を誇って来たが、この三井寺派の説経道は何時しか三井寺を離れ、同寺の別所である近松寺に移ったが、近世になると仏教布教の手段としての三井寺系説経道は廃絶した。 その理由として室木弥太郎著「語り物の研究」に拠れば、室町期に逢坂山山麓の関寺の支配下にあった近江の関清水蝉丸宮が放浪芸となった琵琶・説経・祭文・傀儡遊女・放下・辻能などを支配していた。 しかし、関寺が廃寺となると蝉丸宮の支配する諸芸は近松寺に移管されるようになった。 近世に入ると近松寺の説経道は廃れ、民間芸能である「説教浄瑠璃 説教節 」を含む放浪芸を支配する寺として幕末までその権利を維持してきたと、述べられております。 浄土真宗の開祖親鸞は、叡山に学んでいたがその宗義に疑義を抱き、吉水に道場を開いた法然を訪れ、その教えに傾倒して弟子となり、やがて高弟となった。 法然の門には当事有数の説教者であった安居院聖覚も居り、親鸞は彼の卓越した説教手法を認め敬慕していた。 法然と共に「念仏停止の断行」により僧籍を剥奪され越後に流された親鸞は、この地にて念仏門の布教を行い信者を増やしていった。 親鸞は聖覚の称えた「阿弥陀如来の音声を正確に聞き取ろう」を説教の本質と捉え「聞法」「聞即信」の精神をモットーとし、布教の手法としては聖覚より取得した説法手法を取り入れ、通俗説教に最も力を入れて実施し、特に重視したのは「和讃」であった。 和讃は以前に【声明】の項にて説明しましたが、字の如く和製の「声明」であり、[教化]とも云われ、説法教導して衆生を聖に化せしめる目的で作られた声明であった。 親鸞はこの和讃を数多く作り布教の際に唱導した。 それは「聞法」即ち説教 教化 の徹底であり、和讃をして聴衆者の心に教えを深く定着させる事と考え、浄土宗の教義を庶民に解り易く解説したものに、声明の持つ節を付け、それを度重ねて唱えさせることにて庶民の心に定着させた。 親鸞の作った多くの和讃は浄土真宗の勤行の中枢とされたばかりでなく、後に真宗にての説教の中心とされ説教僧の巧みな節付けにより、演出効果を増し、節談説教または節付説教と呼ばれるようになった。 安居院聖覚の説法手法は真宗の中にて開花し、真宗にての説教五段法が作られた。 それは・讃題・法説・比喩・因縁・結勧 と云う五段階の構成にて行う説法で、特に比喩と因縁の個所は聴衆を惹き付ける最重要な部分であり、説教者はこの部分に様々な演出を施して講演をした。 この手法は後に説教から「民間の語り芸」が発生する上で多大な影響を及ぼしている。 三世覚如は宗祖親鸞の事跡を選述して「本願寺親鸞伝絵」二巻を興国4年 1343 に作り、視覚による説教即ち「絵解き」による説教の基本テキストとした。 後に絵巻に添えられた詞書を抜き出して「御伝鈔」、絵画のみを抜き出して「御絵伝」が作られ、真宗布教の為の説教に用いられるようになった。 このようにして浄土真宗では宗門拡大の対象を庶民階層に置き、通俗説教を布教の最重要手段として連綿と行っている。 両道場にて修業を成した唱導師 説教師 達が世俗受けを狙う余り、僧侶より脱して芸人化して行く経緯を、僧師錬 虎関禅師 が元亨2年 1322 に著した「元亨釈書」巻29「音芸志」[国史大系所収]では、「諂誦交生、変態百出、揺身首腕音韻。 言貴偶儷理主哀賛、毎言檀主。 常加仏徳。 欲感人心先感自泣。 痛哉無上正真之道。 流為詐偽俳優之伎。 願従-事于此者、三復予言焉」と記している。 その意味する事は、「説教者達が演台から体や首や腕を揺り動かしては様々な型を見せて、美声で歌い上げ、人に感動を与える為にか、自らも泣くなど、説教の流れは偽者の役者の技を成していると」述べ嘆いていることである。 鎌倉時代末期の後醍醐天皇の頃 1321-38 なると、上記の様に変質を遂げた説教に和讃の曲節や平家琵琶 平曲 の語り口が取り入れられ、より庶民的な説経が形作られるようになった。 また、鎌倉時代も末期になると有力寺院や神社においてはその経済的基盤が不安定になって来た。 その理由としては幕府が各地の私有荘園に設置した地頭により荘園が侵食され、全国各地に広大な荘園を有して経済基盤として成り立っていた有力貴族及び寺院は衰退の道を辿り始めていた。 また、有力貴族の寄進などにより成り立っていた寺社等は自らの経済基盤を確立する為に、庶民層に経済的基盤を依存する道を探り、自己の信仰を広める必要性に迫られた。 その為に寺社に建立に纏わる縁起や自己の本尊・祭神等に纏わる霊験譚を作り、布教の手段とし信者獲得を図り信者よりの寄進に拠る経済の安定を考え出した。 この為に作られた本地物語 神や仏がかっては人間として生を受け、様々な艱難辛苦を経た後に神や仏に転生した話 や霊験譚は、歩き巫女 伊勢巫女・熊野比丘尼・出雲巫女など 、山伏、高野聖 高野山 、盲僧、御師 伊勢信仰 、廻国聖、絵解法師などの下級宗教家により全国に伝播して行った。 彼等によって語られるこれらの神仏の本地談や縁起や霊験譚は、物語性を持つ説経の一つの形態であり、唱導文学であった。 しかし、これらの本地物語や霊験譚も各地に伝播するに従い、その信仰がより根強く土地の民衆に受け容れ易くなるよう、その土地固有の信仰や習俗が摂り入れられる様になって行った。 鎌倉末期から南北朝にかけては、仏教布教の為に用いられた口誦する説経から逸脱した身体を用いた説経とも云える様々な布教手段が出現して来た時期でもあった。 また下級宗教者と散所の結び付きにより次第に宗教から逸脱し芸能化して行く時期でもあった。 では散所とは如何なる処であったかと云いますと、律令制度崩壊に伴ない1000年頃になると、律令制度下において各司 政府機関 に隷属し、賎民扱いを受け奈良や京都に居た専門職種の奴婢達が、受け皿もなく大量に解放された。 これら解放された人々は、手に有する職も限られ、居住する場所も失ったので、新しく貴族や社寺の保有する荒蕪地 耕作不可能な地 に流入して、定着して「散所」と呼ばれる集落を形成するようになった。 この中には遊芸を専門職種とした散楽所などに属した者達も居た。 この散所の多くは京都周辺の不毛の荒地の為、年貢 租税 を出さなくてよかったが、その代替として所有者に全面的に隷属して様々な労役に服さなければならなかった。 これは取りも直さず官営の奴婢からの解放は、貴族や社寺に隷属する職業と居住地を制限された私有賎民階層への切替に外ならなかった。 南北朝から室町時代になり商工業が活発化すると、散所の人々は労役の暇を見つけて専門職種を生かした手工業や商業を行うようになり、散所地の所有者を「本所」として公事銭 上納金 を収め、職業毎に「座」と云う組織を作って生産・販売の独占を図るようになり、次第に商工業者として自立していった。 同じ散所でも貴族や社寺の所有地に居住せず、鴨川や桂川の河原や巷所 道路など非課税の公地の空き地 に散所を設けて「河原者」と呼ばれた者達も解放された奴婢であったが、世間からは賎民として扱われていた。 彼らの職業の多くは人々から蔑視される殺生物・染織・造園・雑芸など様々な賎業なすものが多かった。 彼らも地域別にz「座」を作り、有力貴族や寺社を「本所」としていた。 この散所は当初は賎民階層の集落地であったが、次第に様々な階層社会を逸脱した「遁世者」達も居住するようになり、彼らも何時しか賎民扱いを受ける様になった。 これは取りも直さず世間から散所居住者は即く賎民と見なされることを意味していた。 当時京都市中に存在した散所は、誓願寺・六角堂・空也堂・霊山寺・融通堂・北野天満宮権現堂・七条朱雀権現堂・東山雲居寺などの社寺周辺や北畠・柳原・御霊神社附近などにあった。 また、室町期になると素人による様々な芸能への参加が活発化し、専門芸と区別する意味合いから、手 素人の意味 を付けてて猿楽・手曲舞・手田楽などと呼び盛んに行われるようになった。 中には専門芸 道の芸 が途絶え素人芸のみが残るものも出て来た。 手曲舞が散所の雑芸者に伝わり、道の芸が廃れ、何時しか散所の芸となったのが「曲舞」である。 この散所と念仏聖との結び付きも深く様々な名前で呼ばれる下級宗教者が存在し念仏布教に取り組んでいたが、何時しか宗教活動から離れ芸能活動へと転じる者も出るようになった。 後に禅宗系の僧侶達が宗教的理由から宗派を離れ僧侶身分を放下して、民衆への布教を一義として念仏布教をしていた半俗半僧の勧進聖を「放下僧」と呼んでいたが、天台宗により次第に弾圧され、散所に身を置き布教活動を行うようになった。 特に有名なのが南北朝期に東山雲居寺門前にて説経をして、説経の合間に余興としてササラを摺り、鞨鼓を打って、小歌を歌い、舞 曲舞 を舞っていた「自然居士」で、観阿弥により能「自然居士」「花月」も放下僧を扱ったものである。 しかし、この頃の放下僧は飽くまでも宗教者であり、彼らの行った様々な遊芸は庶民へ説経するための人寄せの手段であった。 室町時代になると宗教者としての放下僧は次第に消え去り。 それに代わって散所芸能者としての「放下 ほうか の徒」に転化するようになって行った。 その芸としては、「看聞御記」応永32年2月4日 1425 条に、「抑放哥一人参、手鞠・リウコ・舞、又品玉、ヒイナヲ舞ス、其有興賜酒」とあり、又、同書嘉吉元年4月8日 1441 条に、「放歌参、手鞠・龍子・品玉等芸其興、細美布一給、りうこ甚上手手也」とあるように、放下僧の説経道具であり、彼等の特徴でもあった「ササラ摺り」の芸は消滅し、輪鼓・手鞠・品玉などの曲芸のほかに放下歌・鞨鼓打ち・曲舞・物語などを主な芸としていた。 彼等の始まりは僧侶身分や自己の階層身分を脱し、真言宗の本拠地である高野山の萱堂の地に厭世隠遁して念仏修業を成していた念仏聖であったが、次第に数を増し、萱堂以外に西谷・千手平を修業の場として集まっていた。 彼らは修業の後に高野聖として、回国遊行して弘法大師信仰と高野山納骨勧誘を主眼に伝導活動を行う事であり、当然念仏僧として弘法大師や高野山に纏わる信仰譚や霊験譚・縁起を唱導説経の形にて語り、一般大衆相手に高野信仰を広めていった。 室町時代以降になると笈に布帛や呉服などを入れて布教の傍ら行商を成して、生活費を稼ぎ出す様になり、「売子 まいす 」と呼ばれる「商僧」となっていた。 後に仏や仏法を売る僧侶を罵る言葉となった「売僧 まいす 」はここから出ています。 空也が起した称名念仏 空也念仏 は連綿として受け継がれ、やがて六波羅蜜寺や空也堂を中心に盛んになっていった。 後に空也堂などの附近にあった散所と密接になり、空也念仏の聖達による散所が形成されるようになった。 空也聖の特色は日常「茶筅」や台所用品である「ササラ竹」を念仏布教をしながら京の市中を売り歩いており、寒中や春秋の彼岸には修業の一環として、瓢や鉢を叩いて念仏や和讃を唱えて市中の墓所や斎場を供養に廻り、また市中の家々を廻り念仏を唱え布施を受けて居たので「鉢叩き」と呼ばれる賎民扱いをされる下級宗教者であった。 なぜ彼等が賎民扱いをされたかと云いますと、二つの理由があります。 一つは散所に住いしたことである。 散所は即ち賎民の集落と見なされたこと。 二つ目は彼等が扱う竹細工が賎民の扱う業種であったこと。 律令時代には上番する隼人より隼人舞と竹笠造作を習得させるために、隼人司に竹細工所が置かれ専従する隷属の雑戸が設けられていた。 雑戸解放後竹細工に従事していた奴婢 被差別民 が、何れかの貴族・社寺を本所として隷属し、散所を形成した処が空也堂の附近であり、この散所と結び付いて空也聖の竹細工の製造販売が成立した。 江戸中期頃から空也堂の念仏聖の托鉢姿である「鉢叩き」の風俗を真似た大道芸をするものが現れ、鉦を叩き歌うように念仏を唱え門付をしたので、彼等を称して「歌念仏」と呼んでいたが、彼等は下級宗教者ではなく物乞いの徒であった。 彼等は古くは陰陽寮 おんみょうりょう の雑戸に隷属し警戒や清掃の役も務める特殊職能 賎民 の下級宗教者であった者達で、律令制度崩壊による雑戸解放に伴い庇護を離れ、集団を組んで散所を作り家々の「キヨメ」や陰陽師として生活する下級宗教者となった。 彼等は本来の宗教職能として平安時代から「金口打ち」を生業として来た。 この金口打ち 金鼓打ち と言うのは、不吉の前兆を予感した時に、不吉を避ける意味合いから当人が寺々を廻り、金鼓を打ち鳴らす風習が行われていたが、次第に当事者に代わり代参して金鼓打ちをする事を業とするものが現れた。 それが陰陽寮雑戸の下級宗教者であった。 右大臣小野実頼の日記である「小右記」長和2年8月30日 1012 条に、「夢想紛紜、令打百寺金鼓 以下六僧日中内了」と、不吉な夢を見たので六人の僧侶をして、一日にて百軒の寺を廻らせ金鼓打ちをさせたとの記述がある。 