三好 長慶。 三好長慶とはどんな人?戦国時代最初の天下人の生涯

三好長慶~最初に天下統一を成し遂げた武将~大阪一帯を見渡せる飯盛山城

三好 長慶

三好長慶の 下五郡であったの嫡男で、3年()にに属して阿波国より上洛したの曾孫。 、、、の兄。 正室はの娘、継室はの娘。 は孫次郎、は、、後に。 史料では「三筑(=三好筑前守)」の略称で彼の名が多く残っている。 現代の地元ファンからは、尊敬と親しみを込めての長慶を「ちょうけい」と呼ばれることもある。 生涯 [ ] 出生・家督相続 [ ] 2年()2月13日、の重臣である三好元長の嫡男として現在ので生まれる。 三好氏歴代の居館地と伝わる阿波国三好郡芝生()では、生母が長慶を孕んだ時に館の南の吉野川の瀬に立って天下の英雄の出生の大願をかけたという伝承がある。 [ ] 父は細川晴元配下の重臣で、主君・晴元の敵であったを滅ぼした功労者であった。 本国阿波だけでなくにも勢力を誇っていたが、その勢威を恐れた晴元達及び一族の・らの策謀で蜂起したによって、5年()6月に殺害された。 当時10歳の長慶は両親と共ににいたが、一向一揆襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逼塞した。 若年期の活動 [ ] 細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなりとなる。 そのため天文2年()に長慶は一向一揆と晴元の和睦を斡旋した。 「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」 『本福寺明宗跡書』 とあり、当時12歳に過ぎない長慶こと千熊丸が和睦を周旋したというのである。 交渉自体は仙熊の名を借りて、叔父のなど代理の者がした可能性もある。 この直後に元服したとされる。 理由は長慶の嫡男・三好義興や13代・、晴元の子のなどが11歳でしているためである。 千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した。 ただし天文5年(1536年)11月の『鹿苑日録』では仙熊と記されているため、15歳までは世間ではまだ幼名で呼ばれていたようである。 8月に本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、長慶は一揆と戦って摂津を奪回した。 翌天文3年()になると本願寺に味方してに細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄()で晴元方の三好政長と戦ったが、でもあった木沢長政の仲介や、年少であるという理由から許されて晴元の下に帰参した。 この後の、晴元の命令で長慶の家臣が京都平野神社の年貢等を横領しているのを止めて還付するようにされている。 その後は晴元の武将となり、天文5年()3月にや本願寺武断派のらが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。 この時は木沢長政の下に逃れ、長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍をまでに全滅させた(『続応仁後記』)。 勢力拡大 [ ] 天文8年()、長慶は細川晴元の供をした時、のから前年に献上されていた鷹を与えられた。 10日後のに長慶は晴元を酒宴に招き、その席での料所である()の代官職を自らに与えるように迫ったが、晴元は聞き入れず、長慶は直接幕府に訴えた。 この料所の代官は元々は父が任命されていたのだが、その死後には長慶の同族ながら政敵であった三好政長が任命されていたのである。 幕府のであるは長慶の要求を正当としたが、12代将軍・は近江のを通じて晴元・長慶間の和睦交渉を斡旋するも不首尾に終わる。 長慶は1月の上洛時に2,500の人数を率いていたため、この数と石山本願寺・の後ろ盾を得て入京し、細川晴元は閏に退京してに移り、やら一族を呼び集めた。 義晴はやなどの諸大名に出兵を命じる一方で六角定頼と共に長慶と三好政長の和睦に向けた工作を続け、夫人のと嫡子の義輝を八瀬に避難させた。 この混乱で京都の治安が悪化したため、長慶は義晴から京都の治安維持を命じられている。 長慶に名指しされた三好政長は4月に丹波国に蟄居していたが、細川晴元の意を受けて京都へ進出。 には和談は不首尾に終わり長慶と政長は妙心寺付近で小規模の戦闘を起こしている。 、長慶は六角・武田などの諸大名を敵に回すことを恐れて和睦を承諾し、摂津と山城の国境のから撤退した。 結局十七箇所の代官職は与えられず、8月に摂津越水城に入城した。 これまで三好氏の当主はあくまでも阿波を本拠とし、畿内において政治的あるいは軍事的に苦境に立つと四国に退いて再起を期す事例があったが、長慶はこの入城以降は生涯阿波に帰国することなく、摂津を新たな本拠として位置づけることになる。 この後の長慶は摂津守護代となり幕府に出仕するようになるが、陪臣の身で将軍までも周章させて摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させ、主君の晴元に脅威を与えるほど長慶の実力は強大なものとなっていた。 天文9年()、の(秀忠)の娘を妻に迎えた。 ただしこれは『三好家譜』の記述であり同書は誤りが多いために必ずしも信頼できないが、によると嫡子の義興は天文11年()生まれであり、天文10年()に長慶が摂津(山下城)を攻めた際に波多野軍も共同しているため、長慶の結婚は天文9年(1540年)から天文10年(1541年)の間と推測されている。 天文10年(1541年)9月頃に名を利長から範長と改名、この年の6月に長慶は独自に都賀荘から徴収を行い、晴元から停止を命じられている。 晴元は自らの側近であるを段銭徴収の責任者としていたためである。 だが、長慶はこれを無視したために彼の影響下にあった摂津国下郡(・南部・・菟原郡・)では長慶と道祐から二重の段銭徴収を命じられる事態が相次ぎ、長慶は晴元との対立を深める要因となった。 だが、下郡の中心都市であった西宮を管轄下に置く越水城を支配する長慶の影響力は次第に下郡のや百姓に及びつつあった。 また、には三好政長と共同して摂津国人の上田某を攻めて自害させ城を奪った。 には細川晴元の命令で細川高国の妹を妻とする一庫城の(国満)を三好政長やらと共に攻めた。 しかし政年の縁戚である摂津国人・や、そして木沢長政らが反細川として後詰したため、長慶は背後に敵を受ける事となってに越水城に帰還した。 この時、伊丹軍が越水城に攻め寄せるが長慶は撃退し、その与党の城である(尼崎市)を逆に落とした。 細川晴元に反逆した木沢長政は上洛して将軍・義晴と晴元を追うなどしたため、河内守護代のは長政が擁立した河内守護のを追放してその兄であるを迎え、長慶に味方することを表明した。 このため翌天文11年(1542年)、長政は稙長のいる河内を攻撃しようとして太平寺で戦ったが、政長・長慶の援軍が加わった長教に敗れ討死した()。 太平寺の戦いから9ヵ月後の12月、細川高国のに当たるが畠山稙長の支援で高国の旧臣を集めて蜂起、翌天文12年()に堺を攻撃したが、細川元常の家臣・松浦肥前守、らに敗れてに逃れた。 長慶はに細川晴元の命令で堺に出陣、氏綱と戦っている。 この頃になると長慶の実力は石山本願寺にも一目置かれており、天文13年()に父の13回忌法要の費用が証如から長慶に送られている。 天文14年()4月、細川高国派のらが氏綱に呼応、丹波から進軍して山城井手城を落とし、元全の父・も槇島まで進出したため、細川晴元は大軍を率いて出兵し、長慶も従軍して山城で戦った。 その直後、岳父の波多野稙通の支援要請に応じて丹波に出兵し、氏綱派のが籠もる丹波をに包囲してに落とした。 氏綱の後援者だった畠山稙長も死去したため当面政権は安泰となった。 しかし翌天文15年()8月、稙長の後を継いだ畠山政国と遊佐長教が細川氏綱を援助し、氏綱と政国、そして足利義晴らが連携して細川晴元排除の動きを見せると、長慶はに晴元の命令を受けて越水城から堺に入った。 しかし堺はに河内高屋城から出撃した細川氏綱・遊佐長教・などの軍に包囲され、準備不足であり戦況不利を悟った長慶はに依頼して軍を解体し、氏綱らも包囲を解いて撤兵した。 この後も氏綱らの攻勢が続いて晴元・長慶は敗北を重ねたが、長慶の実弟である三好実休と安宅冬康(鴨冬)、十河一存ら四国の軍勢が到着すると一気に逆転し、義晴は12月に近江に逃れて嫡子の義輝に将軍職を譲り、長慶は実休や阿波守護のらと共に摂津やの三宅国村などの将軍方の城を落とし、摂津を奪い返した。 そして天文16年()ので細川氏綱・遊佐長教軍に勝利、敗報を聞いた足利義晴が閏に帰京して細川晴元・六角定頼と和睦、長慶・実休は8月に河内で氏綱・長教軍と対陣したが、義晴が離脱していたため氏綱らは戦意を喪失、長滞陣の末に翌天文17年()4月に両者は定頼の斡旋で和睦、長慶は5月に越水城へ帰城した。 なお、将軍家が近江に逃れたことで幕府の執事であるは天文16年(1547年)3月に幕臣の所領保護を求めている。 この事から陪臣ながら、さらには将軍と戦おうとしている家の家臣である長慶の実力が認められていたことがわかる。 また、長慶は4月に足利義晴を援助していた六角定頼を味方につけたため、義晴の敗北及び細川晴元の和睦・帰京に繋がり、長慶も定頼の斡旋を受けて遊佐長教らと和睦している。 この直後、長慶は長教の娘を継室に迎えた。 先の和談における政略結婚であったという。 晴元・政長との対立 [ ] 天文17年()以前、あるいは12月以前に孫次郎範長から筑前守長慶と改名、同年7月に三好政長を討とうとした。 理由は「宗三父子の曲事」、つまり政長と息子・の不祥事であるとする説と 、父の殺害の裏で暗躍した政長の存在を遊佐長教から聞いたためとも、政長の婿である摂津国人・池田信正がに晴元に切腹させられ、遺児で政長のに当たるが後継に置かれたことが他の摂津国人達の反感を買い、長慶が反政長派に推されたことも一因とされている。 政長は晴元からの信任が厚く、越水城で長慶が開いた軍議では晴元が政長を庇うのであれば、晴元も敵とする事を決議したという(『細川両家記』)。 8月12日、長慶は細川晴元に三好政長父子の追討を願い出たが、訴えは受け入れられなかったため、にかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び晴元に反旗を翻し、因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け三好政勝が籠城するを包囲した。 長慶の行為は晴元方の六角定頼から「三好筑前守(長慶)謀反」とされ(『足利季世記』)、『長享年後畿内兵乱記』でも「三好長慶謀反」と記されている。 翌天文18年()2月に長慶の本隊が出陣、4月から晴元・政長が政勝救援のため摂津に向かい、長慶軍と政長軍が摂津で対陣すると、晴元は三宅城へ、政長はに布陣して近江の六角軍の到着を待とうとしたが、長慶は江口城の糧道を絶ち、弟の安宅冬康・十河一存らにに布陣させた。 