しかし、鎌倉末期になると、彼等は生活の手段として従来からの下級宗教活動以外に、散所系統の雑芸を習得し法体にて芸能活動を行うようになり、彼等も興福寺などの大寺を本所として「声聞道」の「座」を形成するに至った。 声聞道の職業にどのようなものが含まれて居たかと云うと、室町時代に書かれた「大乗院寺社雑事記」の文明9年5月13日 1477 条に「一切唱聞之沙汰条々、陰陽師・金口・暦星宮・久世舞・盆彼岸経・毘沙門経等芸能」との記載ある。 声聞師の散所としては、奈良には興福寺と大乗院門跡に属する五ヵ所・十座があり、興福寺に対するに人夫役を勤めながら、唱聞道を管掌すると共に七道物と呼ばれる雑芸 鉢叩き・猿楽・歩き白拍子・歩き巫女・金叩き・歩き横行・猿飼 の大和での支配権をも有していた。 また、唱聞師の散所として京都には桜町・柳原・北畠などがあり、全国各地にも散所が存在していました。 室町末期の公家山科言継の日記「言継卿記」に拠れば「桜町、北畠の唱門師が毎年正月に禁中の三毬打 左義長 に囃子役を勤め、正月四・五日にも参内して千秋万歳と称して曲舞を奏した」と記されている。 これら下級宗教者と雑芸を兼ね備える唱聞道の者以外に、早くも南北朝時代に散所声聞師とは別に歌舞遊芸をもって渡世とし、門付を業とする俗法師の「唱門師」と呼ばれる輩が出現した。 この者達は説経師 声聞師 であったが、何時しか堕落して宗教活動を放棄し、日常の生活の糧を得るための手段として、世俗的な説教を家々の門先に立って唱える門付けをして歩くようになった者で、この者を指して人々は「門説経」とか「歌説経」と呼ぶようになった。 しかし、「門説経」と呼ばれてはいるが、其実態は宗門拡大を行う布教の為の説経ではなく、放下師が説経の際に用いた「ササラ」を伴奏楽器として、世俗的な事柄を説経風な節付けにて歌い語る、日々の糧を得るための物乞いの芸に外ならず、人々が蔑視して「ササラ乞食」と呼ぶ仏教から逸脱した賎民芸であった。 彼らの社会的身分は最下層の放浪をなす賎民に外ならず、彼らの芸を聞いてくれる聴衆の多くは下層の庶民層の者たちであった。 これは同じ頃に現れた「浄瑠璃姫物語」を語る者達が、貴賓の席に呼ばれ語っているのとは趣が異なっていた。 その理由は、この「浄瑠璃姫物語」は三河の国の名刹鳳来寺の本尊である薬師瑠璃光如来に纏わる仏教譚であり、三河地方の遊女により語り継がれ、また歩き巫女などにより各地に伝播し、やがて琵琶法師により節付けされ、琵琶を伴奏にして語られる「浄瑠璃」となったものですが、伝播方法が門付芸をなす放浪唱導師の賎民芸でなかった故かと思われます。 やがて門付けの物乞い芸であった門説経の中から、説経本来の基盤である比喩因縁・因果応報・結縁の手法にて物語性を持つ語り物が発生し、時を経るに従い「物乞い芸」を脱し、大道芸に転化させる者が現れた。 室町末期には大道芸の門説経として確立し、伴奏としてササラ以外に鉦・鞨鼓などを用いて語るようになっていた。 唯、浄瑠璃姫物語がその流布の過程に於いて早くから賎民芸より脱し、琵琶法師の芸となって有識者の鑑賞する芸とされ、十二段草子として文字化され広まったのとは異なり、説経節は飽くまでも賎民芸として口伝にて伝承されて来た大道芸であったことです。 説経節の構成は室町時代に出来た啓蒙的、通俗的、娯楽的な御伽草子と呼ばれる説話の手法と同じく、説経世俗化の最たるものであり、特に寺社縁起談、本地談、霊験談が多く、これらに世俗的な恋愛談・嫉妬談・継子談・懴悔談・お家騒動談などを付加して出来上がっています。 江戸時代初期になり当時普及され始めた三味線を伴奏に用いるようになり、また浄瑠璃と同じく西宮戎神社に属する傀儡 くぐつ の芸である「えびすかき」「くぐつまわし」と呼ばれる人形廻しの芸と結び付き、説経系人形劇である「説経操り」が出来上がった。 この説経操りは大道芸を離れ、大勢の観客を対象とする「操り芝居」として、寛永年間を対象とする「操り芝居」として、寛永年間頃に京都四条河原に小屋掛して興行するよう頃に京都四条河原に小屋掛して興行するようになり、口伝にて語り継がれて来たものが正本化される様になった。 現在に伝わる説経浄瑠璃の台本とも言える正本は、江戸時代に入りそれまで口伝にて語り継がれて来たものが説経太夫により文字化したものです。 伝承されて来た説経節の代表的なものは、「五説経」と呼ばれる「刈萱」「山椒太夫」「小栗」「俊徳丸」「愛護若」です。 これら五説経に共通するものは、主人公達が何れも有力な武将や裕福な長者の子供として生を受けているが、何らかの境遇の変化にて不幸になり、最下層の賎民同様な状態となって諸国を放浪するが、何れもが最後には賎民の身を逃れ、昔の身分階層に戻るという構成にて作られていることです。 これは賎民階層として説経節を語っていた者達が、その根底に持っている感情の発露に外ならず、彼らも好き好んで賎民となった訳ではなく、機会があれば現状から脱皮し、人に蔑まれない身分に身を置きたいとの願望を抱いており、この願望を寺社に纏わる霊験談に絡ませて作ったものと考えられます。 この様に門説経と呼ばれた大道芸の中から脱皮して「操り説経」として自立する者達とは別に、従来の門付説経を成して喜捨を受ける物乞芸である「門説経」に説経節は二分される様になった。 しかし、「操り説経」となっても「門説経」と共に、放浪芸を支配する関清水蝉丸宮 後に近松寺 の支配から脱することは出来ず、幕末までその支配を受けていた。 「歌念仏」については項を改めて詳しく述べますが、鎌倉初期に浄土宗の祖法然上人の弟子空阿弥陀仏が、称名念仏の間に文段を入れた事にて始まり、後にこの念仏の仕方が下級宗教者の業となり、やがて宗教色を一掃して大道芸の者達が俗謡俚歌をこの曲節に乗せて勝手気侭に唄うようになったものです。 元禄3年 1690 刊行の「人倫訓蒙図録」七の「門せっきょう」と描かれている絵には、三人連れにて一人はササラ・一人は三味線・一人は胡弓を弾き、編笠を被り、腰には脇差を差し、中の二人は羽織を着ています。 門説経の特徴は室町期に放下僧が行なった「ササラ摺」を伴奏楽器として連綿と継承しておることですが、同画の説明に「小弓引、伊勢会山より出る。 此所のふし一風あり。 小弓はもとは琉球国よりわたすとかや。 小弓引編木摺はわきて下品の一属。 」とあり、胡弓引・ササラ摺は賎民のなす業で、胡弓は伊勢会山より出ると記しています。 この会山と云うのは、伊勢内宮と外宮との間にある「間の山」と呼ばれる山坂の事を指し、この処には伊勢信仰の全国普及が進み、伊勢参宮 お伊勢参り が盛んに成ると、両宮を参詣する人達を相手に伊勢勧進巫女[伊勢本願慶光院 尼寺 の支配下にて伊勢信仰を奉じて全国を歩く勧進巫女]が歌った「歌念仏」を胡弓やササラを用いて唄い、喜捨を得る賎民芸能者や物乞いをする乞食が多数屯していた。 彼らが歌う「歌念仏」をして何時しか「間の山念仏」と呼ぶようになった。 この間の念仏が「間の山節」となり、後に川崎音頭や伊勢音頭となったと云われています。 また、間の山以外にも参詣客を相手にする様々な物乞いが、伊勢参宮街道に多数屯していたそうです。 門説経はササラ摺り以外に三味線の普及と共に伴奏楽器として加え演奏するのが普通であったが、伊勢地方の門説経語り達が更に胡弓を加え、元禄年間には門説経・歌説経の全国的演奏形態として定着していたと思われます。 このように芝居小屋にての上演となると、ストーリーのあるものが必要となり正本 台本 が作られるようになった。 それまで口伝えにて語られて来た説経節も時代の要求故に正本化するようになった。 説経節の初期の正本としては、寛永8年 1631 に「せっきょうかるかや」、寛永末年 1643 には与七郎本「さんしょうたゆう」、正保5年 1648 に佐渡七太夫本「せっきょうしゅんとく丸」などが作られています。 数多くの正本の内、愛護若・信田妻・梅若・山椒太夫・刈萱が五説経 時代により曲目が異なります と呼ばれていますが、他にも小栗判官・志田三郎・熊谷・法蔵比丘などがあります。 これらに共通するのは、唱導説教から発生したものであるため、一般庶民が篤く信仰する神仏を引き合いに出して、その物語が真実であることを信頼させ、聴衆の感動を誘う有効な手段んを取っていることです。 大阪には慶安-明暦年間 1648-57 に佐渡七太夫が出て道頓堀に操り座を建てたが、やがて大阪には名代を置き江戸に進出した。 寛文元年 1661 には先に江戸に進出した天満八太夫 天満座 と競い、大阪七太夫 佐渡座 と呼ばれ延宝・天和年間 1673-83 頃には両座とも確固たる地歩を固めていた。 初代佐渡七太夫の演じる演目は、「しんとく丸」「さんしょう太夫」「おぐり」などの従来からの五説経を中心にした演目であったが、二代目の時代になると江戸にて様々な浄瑠璃が流行し始め、画一的な演目の説経節は次第に飽きられ始め、浄瑠璃系統の演目である「法蔵比丘」「熊谷先陣問答」「ですいでん」「伏見常磐」などを取り入れ、説経節に乗せて演じ、客は離れを回避する手段を成したが享保年間 1716-36 頃を境に世上から消えていった。 佐渡七太夫の進出前の江戸操り説経座は、津村淙庵著「譚海」に「江戸浄瑠璃の始めは結城孫三郎と云う説教節太夫葺屋町にて櫓を上げて興行せしが始め也」[日本庶民生活史料集成第八巻所載・三一書房1969刊行]とあるように、江戸初期に江戸孫三郎が当時の芝居小屋などが建ち並ぶ葺屋町に結城座を開設したことにて始まるが、万治年間 1658-60 に天満八太夫 石見掾 が現れ、寛文2年 1662 には禰宜町に操り小屋を建て興行するようになった。 彼の作った天満座は、宝暦年間 1751-63 頃まで江戸説経座として人形浄瑠璃が流行する中で孤高を守っていた。 元禄年間頃 1688-1703 には江戸の説経座は、堺町に天満八太夫・江戸孫三郎、霊岸島に吾妻新四郎座の三座があって江戸庶民にい流行していた。 「青楼雑記」の[説教の事]の項に、「同じ頃、結城一角といへるものありけり、かれは能説教を語りける、殊に三味線を引くに他の人とかわり左三味線なり、その調子妙にして、いかにしてひくやらん、左り勝手にては成にくき事を奇妙にも能く覚え親しまれ、吉原遊廓の座敷にも呼ばれるくらたりけり。 結城一角は正徳年中也、式部太夫権之丞も浄るり語り、同時代なり。 その頃は説教師はやりけるゆへ、女郎の座敷へも太夫行って、せっきょうを語りける。 中にも結城孫三郎、佐渡七太夫、武蔵権太夫、古天満小太夫、其の後の小太夫近頃まで存世せり。 」とあり、正徳年間 1711-15 には多くの説経太夫が競演して居ることを記しています。 何故説経節が庶民に親しまれたのか、当時の儒者太宰春台は其の著「独語」に説経節の特徴を次のように記しています。 「其の声も只悲しき声のみなれば、婦女これを聞きては、そぞろ涙を流して泣くばかりにて浄瑠璃の如く淫声にあらず。 三線ありてよりこのかたは、三線を合するゆえに鉦鼓を打つよりも、少しうきたつようなれども、甚しき淫声にあらず。 言はば哀みて傷ると言ふ声なり」しかし、この様に庶民に親しまれた説経操り浄瑠璃も享保年間 1716-35 になると急速に衰退していった。 其の理由としては、説経節の演目が少ない故に、江戸浄瑠璃の演目を説経節曲節に替えて演じ、又、寛文年間になると浄瑠璃の序詞と同様な文体で起こし、祝言で結ぶ作品を多く作る事などを試みていたが、次第に飽きられて行った事と、上方にて様々な曲節にて演じられて居た浄瑠璃が、竹本義太夫が語り出した新しい義太夫節と言われる曲節により排除されて、浄瑠璃と言えば義太夫節人形浄瑠璃を指すようになり、近松門左衛門との結合にて元禄年間から多くの世話物人形浄瑠璃を世に送り出し人気を博して居た。 享保初期になるとこの義太夫節人形浄瑠璃が江戸に進出し、心中など庶民の身近なものを題材とした豊かな世話物が江戸人に斬新な感じを抱かせた故に流行し始めた事であった。 説経節浄瑠璃の衰頽に見切りをつけた武蔵権太夫や江戸孫四郎は歌舞伎に身を投じ、結城孫三郎座は説経節から離れ、義太夫節を用る糸操り人形座に転身していった。 「江戸節根元集」によると、「説教節初り年号知らず、延享年中 1744-47 の頃江戸又は田舎祭礼等に折節興業有、太夫に天満万太夫、半太夫、長太夫などとてあり、三絃は盲人竜玄、玄達などいへる者也。 人形は裾より手を指込で一人遣ひにて見合は今ののろま人形也。 古風なるもの也。 隅田川苅萱など段物の操致せしを覚へいると老人の物語り言伝ふ」と、文化年間の伝聞として書かれ、延享年間には江戸には説経節の常設小屋は無くなり、祭礼などに小屋掛けにて興行する程度に廃れて居たことが判ります。 