六角軍は6月24日に山城の山崎に到着したが、その当日に江口城で戦いがあり長慶は政長ら主だった者を800名も討ち取った()。 戦後、細川晴元と三好政勝らは摂津から逃亡し六角軍も撤退、晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて近江国に逃れた。 長慶は晴元に代わる主君として細川氏綱を擁立し、に入京。 6日後のに氏綱を残して摂津へ戻り、晴元派の伊丹親興が籠城するを包囲。 天文19年()3月に遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定した。 これによりは事実上崩壊し、が誕生することになった。 主君さらに将軍との対立 [ ] 芥川山城の石碑 近江国に亡命していた足利義晴は京都奪回を図り、天文19年()2月に京都東側のの裏山にを築いたが、5月に義晴が亡くなった後は6月に足利義輝が細川晴元と共に中尾城へ入り、徹底抗戦の構えを見せた。 両軍は小規模な戦闘に終始したが、長慶は近江にも遠征軍を派遣して義輝らを揺さぶり、退路を絶たれることを恐れた義輝は11月に中尾城を自ら放火して、坂本から北のへ逃亡した()。 この間の10月に長慶は義輝に和談を申し込んだが、晴元・義輝らの面目からかこの時は不首尾に終わる。 将軍も管領も不在になった京都では長慶が治安を維持し、公家の所領やを保護しながら義輝・晴元らと戦った。 天文20年()、の2回にわたって長慶は暗殺未遂事件に遭遇している。 1回目の犯人は挙動不審な態度からすぐに逮捕・処刑され、2回目の犯人は将軍近臣ので、『』では賢光の遺恨で長慶を襲撃し手傷を負わせたが、失敗して即座に自害したという。 この混乱に乗じて将軍方の三好政勝とが事件翌日のに丹波宇津に侵入している。 また5月5日には長慶の岳父であるも自らが帰依していた僧侶の珠阿弥にされてしまった。 このような事態を見てか、7月には三好政勝・香西元成を主力とした足利・細川軍が京都奪回を図って侵入するも、長慶はとその弟の(内藤宗勝、丹波守護代)に命じてこれを破った()。 このため六角定頼が和議を斡旋するが翌天文21年()に死去したため、後継者のが引き継いで交渉を進めた。 そして、細川晴元は細川氏綱に家督を譲って出家する代わりに長慶は晴元の幼児である聡明丸(後の昭元)を取り立てること、足利義輝の上洛を条件にして和議が成立した。 義輝はに上洛し、長慶はに上洛しての格式を与えられ、細川家々臣から将軍家直臣になった。 そして幕府は将軍の義輝、管領は細川家当主の氏綱に、実権を握る実力者である長慶という構図になった。 ところが細川晴元が京都奪回のために軍を興し、これにが加担したため、長慶はに丹波を包囲した所、従軍していたなどが波多野に味方したため、に包囲を解いて越水城に撤退する。 またこれで聡明丸を京都に置いておく事に不安を感じ、に越水城へ移している。 10月に長慶は再度丹波を攻め、晴元に味方する諸将と戦った。 11月にも晴元党の動きはあったが、小規模な戦闘か放火程度で終わっている。 天文22年()閏1月、義輝のらは長慶排除のために細川晴元と通じ、しばらくして長慶は和議を結ぶが、その際に奉公衆から人質をとった。 に長慶は晴元と戦うために丹波へ出陣したが、3月には義輝自身が長慶との和約を破棄して東山の麓に築いたに入城した。 合わせて帰参していた芥川孫十郎が再度反乱を起こして摂津へ籠城、丹波・摂津・山城から三方向に脅威を抱えた長慶は松永久秀に命じて晴元方の軍を破った。 7月に長慶が芥川山城を包囲している最中に義輝が晴元と連合して入京を計画するが、長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると晴元軍は一戦もすること無く敗走、義輝は近江朽木に逃走した。 長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義輝を見捨てて帰京したという。 以後5年にわたって義輝は朽木で滞在をすることになり、京都は事実上長慶の支配下に入った。 長慶は芥川山城を兵糧攻めにして落とし包囲網を破ると、芥川孫十郎が没落した後の芥川山城へ入り居城とした。 越水城が摂津下郡の政治的拠点であったのに対して、芥川山城は高国・晴元の時代を通じて摂津上郡の政治的拠点からの畿内支配の拠点に上昇しつつあり、長慶もその拠点を引き継いだのである。 また、禁裏と交渉を行ない、土塀の修理なども行なっている。 以後、三好軍は天文22年(1553年)に松永兄弟が丹波に、天文23年()にが播磨に出兵するなど軍事活動も積極的だった。 元年()6月、義輝は細川晴元や三好政勝・香西元成らを従えて京都奪還に動き、で三好軍と交戦した()。 しかし戦況は叔父のを始め三好実休、安宅冬康、十河一存ら3人の弟が率いる四国の軍勢が摂津に渡海するに及んで三好方の優位となったため、六角義賢は義輝を援助しきれないと見て和睦を図った。 この時の和談はに成立し、義輝は5年ぶりに帰京した。 この時長慶は細川氏綱・伊勢貞孝と共に義輝を出迎えている。 以後の長慶は幕府の主導者として、幕政の実権を掌握したのである。 全盛期 [ ] 永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた(他に近江・伊賀・河内・などにも影響力を持っていた)。 当時、長慶の勢力に匹敵する大名はのくらいだったといわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。 この全盛期の永禄2年()2月にがわずかな供を連れて上洛しているが、長慶とは面会せずに3月に帰国した。 4月には(当時は長尾景虎)が上洛しているが、長慶は謙信と面識があり、6年前の上洛では石山本願寺に物品を贈りあったりしたというが、この時の上洛では面会は無かったようである。 この頃、河内国では遊佐長教が暗殺された後、新たに守護代に任命された(直政)が永禄元年()にをに追放するという事件があった。 これを見て長慶は松永久秀を永禄2年()に和泉国に出兵させたが安見方のに敗北、久秀は摂津国に撤退し、長慶も久秀と合流してに2万の大軍で河内に進出した。 そしてに高屋城、になどを落とし、高政を河内守護として復帰させ、宗房を大和国に追放して自らと通じたを守護代とした。 また、宗房追討を口実に久秀は大和へ進軍、河内と大和の国境付近にそびえるを拠点として大和の制圧を開始した。 細川家家中においても三好氏の権力は頂点を極めた。 この永禄2年(1559年)は長慶の権勢が絶大となり、長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を賜り義長と改めた(後に義興と改名)。 この頃にはかつての管領家である細川・畠山の両家も長慶の実力の前に屈し、永禄3年()1月にはに任命され、に長慶は修理大夫に、義興は筑前守に任官した。 にはの即位式の警護を勤め、財政難の朝廷に対して献金も行なっている。 このためもあってか、に義興が御供衆に任命されている。 永禄3年(1560年)、長慶は居城を芥川山城から飯盛山城へ移した。 芥川山城は息子の義長(義興)に譲渡した。 居城を飯盛山城へ移した理由については、「京都に近く、大坂平野を抑えることが出来る、加えて、への進軍も円滑に行える」という根拠が指摘されている。 また、三好氏の本領はだが、飯盛山であれば堺を経由して本領阿波への帰還もより迅速に、楽に出来るという理由もあった。 ただし、芥川山城よりも、京都との距離は離れていたとするの指摘もある。 永原は京都との距離こそ離れるようになったが、大和・和泉・河内方面への強い進撃・進出の意欲を見せた拠点変更であり、そこには長慶の自信が満ち溢れていたとも指摘している。 この他によれば、拠点候補としてと飯盛山の二つがあったが、高屋城は河内国一国の政治的拠点であるのに対し、飯盛山城は河内のみならず、大和と山城を視野に据えて合計三ヶ国に政治的影響を及ぼすことが出来る政治的拠点であり、ゆえにこちらを拠点に選択したと指摘される (ただし、後述のように天野は別の論文で、三好氏の家督と芥川山城についての見解を切り離して表明している)。 一方で飯盛山への拠点移行について、こうした政治的観点とは別に長慶の精神的な観点からの研究もある。 は「長慶の心はこの頃吟風弄月の文の世界へ向けられていた」と指摘 、、は、「長慶の精神には隠者的な傾向が見られる」とも指摘している。 また、天野忠幸は長慶の嫡男である義興が将軍から一字を与えられ、三好氏歴代の官途である筑前守に任ぜられたことを重視して、長慶の拠点移行と三好氏の本拠地の問題は別の問題として捉え、飯盛山への移転によって三好氏の家督は事実上長慶から義興へと譲られ、同時に三好氏の本拠であった芥川山城も新しい当主である義興に継承されたと説いている。 なお、天野はこの時期に家督継承が行われた背景として、将軍義輝と三好氏の長年の対立を収拾させるために新当主・義興が義輝との新たな関係を作るのが構築させ、自分は将軍権威と一定の距離を保つのが望ましいと判断したと推測している。 ところが、この永禄3年(1560年)に河内国の情勢が激変した。 長慶の支援で守護に復帰した畠山高政が守護代の湯川直光を罷免して再び安見宗房を復帰させたためであり、長慶は高政の背信に激怒し高政と義絶、7月に一帯で畠山軍と戦って勝利した。 には一帯で安見軍を破り、高屋城を後詰しようとした香西・波多野軍、根来衆なども丹波から来援した松永長頼が破った。 このために飯盛山城の宗房が、に高屋城の高政が降伏開城して長慶は河内を完全に平定し、高屋城は河内平定の功労者であった弟の実休に与え、自らは飯盛山城を居城にした。 また畠山家の影響力が強かった大和に対しても松永久秀に命じてこの年に侵略させ、11月までに大和北部を制圧して久秀に統治を任せた。 永禄4年()には義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、に義輝の勧告で細川晴元とも和睦、摂津へ迎え入れた。 また嫡子の義興はこの年に従四位下・御相判衆に昇任するなど、三好家に対する幕府・朝廷の優遇は続いた。 この年までに長慶の勢力圏は先に挙げた8カ国の他、河内と大和も領国化して10カ国に増大し、東部2郡の支配、山城南部の支配なども強化している。 この長慶の強大な勢力の前に伊予のなど多くの諸大名が長慶に誼を通じていた。 晩年 [ ] 長慶の衰退は永禄4年(1561年)4月から始まった。 弟の十河一存が急死したのである。 このため和泉支配が脆弱となり(和泉岸和田城は一存の持城である)、その間隙をついて畠山高政と六角義賢が通じて、細川晴元の次男・を盟主にすえ7月に挙兵し、南北から三好家に攻撃をしかけた。 この戦いは永禄5年()まで続き、に三好実休が高政に敗れて戦死した()。 