又、「嬉遊笑覧」には宝暦10年 1760 刊行の「風俗陀羅尼」より引用して「いたわしや浮世のすみに天満節」の川柳を乗せ、細々と天満系の説経節が命脈を保っている様を記しています。 説経節操りとして庶民の娯楽として親しまれ、京大阪江戸にて常設操り芝居座が多く設けられ、歌舞伎や人形浄瑠璃と肩を並べ、寛永年間から元禄年間 1624-1703 に掛けて隆盛を見せていたが、次第に歌舞伎や人形浄瑠璃に圧され衰退し、宝暦13年 1763 頃は消滅した。 又、五説経はじめ多くの説経節の演目は、説経節の衰退と共に人形浄瑠璃に吸収され、浄瑠璃化され上演される様になり、この中には後に歌舞伎化されたものもあります。 元禄16年 1703 9月豊竹座。 義太夫浄瑠璃「信田森女占」[紀海音作]享保19年 1734 10月竹本座。 義太夫浄瑠璃「芦屋道満大内鑑」[初代竹田出雲作]。 この曲は紀海音作「信田森女占」に拠り、信太の森伝説と安倍晴明伝説を結び合わせた作品で、四段目「葛の葉の子別れ」が有名です。 同年同月竹本座。 義太夫景事物「葛の葉の道行」別名「信田妻道行」。 四段目「子別れ」に続く「信田の二人妻」の前半にて、狐葛の葉が夫安倍保名と別れ、信田の森の古巣へ帰って行く部分です。 享保20年2月京都中村富十郎座にて前年10月竹本座初演浄瑠璃を歌舞伎化し、同名本名題にて初演。 同年11月江戸中村座。 一中節「信田妻」本名題「かん菊釣香炉」[二代目都一中作曲]。 元文2年3月 1736 江戸中村座初演。 原拠は半太夫節「神刀小鍛冶初午参」の五段目道行。 安倍保成の妻手がしはが狐である事が露見、信田の森への道行。 安永2年閏3月 1773 豊竹座。 義太夫浄瑠璃「信田妻今物語」。 二段目義太夫景事物「保名狂乱の段」より、後に清元「保名」が作られた。 天保2年9月 1831 江戸中村座歌舞伎狂言「信田森鳴響嫁入」大切所作事、四世中村芝翫四変化「四季詠所作の花」の一つとして、常磐津・長唄掛合「葛の葉」[松井幸三作詞、常磐津五世岸沢式佐・長唄杵屋六左衛門作曲]が作られた。 「芦屋道満大内鑑」の大詰「信田の森の場」を改作した曲です。 この作品は説経浄瑠璃「刈萱」・謡曲「刈萱」・古浄瑠璃「くずは道心」などを原拠にして、これに「女性の髪の毛が嫉妬の蛇と化して食い合う」という説話を取り入れて作られております。 特に五段目「高野山」は、石童丸が顔も知らない父を探しに高野山を訪れる段で有名です。 元文元年 1736 大阪中山座に於いて義太夫浄瑠璃「刈萱桑門筑紫イシズエ」が同名題にて歌舞伎化され上演。 天保8年-文久元年 1838-61 新内節浄瑠璃「石童丸」本名題「刈萱桑門筑紫イシズエ」別名「高野山」。 義太夫浄瑠璃「刈萱桑門筑紫イシズエ」の五段目より作曲。 初代冨士松魯中作曲。 明治28年-大正8年 1895-1919 筑前琵琶「石童丸」初代橘旭翁作曲。 各種先行曲や縁起伝説に拠り作曲。 明治39年-昭和2年 1906-27 錦心流薩摩琵琶「石童丸」初代永田錦心作曲・四竃納治作詞。 筑前琵琶「石童丸」と同じ内容である。 元文3年8月 1738 大阪竹本座にて義太夫浄瑠璃「小栗判官車街道」初演。 松田文耕堂・千前軒 竹田出雲 合作。 寛保2年 1742 大阪嵐座にて本名題「小栗判官車街道」にて歌舞伎化され上演。 別名「小栗判官照手姫」または「小栗判官」と呼ばれ、現在でも上演されている。 義太夫節舞地「小栗曲馬物語」 義太夫浄瑠璃「小栗判官車街道」四段目大切より取って作られている。 浄瑠璃物地唄「小栗」近松東南作詞作曲。 義太夫節浄瑠璃「小栗判官車街道」四段目に拠り、照手姫の熊野本宮湯元への道行を唄っている。 菅専助若竹笛躬合作。 謡曲「弱法師」と説経節「愛護若」「俊徳丸」を混ぜ込みにた浄瑠璃「莠伶人吾妻雛形」を更に脚色した作品である。 明治18年7月東京桐座にて本名題「摂州合邦辻」にて歌舞伎化され上演。 現在は下の巻「合邦庵室の場」のみが上演される。 享保4年9月 1719 豊竹座いて義太夫浄瑠璃「三枡太夫葭原雀」上演。 紀海音作。 享保12年8月 1761 竹本座にて義太夫浄瑠璃「三枡太夫五人嬢」上演。 竹田出雲作。 宝暦11年5月 1761Z 竹本座にて義太夫浄瑠璃「由良湊千軒長者」別名「三荘太夫」。 二歩軒・半二・北窓俊一・三郎兵衛・松洛合作。 天保8年7月 1837 市村座にて本名題「由良湊千軒長者」として歌舞伎化され上演。 中の巻「鶏娘」では、三荘太夫の娘おさんは親の因果が子に報いの譬えの如く盲目であり、雪中に白鶏を追うおさんの凄惨な姿は女形の見せ場と言われています。 宝暦3年5月 1753 竹本座にて義太夫浄瑠璃「愛護稚名哥勝鬨」上演。 外記・閏介・冠子・松洛・半二合作。 近松門左衛門作。 以上縷縷と説経節について述べて来ましたが、大道芸として世に出た説経人形操りは大衆に支持され、一時は歌舞伎芝居に伍した娯楽であった。 しかし上演演目の少なさが次第に観客に飽きられ、新しく世に出て来た江戸浄瑠璃や義太夫浄瑠璃の演目を説経化したりして、態勢の立て直しを図ったが、義太夫浄瑠璃の斬新さに観客を奪われ衰退し、演奏者自体も見切りを付け、義太夫節浄瑠璃に転向して行き、やがて消滅した。 その曲節や題材は先述した様に義太夫節始め様々な浄瑠璃の中に残っています。 同じく宗教より発生した芸能に「祭文」を源にしたものがあります。 また、この祭文系統の芸能と説経節とが結び付き新しい芸能が起きておりますので、これから暫くは祭文について述べて見たいと思います。 「祭文」と云いますのは、本来は祭事の際に祭主が神仏に対する祈願や祝詞 のりと として用いた文章の事を指した言葉でした。 その基は中国の儒教に於いて、先帝の霊や天神などを慰める祭事に用いられたものですが、中国から儒教伝来以後、我が国では陰陽道・儒教・神道・仏教など様々な宗教にても用いられ、特に平安時代の祭文には陰陽道的色彩が濃厚に表れていると云われています。 我が国での祭文で最も古い用例としては、「続日本紀」延暦6年11月5日 787 条にある「祀天神於交野其祭文曰」[交野に於ける天神を祭りし、その祭文に曰く]と云われています。 祭文の形式としては、神道を例に取りますと、「謹上再拝謹啓」とか「奉る」で始まり、賛嘆や祈願の主意を述べ、最後に「再拝」や「敬白」の語にて結ぶようになっています。 また、巫女が神降ろしの際に唱える呪詞も祭文です。 本来祭文は神前にて述べる告文でしたが、祝詞とは異なり面白い節を付けて読み上げられていました。 この宗教上用いられる祭文を源に、後に声明、説経節、浄瑠璃などと融合して様々な芸能を生み出しています。 今回からは芸能化して行く過程を述べて見たいと思います。 修験道の本願は、果敢に各地の霊山と呼ばれる山々に登攀し、危険に身を曝すことにて自己の精神や肉体を鍛える霊力を身に付ける「行」をするために、峰入りすることにあった。 これらの激しい修行により凡俗の煩悩を断ち切り、成仏の悟りを開くことにて、修行の実践の場として里に下りて、真言密教の呪法を行ない、人々の帰依信心を得る事が出来た。 里に下りた修験者は自己の研鑚を開示して帰依する信者を獲得し、それを檀家として加治祈祷に当っていた。 山伏と呼ばれる由縁は、修行の過程にて山中修行にて山に臥し、また諸国行脚の際に山野に臥すことから、何時しか「山伏」「山臥」と呼ばれる様になったと云われています。 山伏信仰の基盤は真言密教の為、その本尊である金剛蔵王権現や不動明王を念持していたが、檀家の要望によっては他宗の本尊である観音信仰や阿弥陀信仰による読経も行なう融通無碍な対応能力をも持ち合わせる者達であった。 中世なると修験道の山伏が修行や勧進のために諸国行脚をする際に、地方の民家に宿り、依頼により加持祈祷を行なう時の願文には祭文が用いられており、彼らの読み上げる祭文をして「山伏祭文」と呼んでいた。 しかし、加持祈祷の後の直会 なおらい と呼ばれる慰労会の場にての余興に彼らが考え出したのが、身に付ける錫杖や法螺貝などを伴奏として用いて、世俗的な内容の語りを祭文の形式の則り作り上げた語り物であった。 やがてこの語りを声明等の節付け乗せて語る様になり、これが娯楽性の乏しい山間部や農村部の民衆に喜ばれ、「山伏祭文」とか「もじり祭文」と呼ばれるようになった。 また、巫女の呪詞祭文も歩き巫女により、山伏祭文と同じ経過を辿り俗化し歌謡化していった。 山伏や願人坊主は、自らが奉じる祭神やその神社仏閣の縁起を説く祭文や「胎内巡り」「賽の河原」などの宗教色の強い唱導祭文を持って諸国を回遊していた。 宿先にての余興芸として、祭文に当意即妙な諧謔を加えた「もじり祭文」「若気祭文」などを演じて庶民に喜ばれていたが、あくまでもこれは余興であった故に、これらの祭文は「そもそも勧進降ろし奉る」とか「そもそも祓い清め奉る」などの言葉にて始まり、「請願は成就皆満足せしむ敬って申す」などで終わる祭文本来の形式を踏まえて作られていました。 この山伏による山伏祭文は宗教家しての山伏により連綿と継承されて来たが、何時しか「もじり祭文」は山伏の手を離れて一人歩きし、脱落した山伏や大衆芸能者により語られるようになり、その内容も益々俗化し、錫杖や法螺貝などの法具による伴奏が三味線に替わっていった。 江戸末期になると宇都宮の在方に三味線に変え、法螺貝のみを伴奏とする「貝祭文」と呼ばれる山伏祭文が現れ、やがて法螺貝を用いず法螺貝の音色を口真似して「でろでんでろれん」と伴奏する「でろでん祭文」が生まれて一世を風靡した。 又、この口真似に変えて木魚を伴奏にして祭文を経文めかして語る「阿呆陀羅経」も起こり流行した。 中でも願人坊主などによる物乞い芸である門付芸となったのを「門付祭文」と呼んでいた。 江戸に於いて、特定の社寺には属さず、寺社奉行の管理監督を受けて、日本橋橋本町に願人坊主を管理する宿泊施設が置かれており、仕事は鞍馬寺とさほど変わらず、武家方や町家よりの依頼にての日待月待の代参、様々な社寺の依頼による札配や勧進をしていた。 しかし、次第に寺社奉行の管理を嫌い、自由奔放に生きる事に目覚め、長屋などに住み着き、依頼による代参や札配にて生活の糧を得、その傍ら町中の辻々にて住吉踊を披露する大道芸能者となっていった。 天和・元禄年間 1681-1704 になると、歌祭文の詞章の内容も一変し、天災地異や当時流行始めた駆落ち・心中事件など庶民が興味を持つニュース性の高いものが主体となり、語る口調も「口説」の調子にして三味線に乗せて唄い、三都にて流行した。 また、この歌詞を瓦版に仕立て街頭や社寺の境内など群衆の集まる場所にて、唄いながら売りさばいて居たので、現在のワイドショー的な存在で事件を広く報じる役割を担っていた。 当時上方にて流行し始めた義太夫節人形浄瑠璃には、これら瓦版にて心中事件を知り、浄瑠璃化し舞台に掛け人気を博したものが数多くあります。 特に大阪ではこの歌祭文が人気を得て、生玉神社の境内に歌祭文を常打にした小屋が出来ていたと言われて居ます。 世間で持て囃された歌祭文の内で代表的なものは、実録物である「おさん茂兵衛」「お千代半兵衛」「お俊伝兵衛」「お初徳兵衛」「お染久松」「お夏清十郎」「八百屋お七」「小三金五郎」などで、近松門左衛門や紀海音の浄瑠璃作品にも取り上げられ、以後の世話物浄瑠璃に多大な影響を及ぼしております。 また、後に様々な三味線音楽に歌祭文の曲節が取り入れられています。 一例を上げますと、清元の「道行浮塒鴎 お染 」では、 「ここに東の町の名も 聞いて鬼門の角屋敷、瓦町とや油屋の 一人娘にお染とて年は二八の細眉に 内の子飼いの久松と忍び忍びの寝油を 親達や夢にも白絞り 二人は苔の花盛り しぼりかねたる振りの袖 梅香の露の玉の緒の 末は互いの吉丁字 そこで浮名の種油 意見まじりに興じける」 と、お染のバックグランドと久松との不義密通の状況を歌祭文にて唄っています。 このように一世を風靡した歌祭文も、宝暦年間 1751-63 になると京大阪江戸などの大都市では急速に衰退して行き、その残滓は地方の盆踊り歌として残り、また瞽女歌として各地の瞽女により歌い継がれて行きました。 尚、筆者が子供の昭和20年代の始め頃、東京でも神社の祭礼時の夜店に「覗きからくり」にて「不如帰」や「八百屋お七」を歌祭の節付きにて聞いた記憶がありますが、現在ではどうなっていますか。 皆様ご存じの義太夫浄瑠璃「新版歌祭文 お染久松 」の野崎村の段にて弾かれる連弾 野崎 は歌祭文の曲節を変化させたものと云われています。 四代目の時に幕府瓦解に遭遇し、それ以後は八王子の郷土芸能である車人形の地方 じかた として存続して現在に至っている。 又、天保7年 1836 頃に名古屋の新内語り岡本美根太夫が、新内節に説経祭文の節を加味して祭文江戸説経節を創設した。 明治5年 1872 に弟子の美根松が説経源氏節と改称し、後に源氏節と改めた。 又、美根太夫の妻美家古が女性の弟子を多く育て、源氏節を地として芝居を演ずる様になり、名古屋にて評判を得、明治30年 1897 頃には東京に進出し、当時流行の女義太夫を凌ぐ名声を博したが、彼女たちの演技が卑猥なために当局により上演禁止となり、以後衰退の一途を辿った。 現在この系統を引く一座が名古屋市の在の甚目寺にあって定期的に公演をしています。 謡曲や浄瑠璃など、今日においても演者が存在する芸能のうち、説経と接点を有するものを手がかりに、その実態にせまる試みがあってもよさそうであるが、いまのところそのような業績もないようなので、筆者のような門外漢には、はたと判らずじまいなのである。 しかし、今日に伝わる説経の台本の中には、語り方に関する記号を付したものがあって、それを手がかりにして、些細ながら、語り方の一端にせまことができるのではないか。 そんなことに思い当たって、しばらく無謀な推論を展開してみようと思った次第である。 正保5年 1648 、佐渡七太夫正本として刊行された「しんとく丸」には、「ことば」や「ふし」といった節付けをあらわすと見られる記号が、比較的丹念に付されている。 その種類には、ほかに、「ふしくどき」、「つめ」、「ふしつめ」などがあり、「きり」という記号を付した本も見当たる。 本を眺め渡してみると、おおむね「ことば」と「ふし」とが交互に並び、その間に「くどき」や「つめ」が要所要所を締めるようにして入れられている。 「ことば」は話すようにして語られた部分で、「ふし」は文字とおり節をつけて歌うように語られたのだろう。 「くどき」は感情の高まりを示すように、くどいように語られ、「つめ」は場面の展開に区切りをつけるために、激越な表現で語られたと思われる。 ことばと節を基調に、時に激越な表現をまじえることにおいては、謡曲の表現様式に近いといえる。 しかし、謡曲は笛や鼓、太鼓を伴奏にして、音楽的な要素に富み、節回しも繊細で、表情に富んだものであるが、説経の場合には、あくまで「ことば」で語る部分が中心で、音楽的な要素は弱かったと思われる。 そもそも、ささらを唯一の楽器として伴奏していたのであるから、謡曲とは比較すべくもないのかもしれない。 18世紀はじめ頃の説経の語り方について、太宰春台が次のように書いている。 「其の声も只悲しきのみなれば、婦女これを聞きては、そぞろに涙を流して泣くばかりなり、浄瑠璃の如く淫声にはあらず、三線ありてよりこのかたは、三線をあはする故に、鉦鼓を打つよりも、少しうきたつようなれども、甚だしき淫声にはあらず、云はば哀れみて傷るといふ声なり、浄瑠璃に比ぶれば少しまされる方ならん」 哀れみて傷 やぶ るとは、どんな声をいうのであろうか。 想像するのはむつかしいが、おそらく単調な歌い方の中に、力のこもったものがあり、それが聞くものに、静かな、時には激しい感動を呼び起こさせたのであろうか。 徳川時代も中期にさしかかったこの時期、説経も浄瑠璃と同じように三味線を使うようになっていた。 それでも春台は、説経の語り方は古体を残し、浄瑠璃のごとき淫声にあらずといっている。 淫声とは、人の意表を突くような歌い方をさしていうのであろう。 それに比べ、説経は話者も原則として一人であり、音曲に流されることなく、語りとしての伝統を守り続けたのだと思われる。 語りは、日本の芸能の中でももっとも民衆の感性に根ざし、それ故、いつまでも人の心をとらえる力を持っていた。 だが、時代が移るにつれ、芸能にも音楽的な要素を始めとして新しい風が吹くようになる。 説経は、この動きに対応することなく、何時までも古体にこだわり続けた。 そのことによって、ついには、民衆に飽きられるに至ったのであろう。 徳川時代の前半に刊行された版本が数点残っており、それが書物として流通してもいるので、わずかにそれを頼りに雰囲気の一端に触れることができるばかりである。 それでも、説経というものが持っていた、怪しい情念の世界が、現代人にも激しい感動を呼び起こす。 日本人の意識の底に、澱のようにたまっている情動のかたまりが、時代を超えて反響しあうからであろう。 説経が芸能としてもっとも盛んだったのは、慶長から元禄にかけての頃とされる。 徳川時代初期のほぼ17世紀いっぱいに重なる時代である。 この時代は、浄瑠璃もまた盛んに行われていて、両者は相互に影響しあい、説経も三味線や操り人形を取り入れて、元禄の頃には、劇場芸能としての体裁を整えていた。 劇場に進出する以前の説経は野外の芸能であった。 「洛中洛外図」の一つに、三十三間堂境内で説経を演ずる者達の様子を描いたものがあるが、そこに描かれている説経者は、土の上に敷かれた莚の上に立ち、長い柄の大傘をかざし、両手でささらをすりながら語っている。 説経者を取り囲む聴衆の中には、すすり泣いている者が描かれており、説経が演者と聴衆との間の、濃密な空間の中で語られていたことを想像させる。 莚と大傘とは、説経の目印であったようだ。 莚を以て舞台となし、大傘を以て非日常の演劇的空間を創出せしめたのであろう。 また、ささらは語りの効果を高めるための唯一の楽器であった。 ささらは、竹の先を細かに割って、茶筅のような形にし、簓子と呼ばれる細い棒でこすって、「さらさらさら」という音を立てる。 楽器というには、あまりにも原始的であるが、その「さらさら」という音が、時には緩く、時には急迫し、語りにムードを添えたのであろう。 ささらは説経の象徴のようなものであったから、説経を語るものを「ささら乞食」といった。 中世における説経は、乞食同然の漂泊の者たちによって語られたのである。 彼らの前身は、あるいは念仏聖や高野聖のような遊行僧であったかもしれない。 これらの遊行僧たちも、各地の寺院を拠りどころにしながら、全国を漂泊して、説教や念仏語りをしていたのである。 しかし、中世も後期になると、説経者たちは、逢坂の蝉丸神社を拠点にして、芸能者として職能集団を作り、各地の寺院の広場において、聴衆を相手に語るようになった。 中世の大寺院は、大勢の人が集まる場であり、またアジールとしての役割も果たしていた。 非日常的な空間として、芸能者の営為が成立しやすかったのである。 説経の題目は、「かるかや」や「さんせう太夫」など、五説経と呼ばれるものを中心にして、その数はあまり多くはなかったようである。 それらの比較的古い形のものを見ると、神の縁起を語る本地物という体裁をとっている。 たとえば、「をぐり」の場合には 「そもそもこの物語の由来を、詳しく尋ぬるに、国を申さば美濃の国、安八の郡墨俣、たるいおなことの神体は正八幡なり、荒人神の御本地を、詳しく説きたて広め申すに、これも一年は人間にてやわたらせたまふ、凡夫にての御本地を、詳しく説きたて広め申すに」 とあるとおり、この物語の二人の主人公、小栗判官と照手姫の、神となる以前の姿を語るのだといっている。 「をぐり」にせよ、「さんせう太夫」にせよ、説経の中で語られる世界は、きわめて宗教性の強いものであった。 しかしそれは整然とした教義を説くようなものではなく、救いや再生といった民衆の願いに直接うったえる、情念的な世界であった。 中世の民衆は、戦乱の中で抑圧され、この世に希望をもてないものが多かったに違いない。 そんな彼らに向かって、説経者たちは、抑圧と開放、死と再生、憎しみと愛を語った。 語りの一々は、時にはおだやかに、時には荒々しく、人間の情念を飾りなく表現したものであり、当時の民衆の心に直接訴えかける言葉からなっていた。 説経の主人公は、抑圧されたものであり、乞食同然の下層民として描かれている。 かれらは、重なる迫害に耐えながらも、自分の強い意志によって行動し、最後には抑圧者に残酷な復讐を成し遂げる。 聴衆は、説教のこんなところに、自分の魂の開放を感じ取ったに違いない。 このように、説教というものは、演者と民衆との間の濃密な空間の中で語られることにより、民衆のエネルギー、つまり愛や情念といったものを蓄積していったのであろう。 その愛や情念が人間の本源を照らし出す限りにおいて、時代を超えた普遍性へとつながっていったのである。 説経は、元禄時代に劇場芸能として最盛期を迎えた後、浄瑠璃との競争に敗れて、芸能の表舞台から消え去った。 浄瑠璃が、近松門左衛門をはじめ、新しい作品を導入して時代の要請に応えたのに対し、説経はあまりにも古体にこだわった結果であった。 衰退期の説経について、儒学者太宰春台が「独語」の中で、次のように書いている。 「昔より法師の説法に、因果物語をする類あり、其物語は俗説に任せて慥ならぬ事も多けれども、詞は昔の詞にて賤しき俗語を交へたる中に、やさしき事も少からず、其の上幸若の舞の詞の如く、昔より定れる数ありて、いつも古きことのみを語りて、今の世の新しきことを作り出さず、其の声も只悲しきのみなれば、婦女これを聞きては、そぞろに涙を流して泣くばかりにて、浄瑠璃の如く淫声にはあらず。 」 徳川時代後期、説経は都会から離れ、農村部を舞台にして、乞食同然の者が門付けしながら語るものに成り代わった。 維新の後、薩摩太夫という説教師が会津にはいったところ、会津のひとびとが仇敵薩摩を名乗るものだといって、太夫を迫害したため、薩摩太夫から若松太夫へと名を改めた、こんなエピソードもある。 お経は、それ単体ではただのテキストで、文学でも芸能でもない、庶民的感覚では「面白くないもの」です。 それを一般的な人々に説き聞かせるには、どうしてもひと工夫いります。 仏教に関しては先輩の中国では、工夫のひとつとして、経典をより効果的に聴く人に印象付けるため、お経が教えるものを最もよく表す民話や説話を探し出し、お寺や街頭でお経のかわりにそれらを語り、以って経典の布教とすることが行われ、これを「説経」と呼んでました。 仏教が日本に伝えられると、この「説経」という方法も同時に輸入されてきましたが、日本で本格的になったのは平安中期、おおむね西暦1000年ごろといわれています。 このころ、末法思想とよばれる世紀末観が日本で広まりましたが、時を同じくして空也上人に代表される「念仏」がはやりだし、次第に仏教は寺院での活動から街頭に出ての布教にスタイルが変わっていきました。 そうなると布教の対象も、教養のあった貴族に比べ文字の知識にも乏しい庶民を相手にしなければならず、よりわかりやすい布教の方法として「説経」が広く行われるようになったのです。 このころの「説経」の具体的な方法についてははっきりしたところはわかっていませんが、同時代の清少納言が「枕草子」で「説経師なるものは顔の美しいものがよい」という記述があることから、内容よりも視覚的な部分が強調される、一種芸能的な要素が生まれていたものと想像されます。 さて、このころ「説経」の中で語られた物語にはどういうものがあったか。 それは同時代に編纂された「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」などの物語集からうかがい知れます。 これらは当時巷で語り継がれていた物語を集めたものですが、仏教思想が色濃い内容から察するに、僧侶たちが寺院あるいは街頭で「説経」したものも多く含まれていると思われます。 こういう物語のことを「唱導文学」と呼んでいます。 ただ、何の変化もない素語りではよほど内容がドラマチックでもない限り、だんだん飽きがきてしまうのはお分かりいただけると思います。 ですから次第に、人によっては抑揚を入れたり、楽器とはいわぬまでも、何かをたたくか鳴らしてアクセントをつけたり、あるいは自分で舞を舞ったりと、相手により効果的に物語を伝える方法を考え始めました。 鎌倉時代に入り、笛や琵琶のような楽器が成長してくると、語り部は語りとのマッチングをさまざまに試みるのでした。 「平家物語」には琵琶を用いた「平曲」、あるいは「平家読み」と呼ばれる独特の読み方がありますが、これはまさにその工夫のひとつです。 また物語とは異なりますが、小栗判官ゆかりの神奈川県藤沢市の遊行寺を本拠としていた時宗は、独特のダンスで人目をひきつけて布教する「踊念仏」を行っていました。 こうした芸能的な要素を伴った布教を「唱導芸能」と呼びます。 楽器や舞が導入されると、布教とあわせて娯楽性の追及が始まり、やがて娯楽性のほうが重きをなしてきます。 布教の徒とは別に、行為そのものを生業とする職業集団も現れます。 代表的なところでは観阿弥・世阿弥に代表される申楽=能とのちに称する所の集団ですが、語りをメインとする集団としては唱門師があげられます。 