しかし京都では義興と松永久秀が三好軍を率いて善戦し、一時的に京都を六角軍に奪われながらも、義興・久秀らは安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反抗に転じ、ので畠山軍に大勝して畠山高政を再度追放、河内を再平定し、六角軍は6月に三好家と和睦して退京した。 なお、この一連の戦いで長慶は出陣した形跡が無く、三好軍の指揮は義興・久秀と冬康らが担当している事からこの頃の長慶は病にかかっていた(病にかかったのは永禄4年(1561年)頃とも)のではないかといわれている。 以後、和泉は十河一存に代わって安宅冬康が、河内高屋城主には三好康長が任命されて支配圏の再構築が行なわれた。 永禄5年(1562年)8月には幕府の政所執事である伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じて京都で挙兵したため、9月に松永久秀・三好義興の率いる三好軍によって貞孝は討たれた。 永禄6年()1月には和泉で根来衆と三好軍が激突し、最終的には10月に三好康長との間で和談が成立。 大和でも久秀の三好軍と多武峯宗徒の衝突があり、また細川晴元の残党による反乱が2月からかけて起こるなど、反三好の動きが顕著になってきた。 さらに永禄6年(1563年)8月には義興が22歳で早世、唯一の嗣子を失った長慶は十河一存の息子である重存(義継)を養子に迎えた。 本来であれば一存の死後に十河氏を継ぐべき重存が後継者に選ばれたのは、彼の生母が関白を務めたの娘でありその血筋の良さが決め手であったとみられる。 12月には名目上の主君であった細川氏綱も病死、この少し前には細川晴元も病死しており、三好政権は政権維持の上で形式的に必要としていた傀儡の管領まで失う事になった。 ただし、氏綱については、有力な支持者であった内藤国貞が健在であった天文22年(1553年)までは長慶よりも上位にあり、その後も義輝・晴元に対抗するために長慶に政治的権力を譲る代わりに摂津の守護としての立場を保持したもので、傀儡ではなくむしろ積極的な協力者であったとする見解も出されている。 最期 [ ] 飯盛山城の模型 永禄7年(1564年)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺した。 松永久秀の讒言を信じての行為であったとされているが、この頃の長慶は相次ぐ親族や周囲の人物らの死で心身が異常を来たして病になり、思慮を失っていた。 冬康を殺害した後に久秀の讒言を知って後悔し、病がさらに重くなってしまったという(『足利季世記』)。 このためには嗣子となった義継が家督相続のために上洛しているが、に義輝らへの挨拶が終わるとすぐに飯盛山城に帰っている事から、長慶の病はこの頃には既に末期的だったようである。 そして11日後の7月4日、長慶は飯盛山城で病死した。 義継が若年のため松永久秀と(・・)が後見役として三好氏を支えたが、やがて久秀は独自の動きを見せはじめ、永禄8年()から永禄11年()までの3年間内紛状態に陥った。 その後、久秀の側に鞍替えした義継と久秀は、新たに台頭した織田信長と彼が推戴するに協力、三好三人衆は信長に敗れ、三好政権は崩壊した。 その後、義継と久秀も信長と対立し、滅ぼされた。 年月日不詳 - に任官。 年月日不詳 - に叙す。 天文22年()2月28日 - に昇叙。 筑前守如元。 永禄3年()1月20日 - に転任。 将軍家の相伴衆に列座。 永禄4年()2月3日- 将軍より御紋の下賜がなされる。 長慶は織田信長と同じく堺の経済力に目をつけており、そこでの貿易による富裕な富で莫大な軍費・軍需品を容易に入手した。 また曽祖父の三好之長や父の元長ら以来による細川領国圏での国侍との関係、有能な実弟らの統治する四国の軍事力、特に強力な水軍を擁しており、さらに優秀な長慶の個人的才能が加わって全盛期における三好軍の軍事力は大変強大であった。 また阿波は小笠原を称していた頃から三好家の血族意識が強固であり、そのため長慶時代には弟の実休がしっかり阿波を守ることで他国進出を可能にした。 性格 [ ] 巧みな政治・軍略を展開しながらも下克上の雄ではなく旧来の人物であった と言われる。 保守的・優柔不断と言った評価も多い が、こうした長慶の人物像への評価に対して、「戦国時代の常識への無理解に基づく全く妥当ではない評価だ」という反論もある。 長慶は将軍・足利義輝と長年争ったが、長慶の義輝に対する対応は寛容・微温的であったとされる。 義輝と細川晴元を合戦で破り近江国朽木へ放逐した折、追撃が困難ではなかったにもかかわらず、長慶は義輝へ執拗な追撃をしようとしなかった。 さらにその後5年間、朽木を攻撃した形跡も見られない。 義輝が避難した場所は細川晴元の義兄のの勢力圏内であり、さらに義輝の妹婿であるのの勢力圏からも近かったことも影響していると考えられる が、『続応仁後記』は、敵を執拗に追い詰めない長慶の方針ゆえだと記述しており、長江正一も、敵を徹底的に追い詰めない長慶の性格が反映された措置と推定している。 また長江は長慶の性格について、「下剋上の標本のように言われるが、自己の権益を主張する以外は、古い伝統、秩序を尊重する律義者である」と評している。 はこの長江の寸評を引用し、自らも、長慶が義輝を追及、追撃しなかった理由として、「先祖が戦に起因して斬首や自害で世を去った悲しみを知る彼の性格」の結果として、朽木に追いやられた将軍を過剰に追撃しないという結果を出した、という論拠を提示している。 今谷明はこうした長慶の義輝とのやり取りを「柔弱・果断に欠ける」と評しており 、また後年の織田信長の足利義昭に対する「果断」と比較すれば、柔弱の誹りを受けるのも「さもありなん」と述べている。 