唱門師は下級階層の僧侶とも、いわゆる乞食の集団とも伝えられていますが、巷間を流浪し、竹の一節の先を細かく裂いたものをギザギザを入れた別の竹とすり合わせて音を出す「ささら」や、腹にぶら下げた鼓を撥でたたく「鞨鼓」などの楽器を用いながら、主に仏教思想のひとつである因果応報話を語り歩いていました。 元禄5年刊の『諸国遊里好色由来揃』に記載された「説経之出所」によると、そうした集団には、伊勢国 現在の三重県 出身のものが多かったようです。 これが室町時代に入ると、語り継ぐ物語の中に「刈萱」「小栗判官」「山椒太夫」「俊徳丸」「愛護若」のいわゆる五説経があらわれ、内容も洗練されていくと文学的な評価も受けるようになります。 慶長年間 1596〜1615 の京・四条河原の情景を描いた『歌舞伎図巻』 徳川美術館所蔵 には、河原にむしろをしき大きな傘を立てて、ささらをすりながら物語を語っている説経師の姿が描かれていますが、現在の資料としてはこの絵の姿が、往時の説経師の風体を偲ぶよすがとなります。 この絵に関する注釈とされる、天保14年刊の『イン 竹へんに「均」という字 庭雑考』 喜多村信節著 には、「慶長中の絵、ささら摺説経、人の門戸に立ちて語るを門 かど…雛太夫注 説経といふ」とあります。 このころには職業としての「説経」という呼び名が確定していたようです。 当時の多くの音曲が執に三味線を取り入れていく中、説経師も例外ではなく、手に持つものをささらから三味線 胡弓を弾いていたこともあるらしい に変え、音楽的に変革していきます。 さらに、京・大坂・江戸の三都で、三味線にあわせて語られる物語ー浄瑠璃に乗り、操 く り人形を使った芝居が興行され始めると、説経節も浄瑠璃のひとつとして舞台に登場するようになりました。 その初めは大坂 説経 与七郎という太夫で、寛永初年のことと考えられています。 具体的な語り物としては、寛永16年頃刊の天下一説経与七郎正本『さんせう太夫』が伝えられています。 与七郎の系統ではのちに説経与八郎という太夫が現れ、ほかに大坂では佐渡七太夫 与七郎の弟子とも考えられている 、京では日暮小太夫、日暮八太夫が現れます。 佐渡七太夫は後に江戸に下り、大坂七太夫と名乗って公演を行います。 七太夫の語りとしては正保5年 1648 3月刊の天下無双佐渡七太夫『せっきょうしんとく丸』『おぐり』、明暦2年6月刊の天下一説経佐渡七太夫『せっきょうさんせう太夫』が伝わっています。 江戸ではもうひとり、天満八太夫という太夫も活躍し、八太夫はのちに受領 宮家から領地を賜ること し、石見掾藤原重信を名乗りました。 これら前期説経節は、寛文 1661〜73 頃に最も活況を見せ、「他の浄瑠璃のような淫らな声をせず、破れるばかりの声が哀れさを誘う」 太宰春台『独語』より、雛太夫意訳 と高く評価する人もいましたが、時がたつに連れて浄瑠璃が進化を遂げ、義太夫や豊後節 常磐津・清元 などより音曲的に洗練されたものが出始めると、説経節による興行は「古いもの」として数を減らしていきます。 ほんとうならばここで説経節も新しい展開を遂げるべきところですが、それができづらい事情が説経節にはありました。 説経節が語る五説経などの物語は、発生の時点で因果応報など仏教思想を色濃く引きずっており、それを捨ててしまうと説経節でなくなってしまうという事情がありました。 そのため、たとえば新作を生むにしても、説経節=仏教説話が持つ「暗さ」と現代的センス もちろん、江戸時代前期の都市文化としての はギャップがありすぎて同一化できない難しさがありました。 それが義太夫で言うところの近松門左衛門のような名作者が生まれなかった理由でしょう。 内容の固定は音曲の固定にもつながり、三味線の手にしても義太夫ほど高度なものが結局生まれなかったと伝えられます。 これらは現在私たちが語り伝えている説経節についてもいえる課題なのです。 新しい展開を見せられなかった説経節は、六代将軍・徳川家宣の時代である正徳期 1704〜1716 にはほとんど絶えてしまいます。 このころ活躍した2代目佐渡七太夫豊孝が、おそらく前期説経節の最後の光です。 喜多村信節の雑文集『嬉遊笑覧』には、宝暦10年刊の「風俗陀羅尼」からの転載として、 いたはしや浮世のすみに天満節 という一句を載せています。 「いたはしや」というのは説経節独特のフレーズで、それが流行の片隅に追いやられているありさまを表現しており、終末期の前期説経節の哀れさを感じさせます。 五説経のひとつの「小栗判官」や「刈萱」は義太夫狂言に取り入れられ、新しい形で伝えられていきましたが、そのほかの物語は山伏などの修験者によって受け継がれました。 詳しい経緯は不明ですが、山伏の間には祭文 さいもん と呼ばれる物語形式が伝わっており、錫杖やほら貝を楽器としてやはり布教を目的とした物語を語り歩いていました。 そういう点は当初の説経師のスタイルとよく似ており、山伏のほうでも受け入れやすかったのでしょう。 こうしていったん祭文に組み入れられた説経節は、新たなにない手・薩摩若太夫の出現する寛政年間 1789〜1800 までの100年間、ほそぼそと潜伏期間を送るのでした。 二人が面白く語るので、やがて聴衆の中から二人のまねをして物語を語る人があらわれ、庚申の夜 言い伝えにより、60日に1日寝てはいけないとされる日 や祭りの日にカラオケならぬカラ説経節をしていました。 その一人に、江戸本所四つ目に米屋を営んでいた、米千こと千代鶴近八という人がいました。 米千は並み居るにわか説経師の中でもとりわけうまく語るので、評判は随一でした。 また、たまたま米千の家の隣には盲人の三味線弾きがおり、米千の語りに合わせて三味線を入れてみたところ、新しい語り物としてさらに評判を集めました。 当初は寄席がなく、お茶屋の2階などで演奏していたそうです。 やがて米千に芝居への参加のオフゼがあります。 ところは結城座と並ぶ江戸人形芝居の拠点・堺町の薩摩座。 ここで米千は盲人と組み、初めて人形とのセッションを試みました。 これにちなみ、米千は小屋の名前にちなみ「薩摩若太夫」と、盲人は「京屋五鶴」と名乗りました。 ここに後期説経節、私たちまでつながる薩摩派説経節が誕生したのです。 さて、このころ若太夫が語っていたものは、山伏から受け継いだということもあり、厳密にはまだ説経祭文と呼ばれていました。 我々薩摩の太夫が語り継いでいるのはもちろん初代若太夫の編み出した節回しですが、時代を経て多少の変化は生まれているでしょうから、初代若太夫が語っていた「説経祭文」がどういうものであったかは推察の域を出ません。 残された資料によれば、若太夫も五鶴も山伏から受け継いだものにいろいろ工夫を加えましたが、その工夫のよりどころはやはり義太夫や新内といった説経節よりあとにできた浄瑠璃のようで、復活に際しそれらの影響を受けなければならなかったところが説経節の背負った運命の皮肉といえるでしょう。 工夫を加えたとはいえ、骨格は前時代の説経らしさを維持していましたので、ある程度の注目を得るとすぐに熱は冷めていきました。 どうしても説経節は都会の洗練された雰囲気とあわないようです。 若太夫は弟子を多く持ちましたが、二代・三代と代を重ねるにしたがって、初代の勢いも次第に失われ、明治の6代目若太夫 古谷平五郎 に至って、ついに江戸を離れ、郊外に拠点を移します。 実は江戸市中で熱が冷めていった時期、逆に郊外の農村地帯には、若太夫の説経節が広く伝わっていったのです。 広めたのは主に、地方在住の神楽師や陰陽師たちでした。 たとえば5代目若太夫 諏訪仙之助 は板橋の神楽師で、説経節を多摩地域に移した6代目の若太夫は秋川村 現・東京都あきる野市 二宮の神楽師、また現・埼玉県狭山地方に説経節を持っていった初代津賀太夫 石山美濃守 は陰陽師でした。 神楽師や陰陽師が説経節を伝えたのはあるいは偶然かもしれません。 しかし、神楽師は陰陽師の職業の一部が独立したもので、いってみれば両者は兄弟関係にあり、そして陰陽師はもともと山伏の仕事でした。 そう考えていくと、神楽師や陰陽師が説経節を伝えていったのは、なんとなくわかる気がします。 元山伏の血がなせる業ということといえるでしょうか。 5代目若太夫には弟子が多数いました。 秋川の6代目若太夫からは七 沢田春吉 ・八 沢田良助 ・九代 加藤健次郎 の若太夫が生まれ、戦後に浜中平治が10代若太夫を継ぎますが、この一派は6代以降義太夫の影響を強く受け、曲調も義太夫のそれにかなり近くなり、本来の説経節の曲調から離れていきます。 よって浜中平治の10代目は、襲名の経緯でもトラブっていることもあり、のちに本流の座を内田総淑に譲ります。 この流れは古柳座最後の座付説経節太夫・11代目若太夫 石川浪之助 から現・9代目津賀太夫 宮田光雄 に受け継がれています。 やはり5代目の弟子の一人薩摩駒木太夫 小室太十郎 は八王子を中心に活躍します。 駒木太夫は5代目から受け継いだ説経節の古格を忠実に守り、それは弟子の駒和太夫 松崎常蔵 、さらにその弟子の内田総淑 1893〜1984 に受け継がれます。 内田は戦後、研究家たちから「古格の説経節を守る人」と認められ、昭和37年に10代目若太夫を襲名します。 10代目は昭和59年に亡くなり、芸脈は一時途絶えますが、その曲風は直弟子の梅田和子や古屋要平 12代目若太夫 を通じて長唄三味線方の杵屋徳波が受け継ぎます。 徳波は説経節の48節を楽譜化して演奏可能にし、自ら京屋波と名乗り、数人の弟子たちとともに公演活動を行っています。 また、初代若太夫の弟子の初代薩摩津賀太夫 石山美濃守 のそのまた弟子の山岸柳吉は説経節にあった人形芝居を考えようと、大坂の文楽座で8年間修行したり、やはり人形遣いの2代目西川伊三郎についたりして人形を研究し、やがて文楽風の人形を一人でも操作できる「車人形」を考案しました。 柳吉は「西川古柳」を名乗り、多摩地域で説経節とともに公演を続けます。 古柳の名跡は3代目以降八王子恩方の瀬沼家に引き継がれ、4代目古柳 瀬沼時雄 は説経節に加え義太夫を取り入れて演目を拡大、現5代目 瀬沼亨 は一時文楽の研修生としても学び、フラメンコなどの洋舞を取り入れ、新しい可能性を開きました。 このほか、3代目若太夫が現在の埼玉県秩父を訪れたときに地元の人に教えた説経節をもとに、横瀬村の若林一族が「ふくさ人形」を興しました。 これは片手で使う手のひら大の首人形を説経節にあわせて動かすものですが、珍しい小型の回転舞台とともに若林一族が守り、現在の若松多津太夫に受け継がれています。 さて、5代目若太夫の弟子のひとりの2代目薩摩辰太夫 漆原四郎舎は、6代目の後継争いで敗れた後に実家の埼玉県騎西町に戻り、日暮竜トを名乗って独自に一派を立てます。 竜トは辰太夫時代、会津若松で公演した時に「薩摩」という名前が地元の人の感情にさわったので、あわてて「若松」と変えたことがあり、これをふまえて竜ト派は「若松」を苗字にするようになりました。 竜トの弟子のひとりで埼玉県熊谷在の松崎大助は美声で鳴らしましたが、さらに三味線の手を工夫し、竜トよりさらに曲調を発展させます。 大助は柔道家の嘉納治五郎の知遇を得て、東京で演奏活動を積極的に行い、レコードも多数出し、昭和初期まで活躍を続けていました。 大助の芸名は「若松若太夫」。 現若松派の誕生です。 初代若松若太夫は昭和23年に死去し、後は息子の寛が2代目若太夫として継ぎますが、戦後の混乱の中その存在は忘れられ、本人はアル中と失明という不幸に襲われ、板橋区に逼塞しますが、昭和40年代後半にホームヘルパーの青木久子が助力をはじめ、昭和55年に復活公演を行います。 その後も盲目の太夫としてマスコミでもよく取り上げられ、公演の機会にも恵まれましたが、平成11年秋に死去。 幸い晩年に弟子に恵まれ、埼玉県狭山市在住の小峰孝男が2代目の生前に3代目を継ぎ、現在も積極的に公演中です。 それからもうひとつ忘れてならない流れとして、新潟県の佐渡島に伝わった説経節があります。 佐渡に説経節が伝わったのは享保 1716〜36 のころといわれています。 説経節は説経人形・金平人形・のろま人形といった人形、寛文延宝 1661〜81 のころに書かれた台本の写しと一緒に佐渡に渡り、以来現在にいたるまでの約300年間、比較的古体を残したまま公演を続けてきました。 享保年間に入ったということは、前期説経節の最後の光だった2代佐渡七太夫の活躍した時代に非常に近いところから、佐渡の説経節は多くの部分で前期説経節を引き継いでいるものと思われ、学問的にも芸能的にも大変貴重なものとなっています。 現在佐渡の説経節は「広栄座」の人々が受け継いでいますが、唯一の太夫だった霍間幸雄さんが平成8年に亡くなり、あとを引き継ぐ太夫が現れていません。 護摩に「芸道成就」と書き、真言密教の護摩焚きをじっくり観察する。 それにしても、声明というのはどういう声の作り方なのだろうか。 低く芯があり、燻されて鈍色に光っている。 平安時代からざっと1000年ぐらい磨いた声だなあと感心する。 多分、サンスクリットの音読みなんだろうから、何を言っているのかは、素人にはまったく不明だが、手元のパンフレットの「のうまくさんまんだ ばさらだん せんだん」で真似してみる。 顎を少し引き気味にして、喉を詰めてから、咽頭と鼻腔のあたりを拡張していくとなんとなくそれらしい振動が発生することが分かった。 声明の声は、声帯の振動だけでは作れない。 どうやら、あの燻し銀のような声は、咽頭全体、はたまた、骨格全体を共振させることで発生させていると感じた。 そんなことをして遊んでいるうちに、私の体もある種の心地よい振動に共鳴してきて、天と地の間にすっぽりと調和するのを感じた。 この頃は、なんたらかんたらはめんどくさいので、声の調整にはもっぱら「真言」オームだけを用いている。 これは健康にもいいかもしれない。 しかし、変な宗教と間違われても困るので、密かにやっている。 密教だしね。 とりあえず、荒木繁・山本吉左右両先生によ『説経節』 平凡社東洋文庫243,1973年 を読まないと、説経節について語ることはできない。 私にとってもバイブルである。 猿楽・田楽・今様・平曲・能・謡 うたい ・曲舞等々、平安時代から、鎌倉時代の大雑把に500年くらいの間に様々な芸能が出現しており、日本人特有のストーリーやモチーフが作られた。 これらは当然、説経にも、その後のすべての芸能にも影響を与えている。 説経が仏教の懐から発し、唱導文学であることは明白であるが、西暦1400年頃の室町時代に入ると、仏教の大衆化とともに、説経の役割も、純粋に経を説くといったお堅いものではなく、より芸能化するとともに、寺社仏閣の、または芸能集団の座としての営業や宣伝が盛り込まれて行ったと思われる。 後述する五説経のひとつ「小栗判官一代記」に「車引段 くるまびきのだん 」という大変美しくも風光明媚な段がある。 いわゆる、道行きといった風情であるが、実は、内容はもっとグロテスクである。 照手姫が売られ売られて最後に辿り着いたのは、美濃の国は青墓の宿万屋長右衛門の旅籠である。 ここから、大津関寺玉屋の門まで、餓鬼阿弥姿で土車に乗せられた小栗判官を自分の夫とは知らずに曳いて行くのが「車引段」である。 この段に記述されている照手の上下五日の行程は、現在の地図上でも克明に辿ることができる。 説経節ほど、場所が明確に示されている物語は外にはあまり無いのではないだろうか。 本来、本地 祭る神仏が人間だった時の話 を語るのが説経の本質であるから、地名は非常に重要である。 例えば、前段に書いた、大津関寺を何故、照手の終着としたのかには理由があるだろう。 「車引段」に出てくる関寺は、逢坂山の関寺であり、ご存知の「是れやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の歌を詠んだ蝉丸を祖神とする蝉丸宮があった。 蝉丸は盲目の琵琶法師として芸能の神様になっており、約500年程前の室町時代後期には、蝉丸宮の祭礼に各地の説経師が集まっていたらしい。 説経の聖地であった関寺を外すわけにはいかない。 この車引段を読みながら、地図を開くと、まるで旅行案内のようであり、関係の寺社仏閣をストーリーに見事に埋め込んでいる。 また、別の段では、小栗が藤沢の清浄光寺 遊行寺 に埋葬され、餓鬼阿弥として戻ってくるという話があるが、ちゃっかり、遊行上人を登場させるところなどは、時宗の宣伝には十分な効果があったのではないだろうか。 説経師が、僧籍を持つ伝道者であったころには、それぞれ特定の宗派の利益のために活動をし、特定の宗派に利益のあるストーリーを創作していた。 例えば、古説経には「熊野之御本地」とか「釈迦のご本地」などという外題が見える。 読んだことはないが、いかにもいかにもである。 沢山の説経が語られていたことは明らかだが、どうやら説経師たちは、上層階級に気に入られるような柔な人種ではなかったようだ。 説経はアンダーな芸能として、民衆の中で発酵して、流浪の説経師の口を介して各地の説話を吸収しながら、独特のスートリーを形成していく。 したがって、説経には作者がない。 室町時代、今から500年程前の民衆の魂が今でもめらめらと蠢いているように感じる。 かつて、ベスト5に選ばれた説経節には次のようなものがある。 「小栗判官」「苅萱」「信徳丸」「山椒大夫」「梵天国」「愛護若」「梅若」「信太妻」 室町後期から安土桃山・江戸時代の初めというと400年ほど前である。 歴史は表面的に武家の社会を描こうとするが、この激動期に生きた一般民衆は何を思い、何を願い生きたのだろうか。 説経語りは、はっきり言えば乞食の芸能として、最下層である自らに希望と夢を与えるように説経を再構成した。 説経は、語られる毎に変化し、民衆のエネルギーを吸収して、それ自体が生き物のように成長したのだと感じる。 そこには、虐げられて行き場のない、民衆の叫びが直接に刻み込まれたのだと思う。 小栗判官が餓鬼病になり、信徳丸が三病になる。 そして、熊野で、四天王寺で蘇生をする。 それは癩者の姿に他ならない。 熊野古道はそうした者たちの道でもあり、四天王寺はそうした者たちの終焉の地でもあった。 決してくじけない。 簡単には死なない。 五説経として残ったストリーにはそうしたしたたかな図太さがある。 江戸時代になって、世情も安定し、民衆の意識にも当然変化があっただろう。 ところが、今から200年ほど前、初代若太夫が薩摩座を興して操り人形芝居で説経を演じたところ、これが大ヒットした。 いわば中興の祖ということだが、新たに三味線を用いたことは、明らかに義太夫や常磐津、清元といった、当時隆盛の語り物の向こうを張ってのチャレンジであったようだ。 後期説経節は、新たな説経のストーリーを創ることはなかったが、初めて、説経を劇場化したこと、三味線の音曲として説経を節に乗せて説経節にしたことで、大きな質的な転換を図ったと言える。 その後、説経節は明治・大正期までは、興業的にも、レッスンプロとしても、十分に食っていけたようであるが、戦後再び衰退してしまう。 200年間続いて来た系譜は、実際には、もう実線で繋ぐことはできない。 私が何故「十三代目」なのかは、「太夫の系譜」で明らかにするが、私は先代さんとはまみえることができなかったので、正式には、誰にも説経を習うことはできなかった。 そうした意味で、直伝の実線で繋がれないのは残念だがしょうがない。 かろうじて、薩摩派説経節は、今、200年の時を経て私の中に生き延びている。 説経というものは、もともとは寺社の縁起を語る語り物 唱導文学 として起こったものであり、語りを担った人々は、各地の寺社に隷属した下層の聖たちであった。 「をぐり」の場合には、藤沢道場が重要な役割を占めていることから、正八幡の由来を説くとはいいながらも、藤沢の聖たちが中心になって物語を形作ったとも考えられる。 物語は、荒人神の前身たる小栗を介して、秩序への侵犯と其の報いとしての追放、主人公の死と再生、受難と報復などを、また、照手姫の揺るぎない献身を介して、人間の尊い愛について語る。 特に、照手姫の存在感は圧倒的なもので、彼女の愛あるがために、物語を人間的で、しかもダイナミックなものにしている。 説経「をぐり」は、日本の中世の物語のなかでも、類希な恋愛物語だともいえるのである。 若年の小栗は「不調の者」として描かれる。 不調とは、淫乱とか、秩序を乱す者という意味であろう。 親の意に反して妻嫌いをした挙句、深泥池の大蛇と契り、それがもとで、父によって常陸へと流されてしまう。 常陸で流人の身となった小栗は、旅の商人後藤左衛門から照手という美しい姫のことを聞く。 武蔵、相模両国の郡代横山の一人娘である。 小栗は、親兄弟の了承を得ることなく、照手と手紙のやり取りを交わして、その心をつかむと、「一家一門は知らうと、知るまいと、姫の領掌こそ肝要なれ、はや婿入りせん」と、強引に婿入りをする。 怒った横山一門は、小栗をだまして殺そうとする。 まず、鬼鹿毛という人食い馬に小栗を食わせようとして、死人の骨が散らばった馬場へと連れて行くが、小栗は、「やあ、いかに、鬼鹿毛よ、汝も生あるものならば、耳を振りたて、よきに聞け」と、鬼鹿毛を調伏して手なずけてしまう。 人食い馬を自由自在に乗り回す小栗の姿は、まさに超人のように描かれていて、聞くものを感心させたに違いない。 小栗の怪力に怖気づいた横山一門は、今度は宴会に招いて毒殺しようと計る。 父らのたくらみを予感した照手は、不吉な夢物語をして、小栗に行くことを思いとどまらせようとするが、小栗は10人の従者を引き連れて、横山の館に赴き、ついに殺されてしまうのである。 また、照手姫は、体裁を考えた父によって、川に沈められようとするが、運良く助けられる。 しかし、助けられた先の強欲な姥によって売りとばされ、さらに諸国を転々と売られゆくうちに、美濃の国青墓の遊女宿に売られてくる。 青墓は東海道筋の宿場として、中世の頃より、名が通っていたところである。 さて、小栗のほうは、地獄へと下る途中に、閻魔大王の采配によって、再び地上へと生き返る。 この際、閻魔大王が小栗の身柄を、藤沢の上人に委ねるくだりは、この物語が、藤沢の念仏聖とかかわりあることを、推測させる。 また、火葬された10人の従者は、体がないために生き返ることができず、小栗のみは、土葬されて体が残ったために生き返ることができたのには、当時の宗教観が反映されているのであろう。 3年の後に生き返った小栗の姿は、「あらいたはしや小栗殿、髪はははとして、足手は糸より細うして、腹はただ鞠をくくたやうなもの、あなたこなたをはひ回る」というものだった。 藤沢の上人は「なりが餓鬼に似たぞとて、餓鬼阿弥陀仏」と名付け、閻魔大王自筆の御判に、この者を熊野本宮湯の峰に連れて行けとあるのを見て、小栗を土車に乗せて、引いていくのである。 この道行きの場面は、物語にとっての、一つの見せ場ともなっている。 この後、次々と引かれ続けて青墓の宿にたどり着いた小栗は、そこで、照手との運命的な再会をする。 だが、餓鬼阿弥となった小栗には、声を発することもかなわず、照手のいる遊女宿の前に三日の間立ちつくすばかり。 照手も、餓鬼阿弥が小栗であるとは露もしらず、小栗の胸札にあった「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」との言葉に感じ、やっと太夫に許しを乞うて、小栗の土車を引いていくのである。 この場面における照手の姿は、人の愛というものがかもしだす、もっとも美しいものといえるのではないか。 だが、仇の返し方は、随分と異なっている。 照手を売り飛ばした姥だけは、肩まで生き埋めにされたうえ、地上に出た首を竹で引かれる憂き目に会うが、青墓の太夫や横山らほかのものは、寛大な処置を受けたり、かえって褒美までもらったりする。 陰惨なイメージとは遠いのである。 以上、物語のあらすじをたどってきたが、この物語が現代人の我々をも魅了するのは、照手の愛に表現されたような、人間の生き様が胸をうつからかもしれない。 説経には、「さんせう太夫」に見られるような、陰惨で目をそむけたくなるような描写が多い。 中世を生きた民衆たちの抑圧された情念が反映した結果、そのような陰惨さが、迎えられたのであろう。 一方、「をぐり」の場合には、毒殺の場面にしても、照手の受難にしても、陰惨を強調するというよりは、主人公たちの強い意志や、それでもなお屈せざるを得ない運命を強調するところある。 巨大な運命の力に抗しながら、力強く生き抜こうとした主人公の姿が、中世の民衆に救いの感情をもたらし、また、それが現代人にも訴えかけてくるのであろう。 説経「おぐり」全編は、主人公の死と再生、因果応報をテーマにしている。 そのなかで、照手の愛は格別の光を放ち、物語に温かな色を添えた。 照手の強い生き様は人の胸を打つ。 まもなく兼家夫婦は男の子を授かり、「有若」と名付けた。 後の小栗判官である。 小栗は文武に秀で、又、評判の青年に成長する。 しかし、小栗は父の勧める縁談を全て断わる。 21歳までに72人の妻を帰したとある。 小栗が鞍馬参詣の途次、彼の吹く美しい笛の音に誘われるように、深泥池の大蛇が美女となって現われる。 小栗は、これぞ理想の女性と喜び、二人は愛を深めた。 この事を耳にした父兼家は怒り、小栗を常陸の国に流してしまう。 常陸の国に流された小栗は、その後、武蔵・相模の郡代横山の娘で、日光山の申し子照手姫の美しさを聞き、10人の家来を連れて強引に婿入りする。 