一方、天野忠幸は、その信長も、義昭に対しては最終的に追放こそしたが、和睦を提案したり極力寛容であったこと、が追放した旧主・を一時家臣として迎え入れていたこと、が敵対した旧主・を軟禁するにとどめたことなどを根拠として提示し、「敵対したかつての主君を殺さない、執拗に追い詰めないことは、柔弱でも保守的でもない、戦国時代の常識である」と述べ、長慶が義輝に寛容な態度を取ったからと言って、それを根拠に長慶を柔弱・保守的な人物と評価するのは妥当ではないと指摘している。 長慶は大変寛大とされているが 、一方で決断力あるいは非情さに欠けてむしろ甘いとさえ思えるほどであった。 三好政長を討つ際、主君の細川晴元は政長を支持して長慶は謀反人とみなされた。 江口の戦いの際、弟の十河一存は晴元が三宅城にいる事を知り城を落とそうと提言したが長慶は受け入れなかった。 しかも戦後、晴元が帰京する際は弟の安宅冬康配下の淡路軍に警護させている上、その後に晴元と義輝が近江に逃れると圧倒的に優位でありながら和睦を懇望している。 細川晴元一党はたびたび長慶に反乱を起こしたが、長慶は人質である晴元の長男の昭元を決して殺さずに弘治4年()2月に自ら加冠役として元服させており 、永禄4年(1561年)5月に晴元が義輝の仲介で摂津に戻ってきた時には次男の晴之を六角氏に預けながら(この晴之が六角に擁立されて反三好の兵を挙げることになる)、昭元と再会させ隠居料も支払い庇護するという厚遇をした上に長慶が旧主と和睦できて涙を流したとしている(『足利季世記』)。 宗教 [ ]• 長慶は父の菩提を弔うため、3年()、大徳寺派の寺院、龍興山を長慶の尊敬する90世を開山として創建した。 茶人の、が修行し、が住職を務めたこともあり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。 長慶は常に「百万の大軍は怖くないが、大林宗套の一喝ほど恐ろしいものはない」と常々語っていたほどに大林宗套に深く帰依しており、南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたといわれている。 長慶は父の菩提を弔うため、父が最期を迎えたの寺院、を庇護した。 また、長慶の旧主であった細川晴元は法華一揆を鎮圧して法華宗の寺院やその信徒である商人らを京都から追放したが、彼らは堺や尼崎・兵庫津など現在の大阪湾沿岸の諸都市に逃れた。 長慶は顕本寺や同地の商人との関係を重視してこれらの寺院や信徒を庇護したことで、都市に対する影響力を強めることになった。 長慶はキリスト教をよく理解し、畿内での布教活動などを許してキリシタンを庇護している。 このため家臣の(シメアン)など多くの者がキリシタンとなっているが、自らはキリシタンにはなっていない。 ただし長慶は旧体制の人物でありながら信長のように半面は新しさも持っていた。 教養 [ ]• 朝廷との関係を重んじてたびたび会を開くなど、豊かな文化人であった。 大林宗套は、長慶の三回忌に際し「心に万葉・古今をそらんじ、風月を吟弄すること三千」と讃えた。 長慶の正座は日常から正しく、連歌の行跡などは(幽斎)やも敬仰して模範にしたという。 晩年には前半生で成功した理由であった猛々しさを失っていたが、これは長慶が連歌に没頭したためともみなされている。 松永貞徳の随筆集『戴恩記』によれば、同時代にも長慶の教養人としての面を文弱としてあげつらう人もいたようであるが、長慶は「 歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」という和歌でそれに反論している。 長慶の連歌について、細川藤孝(幽斎)は「修理大夫(長慶)連歌はいかにも案じてしたる連歌なりしなり」との評価をに語っている。 長慶は久米田の戦いで弟の三好実休が戦死した時、連歌会を開いていたという。 そして実休の戦死報告が入ると一句を読んで周囲にいた面々をうならせたという。 ただし後代に書かれたものであり信憑性に疑問も持たれている。 には、嘗て長慶が所持したという茶碗、別名「三好粉引」が伝世している。 葬儀 [ ]• 長慶の死後、嗣子の義継が若年である事から松永久秀・・三好三人衆らは喪を秘して重病であるとし、2年後の永禄9年()6月24日に葬儀を営んだが、その際に参列の諸士が涙を流してその死を惜しんだという(『』)。 なお、その2年間で遺骸はかなり傷んでいた(『足利季世記』)。 その他 [ ] 『』によれば、17歳の時、「これより3年、夏の季節に100日間、虚空蔵求問持法の荒行を行い、それによって記憶力を鍛える」と宣言し、3年かけて実行した。 また、修行を達成した19歳の年に、四国を巡礼したという逸話を伝えている。 また同書によれば、息子を松永久秀に殺された、足利義輝の妹を妻に娶った、と記述している。 長慶と精神病 [ ] は『』の中で「老いて病み恍惚として人を知らず」と紹介している。 また今谷明は、の『』のモデルの一つが長慶だと言われていると伝聞の形で指摘している。 ただし、頼山陽の長慶評については、全く根拠がなく、その無根拠な評価を批判されている。 後世の評価及び三好政権の研究史 [ ] 武田・北条・毛利などと比べると、三好氏、及びその主君であった細川京兆家は史料に乏しく 、史料が豊富や分野・大名に研究は偏りがちであった。 また、など、長慶被官が発給した文書は京都の寺社を中心にそれなりに現存しているが 、その多くは活字に翻刻されておらず、文書の多くも京都市に偏っている。 