これに怒った横山は、三男三郎の企みで、小栗を人喰い馬の鬼鹿毛に食わせようとするが、小栗は鬼鹿毛を難なく乗りこなしてみせる。 今度は、宴席に招き、毒酒をもって殺してしまう。 照手も同罪として相模川に流されるが、照手は守り本尊千手観音の御加護により、ゆきとせが浦の浜辺にたどり着き、村君の太夫に助けられる。 しかし、姥にいじめられ、ついには人買に売られてしまう。 各地を転々とした照手は美濃の国、青墓の萬屋に買い取られ、常陸小萩という名で水仕女として苦難の日々を送っていた。 さて、地獄におちた小栗は、閻魔大王の計らいで、この世に餓鬼の姿で戻されることになる。 「この者を熊野湯の峯の湯に入れれば元の姿に戻る」と書いた閻魔大王自筆の胸札をかけて墓から現れ出る。 これを見た藤沢の上人は胸札に「一引きひけば千僧供養、二引きひけば万僧供養、藤沢の上人」と書き添え「餓鬼阿弥」と名付けて土車に乗せ、熊野に向けて旅立たせる。 道中、上人様の徳をいただこうと、人々は村から村へ餓鬼阿弥を乗せた土車をひいた。 美濃の国、青墓の萬屋の水仕女、常陸小萩も「餓鬼阿弥」が我が夫とも知らず、大津の関寺まで3日車を引いた。 道中、多くの人々の情けを受け、餓鬼阿弥車は相模の国を出て関ヶ原を越え、京都、大阪、そして小栗街道を難渋な旅を続けること444日で熊野湯の峯に着いた。 湯の峯の壺湯に入った小栗は、一・七日 いちしちにち・7日 で両目が開き、二・七日 にしちにち・14日 で耳が癒え、三・七日 さんしちにち・21日 で言葉 ことのは を話せるようになり、七・七日 なななぬか・49日 には6尺豊かな元の姿に蘇生した。 熊野権現の加護と、湯の峯の薬湯の効あって見事に蘇った小栗は、都にもどり両親と再会して勘当の許しを得る。 又、朝廷から美濃の国司に任じられ、青墓の萬屋に常陸小萩を訪ね、照手と再会を喜び合う。 その後、二人は常陸の国に戻って幸せな生涯をおくったとある。 小栗は美濃の国墨俣の正八幡に、又、照手は近くの安八町の結明神の縁結びの神として祀られ、人々の信仰を集めている。 この物語が史実として伝えられている常陸の国小栗邑 茨城県真壁郡協和町 には、小栗城跡や墳墓などの史跡が残っている。 「鎌倉大草紙」では、応永30年 1423 小栗満重・助重親子は足利持氏と戦い小栗城落城。 その後、助重は悲願の小栗家 小栗城 再興を果たすも、康正元年 1455 足利成氏に攻められ再び城を明け渡す。 これらの史実をベースに物語は構成されている。 「小栗実記」では、小栗満重が足利持氏との戦いに敗れ落城。 その子助重 小栗判官 は、三河の国 愛知県 を目指して落ちのびる途次、相模の国 神奈川県 で郡代・横山一統の謀略で毒酒を盛り殺害されようとするが、これを察知した横山の娘照手の機転により一命を取り留めた。 小栗は藤沢へと逃れ遊行上人の助けを受けたが、口に含んだ毒酒の害で、目も見えず、耳も聞こえず、口もきけず、といった重病人 餓鬼病 の姿となる。 一方、照手も家を追われ、流浪の身となり、苦難に満ちた日々を過ごしていたが、家臣らの助けもあり小栗判官との再会が叶う。 しかし小栗判官の病は意外にも重く照手の強い思いで、治療のため、歩行もかなわぬ小栗を土車に乗せ、人の情けを頼りに熊野湯の峯を目指しての道行きとなる。 熊野権現の霊験と湯の峯での湯治が奇跡を呼び本復がかない、元の小栗となる。 二人はその後、幸せなくらしを取り戻した。 「小栗実記巻之十 「紀伊名所図会」・嘉永4年・1851 」、では小栗判官・照手・一子大六の三人が熊野の山中で熊野権現の霊夢を授かる記述と挿絵がでている。 小栗一族の歴史をいまに伝える協和町 茨城県 、照手の生れ里・相模原市 神奈川県 、遊行上人と深く関る藤沢市 神奈川県 や照手が水仕女として苦難の日々を送った美濃の大垣市周辺 岐阜県 、滋賀県、京都府、大阪府、和歌山県などには小栗判官物語にまつわる史跡や伝承が数多く残されている。 相模の国から熊野まで小栗を乗せた車が通ったとされる車道 東海道・中山道・南海道・小栗街道 沿いには地元の人々がこもごも語る説話が生きている。 宗教的意味あいをもつこの物語が説法として説かれ、僧や説経師、又、熊野比丘尼によって語りひろめられ、時を経て説経淨瑠璃や歌舞伎など芸能化し、民衆に愛される物語として定着、江戸期にはずいぶんと盛んに演じられたようである。 その筋立ては、小栗判官助重の一代をモデルとして創作された宗教説話「説経をぐり」が一般的である。 若太夫正本全33段が伝わっている。 小栗判官政清と照手姫との深い愛情を機軸にして、小栗の武勇、照手の可憐が印象的である。 説経節のように語り出しや末尾に神仏の紹介や来歴を持つものを本地物という。 美濃の国、安八郡、墨俣の正八幡に祭られている神は、人間であった頃、小栗判官と呼ばれ、照手もまた、近くの結神社に祭られているという。 このような神社・仏閣の宣伝が、説経節のスタートであり、随所にコマーシャルがはさまれている所から見て、説経の語り手が誰であったのかを窺い知ることができる。 感動することは、800年前ぐらいには、すでに語られていたであろう、これらの神社・仏閣が、今でも実際に存在していることである。 現代で言えば、コマーシャルソングでもあったので、観音様や、大権現様が至るところで大活躍する。 その中でも、相模の国藤沢の藤沢山清浄光寺 遊行寺 は凄い。 娘照手を取られて激怒した横山将監照元は、様々な奸計を図るが、二枚目スターの判官はおいそれとは死なない。 万策尽きて、とうとう照元は判官を毒殺、その屍を遊行寺に埋葬する。 照手は相模湾に沈められるはずだったが、流浪の身となり、美濃の国青墓の宿で、下の水仕として厳しい労働に耐える毎日である。 中世民衆の凄まじいイマジネーションは、判官を地獄から呼び戻し、遊行寺の墓からはいずり出て、餓鬼阿弥 餓鬼病・がきやみ として娑婆に帰ってくる。 土車に乗せられた餓鬼病の判官は、数多の手によって熊野本宮湯の峰まで運ばれるが、現在の夫とは知らずに、餓鬼病を曳く照手の姿が涙を誘う。 近年、ブームになった熊野古道を運ばれた小栗は、本宮湯の峰で劇的な本復 再生 を遂げる。 ハッピーエンドの結末は、中世ジャパニーズドリームと言うか、サクセストーリーと言うべきか。 どっちにしろ、小栗は中世から近世におけるヒーローの代名詞なのである。 薩摩派で、特に良く演じられているのは、「車引き」「二度対面」「矢取り」の各段である。 まず体裁であるが、現存するもっとも古い正本 寛文年間八太夫刊 でも、浄瑠璃と同じく六段ものになっており、この説経が比較的新しいことを物語っている。 内容については、説経の常道通り、神祇の縁起 ここでは日吉山王権現 という形をとってはいるが、ほかの説経におけるような情念のすさまじさを描くという点では比較的あっさりとしている。 折口信夫は、この物語の骨格を、継子いじめの話や、本地物語などといった伝統的な要素からなるとしながらも、恋の遺恨という創造が加わっているところに、従来の説経にはない新しいものがあるとした。 しかし、この説経のもとになった物語自体は、ふるい起源をもつ伝説であったらしい。 物語の舞台が江州の蝉丸神社の近辺に設定されていることから、恐らく、蝉丸神社を中心に活動していた説教師達のあいだで、語り継がれていたもののようである。 いづれにしても、すべてが新しい創作になるものではなく、長らく説教師のあいだで語られていたものを、説経浄瑠璃という形に再構成し、徳川時代初期における民衆の好みにあうようにして、語られたのであろう。 この作品は、継母による恋の遺恨と、その結果として迫害される主人公「愛護の若」の漂泊と絶望、そして死の物語である。 継母による迫害、いわゆる継子いじめの話は、「落窪物語」をはじめ鎌倉時代から日本の文学作品の主要なテーマともなっており、室町時代に至って大きな発展をみせたとされる。 説経においても、「しんとく丸」の中で、継子虐待が主要なテーマに取り上げられている。 本作品の場合には、虐待は、継母による恋の遺恨が理由とされており、その点が新しい趣向といえる。 主人公愛護の若は、嵯峨天皇の御代に、二条の蔵人前の左大臣清平が泊瀬の観音に申し子をして授かった子であった。 母親が自らの傲慢によって死んだ後、父親は後妻 雲居の局 を迎えるのであるが、この後妻が、こともあろうに継子の愛護の若に懸想をする。 そして、その思いが拒絶されるに及んで、愛護の若を罠に陥れるのである。 「しんとく丸」においては、継母はわが子を跡継ぎにするために、継子を陥れるのだが、ここでは、恋の遺恨が、狂った女に復讐をさせている。 「けさまでは、ふきくる風もなつかしくおぼしめさるるこの恋が、今は引き替へ、難儀風とやいふべし」 罠にかけられた愛護の若は、誤解した父によって拷問され、桜の古木に高手小手に縛りあげられる。 「いたはしや若君は、かすかなる声をあげ、この屋形には、お乳や乳母はござなきか、愛護がとがなきことを、父御に語りてたまはれと、消え入るやうに泣きたまふ、雲居の局、月小夜は、笑ひこそすれ、縄解く人はなかりける」 愛護の若が寵愛していた手白の猿が、主人を助けようとして縄を解きにかかるが、畜生の浅ましさ、小手の縄は解いたものの、高手の縄は解けずして、いましめはいよいよきつくなるばかり。 ここで猿が出てくるのは、いうまでもなく、山王権現と猿との、関係の由来を語ろうとするものであろう。 見かねた母親が、閻魔大王の計らいにより、死者の世界から狐の姿を借りて甦り、若の縄を解く。 説経のほかの作品では、困窮した主人公を救うのは、おおかた女性の献身的な愛であるが、ここでは、それは死んだ母親の愛なのである。 これ以後、愛護の若の漂泊が始まる。 舞台は比叡山とその周辺である。 漂泊する愛護の若の身辺には様々な人が登場するが、それらは鋭い対立に仕分けられて描かれている。 まず、若に同情を寄せる人々は、細工と呼ばれる人々や、田畑の助とよばれる叡山の奴婢たちである。 細工とは、原文には明示されていないが、刀の装飾をつくる皮革職人のことであり、賎民とされていた者であった。 彼らは、愛護の若を導いて比叡山のふもとまで来るのだが、山に登ることを許されない人々である。 「若君様、あれご覧候へや、一枚は女人禁制、又一枚は三病者禁制、今一枚は我ら一族細工禁制と書きとどむ、これよりお供はかなふまじ、はや御いとま」 一方、愛護の若を排除し、迫害を加えるものは、叡山の僧であり、里に住む姥である。 叡山の僧は、母親の兄にあたり、若の伯父であるにもかかわらず、その風体からのみ判断して若を排除し、迫害する。 里の姥にいたっては、若は里に侵入した秩序の敵でしかない。 ここで描かれているのは、追放されて漂泊の身になったものがたどる、孤立と絶望である。 そのなかで、救いの手を差し伸べるものが、同じように迫害される立場にあったものだけだったというのが、この物語を陰惨なイメージのものへ仕上げるもととなってている。 説経のほかの作品においては、主人公の孤立と絶望は、最後には女性の尊い愛によって救われるのであるが、この作品においては、主人公は救われることなく、絶望したままで死んでいく。 しかも、愛護の若が身を投げた池の淵から、蛇と化した継母が、死んだ若の遺体をくわえて、現れるというおまけまでついている。 「不思議や池の水揺り上げ揺り上げ、黒雲北へ下がり、十六丈の大蛇、愛護の死骸をかづき、壇の上にぞ置きにける、ああ恥ずかしや、かりそめの思ひをかけ、つひには一念とげてあり、阿闍利の行力強くして、ただ今死骸を返すなり、我が跡問ひて賜びたまへ」 物語の結末には、父親や細工はじめ108人が池に身を投げたとある。 折口信夫は、これを以て、室町時代に芽ざし、徳川時代に発展した殉死が取り上げられているものと解釈しているが、この作品の流れの中では、唐突な印象を与えているといわざるをえない。 やはり、作品の背骨をなすのは、漂泊するものの孤立と絶望にあると見たほうが、自然といえよう。 宿病のなかでも癩病は、近年までも厳しい差別にさらされてきたのであるが、中世においては、それこそ禁忌の対象として、社会からの追放と孤立を意味した。 こうした境遇に陥った主人公が、天王寺を舞台にして、女性の献身的な愛と観音の霊力によって救われるという物語である。 天王子は、清水寺とならんで、中世における観音信仰の一大霊場であった。 また、浄土信仰の拠点でもあり、その西門は極楽の東門に通ずるといわれた。 このようなことから、庶民の厚い信仰を集めるとともに、社会から脱落した者たちの最後の拠り所ともなった。 いわば、差別され迫害を受ける者たちにとっての、アジールとしての機能を果たしていたのである。 天王寺にはまた、ささら乞食やあるき巫女などの、下層の芸能民が集まり、祈りに来た民衆を相手に芸を売っていたとされる。 説経「しんとく丸」は、天王寺を拠点に活動していた、このような芸能民が生み出した作品ではないかと思われるのである。 同じような題材を扱った能の作品に、「弱法師」がある。 世阿弥の長男元雅の作であるが、ストーリーは単純化され、主人公の孤立や絶望は、説経におけるほど、くどくどしく描かれていない。 どちらが先というのではなく、恐らく天王寺の乞食たちの間で語られていた原物語が、能と説経に別々に取り上げられたものと推測される。 説経の物語は、主人公しんとく丸の出生の因縁を語ることから始まる。 父母が清水に申し子をした結果、前世の宿業を許されて子を授かるというものである。 このような申し子の話は、中世の物語に数多く出てくるが、ここでは観音に申し子をするという点が重要で、全編が観音信仰に彩られているこの作品のポイントとなっている。 しんとく丸の不幸は、実母が自らの傲慢により、観音に罰せられて死ぬことから始まる。 後妻となった継母は、自分の子が可愛さに、しんとく丸に呪をかけるのである。 それも、しんとく丸に生を与えた観音に、その命を取ってくれと頼む。 「いたはしや、しんとく丸は、母上の御ために、御経読うでましますが、祈るしるしの現れ、その上呪強ければ、百三十六本の釘の打ちどより、人のきらひし違例となり、にはかに両眼つぶれ、病者とおなりある」 父の信吉は、しんとく丸が違例者の姿になったのを知り、「長者の身にて、あれほどの病者が、五人十人あればとて、育みかねべきか、一つ内にいやならば、別に屋形を建てさせ、育み申そう、しんとくを」というが、妻の拒絶にあい、ついには、下人に申し付けて、天王寺に捨てさせる。 「いたはしや若君は、不思議さよとおぼしめし、枕を探り御覧ずれば、不思議の物をこれ探る、金桶、小御器、細杖、円座、蓑、笠、これ探る、さてはたばかり、お捨てあったは治定なり、例へば御捨てあらうとも、捨てるところの多いに、天王寺にお捨てあったよ、曲もなや、蓑と笠とは、雨、露しのげと、これは父御のお情けか、杖は道のしるべなり、円座は、馬場先に出で、花殻請へと、これは仲光が教へかな、この小御器では、天王寺七村をそでごひせよと、これは継母の教へかな、たとひ干死 ひじに を申せばとて、そでごひとて申すまいと、聖きっておはします」 深い絶望に閉ざされたしんとく丸は、しかし、清水の観音の夢のお告げに従って、蓑、笠を肩にかけ、町屋をそでごひして歩く。 痩せ細ってよろめくしんとく丸を見て、人々は、弱法師と異名をつけるのである。 ふたたび夢に現れた観音の教えに従い、しんとく丸は熊野の湯に向かう。 熊野の湯は昔から病者を癒すとされていた。 亡者となった小栗判官も、熊野の湯で蘇生したのであった。 熊野の湯に向かう途中、しんとく丸は、施行を受けようとして、かげやま長者の館に立ち入り、そこで長者の娘乙姫と運命的な再会をする。 違例者となる前、しんとく丸は天王寺の舞楽の場で乙姫を見初め、恋文を送っていた。 乙姫もしんとく丸の気持ちに応えて返し文を認めたまではよかったが、継母の呪によって二人の恋は中断していたのだった。 しんとく丸は、己の目が見えぬために、かつての恋人の前に恥をさらすことになったと、深い絶望に襲われながら、天王寺へと舞い戻っていく。 一方、乙姫のほうは、かつての思い人が違例者と成り果ててもなお、愛を失わないまでか、その愛を貫こうとする。 その決意の言葉は、凛然とした女性の持つ美しさを感じさせるのである。 「なう、いかに父御さま、承ればしんとく殿、人のきらひし三病者となり、諸国修行と承る、お暇賜れ、夫の行方を尋ねうの、父母いかに」 かくして、乙姫は夫と定めたしんとく丸の行方を追って、「さて自らは、見目がよいと承る、姿を変へて尋ねんと、後に笈摺、前に札、巡礼と姿を変へ、」放浪の旅に出る。 この順礼の姿は、観音信仰に身をささげる放浪者の象徴である。 中世の世、天王寺に拠り所を求めた制外者たちの多くは、男は聖の衣服をまとい、女は順礼の姿をとっていたのだろうか。 いづれにしても、制外者と身を変えることまでして、愛するもののために献身する。 女性の純真な心情こそが、この作品に類希な色合いを添えているのである。 女性の献身は、「さんせう太夫」の安寿姫や、「をぐり」の照手姫に見られるように、説経の大きなテーマであった。 女性の愛によって、絶望した者が救済されるという構図は、説経にとどまらず、中世文学を貫いている縦糸のようなものである。 その女性の愛とは、いいかえれば、観音の慈悲が人間の姿を通じて現れたものなのであろう。 少なくとも、中世を生きた人びとには、そう確信されたに違いない。 この作品の最大の聞かせ場は、天王寺における、乙姫としんとく丸の再会の場面である。 天王寺いせん堂に御参りした乙姫が、「鰐口ちゃうど打ち鳴らし、願はくは夫のしんとく丸に、尋ねあはせてたまはれ」と請願すると、うしろ堂より、しんとく丸が弱った声で、「旅の道者か、地下人か、花殻たべ」と物乞いにあらわれる。 乙姫はやっと会えたしんとく丸に抱きついて、お名乗りあれと迫る。 しんとく丸はうろたえて、「旅の道者か、さのみおなぶりたまひそよ、盲目杖にとがはなし、そこのきたまへ」と、自らの姿を恥じるのみなのを、乙姫は流涕こがれながらも抱きしめるのである。 かように、この場面は、乙姫の姿に体現された観音の慈悲が、哀れなものに救いを差し伸べる象徴的な場面となっている。 癩病に身をおかされたしんとく丸を抱きかかえて肩にかけ、町屋をそでごひして歩く乙姫の姿は、観音の化身と見えたであろう。 一曲の最後は、観音の夢の告げにしたがって、乙姫がしんとく丸を再生させる場面である。 「乙姫かっぱと起きたまひ、あらありがたの御夢想やと、御前三度伏し拝み、御下向なさるれば、一のきざはしに、鳥箒のありけるを、たばり下向申し、埴生の小屋に下向あり、しんとく丸をひったて、上から下、下から上へ、善哉なれと、三度なでさせたまへば、百三十五本の釘、はらりと抜け、元のしんとく丸とおなりある。 」 蘇生したしんとく丸が、自分を陥れた継母に復讐するのは、説経の常道とおりであるが、この作品においては、復讐は大した意味を持たされていない。 筆者が思うに、作品が訴えかけているのは、乙姫の愛と、それが奇跡としてもたらしたものである。 更には、人間が持ちうる尊い感情と、それを見守る観音の深い慈悲である。 遁世者とは、故あって俗界の縁を断ち切り、高野山を始めとした大寺院に身を隠すことによって、別の生を生きようとした者どもをいった。 髪を剃って寺に入るといっても、僧侶になる訳ではない。 寺院の片隅に身を寄せ、懺悔をすることで、それまでの因業から開放され、聖の末端に連なって、生き返ることをのみ望んだ。 中世には、こうした遁世者が多く存在したと考えられる。 高野山は、遁世者のメッカとしてとりわけ名高かったようである。 彼らは高野聖と呼ばれて、山中に庵を結んで暮らす者もあり、また諸国を歩いて勧進する者もあった。 遁世の理由はさまざまであったろう。 大事なことは、中世には、俗界で躓いた者に、別の生き方を受け入れてくれるアジールがあったということだ。 しかし、アジールに逃げ込む者は、別の生に入るに際して、それまでの恩愛を棄てなければならない。 説経「かるかや」は、このような遁世者の、俗界からの逃避と、俗界への恩愛との、葛藤を描いた物語なのである。 この物語を聞く者は、救いのない悲しさに圧倒される。 主人公の重氏の遁世を追って、妻と二人の子が辛酸をなめ、すべての者が死ぬことによって幕が下りる。 重氏は、何度か恩愛の念に動かされながらも、妻子の愛を拒み続け、最後まで名乗ろうとしない。 物語は重氏が遁世するにあたって立てた誓文に根拠を求めているが、何が重氏をしてかくもかたくなにさせているのか、誰しも訝しく思わずにはおれない。 あるいは、説経を語り歩いた者たちの境涯が、そこに反映しているのかもしれない。 彼らは、念仏聖や遊行聖として、遁世者としての一面をもっていた。 その境涯の厳しさが、この物語に、妥協をゆるさぬ俗界への拒絶をもたらしたとも考えられるのである。 物語は重氏の道心から始まる。 重氏は宴席の上で、「いつも寵愛の地主桜と申すが、本の開いた花は散りもせで、末のつぼうだ花が一房散って、この花よそへも散らずして、重氏殿の杯の中に散り入って、ひとせとふたせと、三巡りまで巡った」のに感じて遁世修行を発心する。 一門は無論御台所の願いをも聞き入れず、「いかに御台に申すべし、変わる心がないぞとよ、変わる心のあるにこそ、深き恨みは召さうずれ、この世の縁こそ薄くとも、又こそ弥陀の浄土にて巡り合はう」と書置きを残して家を出てしまう。 いかにも、必然に乏しい道心である。 この世の無常を感じたといっても、重氏はわずか二十一歳の青年である。 若い妻と三歳の娘があり、妻の胎中には7ヶ月の子が宿っているとしているのだから、いよいよ訳がわからないのであるが、それが物語に不条理を添えて、迫力を増してもいる。 遁世にあっては、理由はさして重要ではないのであり、遁世をするというそのこと事態が重大だったのであろう。 比叡山にやってきた重氏は、法然上人に髪を剃ってくれるよう求めるが、法然上人は「遁世者禁制」といって、はじめは相手にしない。 安易に遁世を求めるものが多いからだという。 歴史的事実としても、そうであったのかもしれない。 しかし、重氏は日本中の寺社の名において誓文することで、遁世を認められる。 「それがしがことは申すに及ばず、一家一門、一世の父母にいたるまで、無間三悪道に落とし、国許よりも親が尋ねて参る、妻子が尋ねて参るとも、再び見参申すまじ、ただ得心の者のことなれば、ひらさら髪をそって、出家にないてたまはれと、大誓文をお立てあるは、身の毛もよだつばかりなり」 13年間比叡山で過ごした後、重氏は御台所が子を連れて比叡山を訪ねる夢を見る。 恩愛にとらわれることを恐れた重氏は、女人禁制で知られる高野山に移る。 そこでなら妻と対面しなくともすむからである。 夢のとおり、御台所は夫を尋ねて旅に出る。 その場面も一曲の聞かせどころである。 重氏遁世の後に生まれた男の子を、重氏の置文のとおり石童丸と名付けて育ててきたが、その子が父を恋しがるのに感じて、二人連れで旅に出る。 一方、娘の千代鶴も、「父には棄てられ申すとも、母には棄てられ申すまいと、かちやはだしで出でさせたまふ、親子の機縁の深ければ、五町が浜にて追ひつき、母上様の御たもとにすがりつき、たださめざめとぞお泣きある」と訴える。 これに対しては、「路次の障りとなるぞかし、それをいかにと申するに、これよりも上方は、人の心が邪険にて、御身のやうなる御目形のよい姫は、押へて取って売ると聞く、売られ買はれてあるならば、二世の思ひであるまいか、御身は館へ帰りつつ、館の留守を申さいの、父だに尋ね会ふならば、今一度父に会はせうぞ、はやはや帰れ」と、返してしまう。 そして、それが今生の別れともなるのである。 高野山にやってきた母子は、山へ登ろうとして、女人禁制の由来を聞かされる。 弘法大師の母上でも、山に登ることを許されなかったという内容である。 この場面は一曲の中でも長い部分を割り当てられている。 そこだけで、一つの物語が成立している。 おそらく高野聖の間で受け継がれてきた伝説なのであろう。 古来日本の山岳道場のほとんどは、女人禁制の建前をとってきた。 それには仏教教義が建前としてきた女人への禁忌もさることながら、これら山岳が、男の遁世者の寄り集まる拠点だったという事情もあるようだ。 母を麓に一人残して山に登った石童丸は、ついに父重氏と会う。 だが、息子とさとった重氏は、恩愛の念に悩みながらも、最後まで自分が父であるとあかさない。 それのみか、汝の父は死んだと嘘をいって息子を悲しませ、あまつさえ、御台所も息子の戻りを待ちわびて死んでしまう。 実に不条理に満ちた展開が、聞くものをやきもきさせる。 母の遺骨を携えて国許に戻った石童丸は、姉の千代鶴までが死んだとの報に接する。 物語はますます悲しさに染まっていくのである。 結末は意外な展開となる。 石童丸は聖となって高野山に入り、重氏は名をあかさぬままに信濃の善光寺へと移る。 そして、最後には父子同じ日に死ぬ。 この一曲は、かくのごとく不条理に満ちたものである。 遁世とは何か、遁世する者に課せられた禁忌とは何なのか、人をして問わしめずにはいない。 少なくとも私の手元には十代目若太夫 内田総淑 の「高野山札所段」 途中で落丁しており不完全 、誰が筆写したか不明の「石童丸すりちがいの段」だけである。 一方、傍系の若松派は、「苅萱」をよく演じていたようである。

次の