発給文書でさえ全てが解明されていない為、三好政権の政策、長慶の思想などについては未だに不明な所が多い。 昭和43年(1968年)にはがより人物叢書『三好長慶』を刊行、これは先駆的な研究と評され 、も参考にしたという。 今谷は、 その当時 「長江氏のこの書籍以外、参考になるべき図書など殆どなかった」と語っている。 その後、今谷がいくつか三好政権並びにそれと深い関連を持つ室町幕府末期に関する著作を出すが、長らく、長慶、三好政権の研究は停滞していた。 しかし、平成12年(2000年)にが論文集『戦国期室町幕府と将軍』を出し、翌年からは今谷の室町幕府末期・並びに「」を研究した書籍が文庫として立て続けに再版される。 さらにこの頃から、の論文が公の場に発表されるようになり、三好氏の研究がにわかに活気づく。 平成16年(2004年)、「戦国期の政治体制と畿内社会」が日本史研究会のテーマとなり、天野忠幸の論文「三好氏の畿内支配とその構造」が発表される。 これによって、三好長慶、三好政権への学会の注目がより集まるようになっていった。 『』『』『』『』などの書物に三好長慶への言及がある。 これらの書物はいずれも江戸時代初期までに成立したものだが、いずれも長慶に対しては好意的に描いており、『北条五代記』は、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉と並び称している。 江戸時代初期までに成立した書物は、長慶を名将として礼賛しているものが決して少なくなかった。 しかし、江戸時代中期以降より、家臣の松永久秀と併せて、根拠の怪しい逸話などを交えて語られるようになった。 その代表が、『』における、「松永久秀の主殺し」を織田信長が紹介した、という逸話である。 そして、所謂「三英傑」と比較していつしか長慶の存在は顧みられることはなくなってゆき、の『足利時代史』『織田時代史』などでは言及すらされなくなった。 現在では、松永久秀の壟断、横暴を許し、下剋上されてしまった凡庸な君主としての評価が、「一般的な評価として」定着してしまっている。 そして、織田信長の「革新的」なイメージと比較され、旧主・保守的・文弱・柔弱というレッテルを張られてしまっている。 しかし、こうした通俗的な見解に対して、「織田信長の先駆者」 「信長に先行する斬新な政策を行った」 「長慶が果たせなかった『下剋上』を、信長が成就した」 という評価もある。 和歌 [ ]• 難波がた 入江にわたる 風冴えて 葦の枯葉の 音ぞ寒けき()• 生駒山 まぢかき春の 眺さへ かぐわふほどの 花ざかりかな()• 歌連歌 ぬるきものぞと 言うものの 梓弓矢も取りたるもなし 墓所・肖像 [ ] 墓所は八尾市の真観寺、の、の南宗寺など。 長慶の肖像は大徳寺のとに存在する。 聚光院のものは他の戦国武将のように不敵さ、鋭さ、泥臭さが欠けており、学問があり風流も解すといった教養人の印象が強い。 聚光院の肖像は昭和9年(1934年)1月30日にに指定されている。 聚光院、南宗寺の肖像は共にによる賛が付記されている。 家族 [ ] 母親の出自は不明だが、長慶が18歳の時に死去した。 法名は「明室保公大姉」。 妻は一人目がの娘、二人目がの娘である。 いずれも政略結婚と考えられ 、一人目の妻とは、長慶がと結託したことが契機で離縁された。 『続応仁後記』は、一人目の妻との離縁について、「不縁の子細有りて、妻女別離」と記述している。 二人目の妻についても、公家や寺社と長慶が交流する過程で交わされた書状に名前が見えず、早くに病没したか、遊佐長教が暗殺された後実家に帰ったのではないかと推定される。 長慶が側室を娶ったことは確認されていない。 子供は義興一人のみで、義興は最初の妻との間に生まれた子だと考えられる。 家臣 [ ]• 三好一族• 阿波からの譜代• 篠原氏(、、、、)• 市原氏• 加地氏(、その他数名)• 塩田氏(、)• 畿内で新たに登用した人物• 摂津国人• (野間康久、多羅尾綱知、池田教正)• 京都近郊の国人• 旧幕臣• その他• (嫡男義興近習)• 出自不明• 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 絹本著色、賛、永禄9年()、蔵、。 大紋に描かれたは、永禄4年()にから許可されたもの。 明るい色彩や面貌の描写からの絵師の作と見られる。 なお、には本画像とほぼ同図様で、2年()7月4日に笑嶺宗訢が別の賛をした作品が伝わっている。 生母については姓名・出身は不明で聚光院に位牌が存在する• 合戦最中に政勝が戦場を放棄して放火したり、政長が長慶の事を細川晴元に讒言したといわれる(『細川両家記』)• 天野忠幸は『』でが述べた、「三好の人々には風流はあったが大志・野望がなかった」という寸評を引用し、こうした司馬の評価が、残念ながら世間一般の長慶や三好政権に対する評価だと述べている。 阿波以来の家臣は多くは阿波を支配した弟の実休に仕えたが、塩田氏の多くはそのまま長慶に随行して畿内で活動した。 ただし、松永久秀、岩成友通ら、畿内で新たに登用した家臣達が台頭して活躍し、その彼らは後塵を拝していたようである。 出典 [ ]• 『国宝 大徳寺聚光院の襖絵』展図録P90、、2003年• , p. , p. の呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。 , pp. 11-12. , pp. 1-2, 58-59、, p. 111、, p. , p. , pp. 66-69、, pp. 116-117、, pp. 88-89• , pp. 59-60• , pp. 72-75、, pp. 119-120、, pp. 96-97• , pp. 76-77、, p. 127• , pp. 60-61• , pp. 78-82、, pp. 121-126、, pp. 93-94• , pp. 82-95、, pp. 127-139、, pp. 97-102• , p. , pp. 96-107、, pp. 140-150、, pp. 102-105• , pp. 108-122、, pp. 151-172、, pp. 106-109• , pp. 39-41、62-63• , pp. 123-155、, pp. 172-189, 197-204、, pp. 109-115• , pp. 162-166、, pp. 213-217、, pp. 118-119• 118• 119• , pp. 62-63• , pp. 366、370• , pp. 166-178, 188-195、, pp. 217-226、, pp. 119-122• , pp. 210-213• , pp. 196-230、, pp. 235-242、, pp. 124-126• 馬部隆弘「内衆からみた細川氏綱と三好長慶の関係」『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年、680-716頁。 , pp. 228, 254-255、, pp. 250-265、, pp. 132-142• , pp. 179-188. 275. 139• 135• , p. 136. , p. 100. , p. 194. , pp. 105-106, 113. , p. 151、, p. 275• , pp. 193-195. , p. 234. , pp. 248-266• , pp. 276 - 278. , pp. 248-250、, p. , p. 248. , pp. 248-249. , p. 256. , p. 275. , pp. 275-276. , p. 251. , pp. 14-15. , p. , pp. 序2-3. , pp. 序3-4. , p. , pp. 15-16、, p. , p. 301、による解説• , p. 106. 『戦国時代、村と町のかたち』、2004年、56頁。 『日本史のなかの戦国時代』山川出版社、2013年、34-35頁。 257• , p. 276. , pp. 257-258. 140• , pp. 94-95. , p. , pp. 140-141. , pp. 149-145 参考文献 [ ]• 『戦国三好党 三好長慶』〈38〉、1968年。 『三好長慶』〈〉、1968年。 『日本の歴史 11.戦国大名』〈中公バックス〉、1971年。 『戦国の群像』〈集英社版日本の歴史 10〉、1992年。 『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』〈MC新書〉、2007年。 『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。 『コレクション日本歌人選14 戦国武将の歌』、2011年。 今谷明、『三好長慶』、2013年。 天野忠幸『三好長慶』〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年。 天野忠幸『増補版 戦国期三好政権の研究』清文堂、2015年。 『新約・』訳〈PHP新書〉、2008年。 関連作品 [ ] 小説• 徳永真一郎『三好長慶』(時代小説文庫、のち人物文庫、2010年5月。 ) テレビ番組• (、演:) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• Web版尼崎地域史事典『apedia』三好長慶• 有志による、三好長慶の再評価と顕彰を目的として設立・運営されている団体• 「公益財団法人関西・大阪21世紀協会」• 「徳島県観光情報サイト 阿波ナビ」• 「高槻市インターネット歴史館」.

次の

三好長慶とはどんな人?戦国時代最初の天下人の生涯

三好 長慶

晴天に恵まれた初夏、高槻市内に1時間ほどで登れる山があるので散歩気分で行ってきました。 場所は三好山で、続日本100名城になっている芥川山城跡があります。 芥川山城は、北・西・南の山裾を芥川がめぐる天然の要害・三好山 標高182. 69m に築かれた戦国時代の山城です。 摂津・丹波の守護・細川高国によって、永正 13 年 1516 までに築城されました。 時を経て戦国大名・ 三好長慶が天文 22 年 1553 に入城します。 長慶は将軍を擁立することなく畿内を支配し、人々から天下人との評価を受けるに至ります。 このあたりの物語はNHk大河ドラマ「麒麟がくる」で語られていました。 結局、織田信長に攻められたりして築城から60年ぐらいで廃されるのですが、今は高槻市民も知る人ぞ知る憩いの場となっています。 歩きやすいけど迷いやすいので注意 JR高槻駅北口ローターリーからでているバスに乗って 「塚脇バス停」で下車します。 駅からバス停まで歩くと45分ぐらいかかります。 バス停には、三好山や摂津峡のハイキングルートを示した地図看板があるのでよく確認しておきます。 私は念の為、スマートフォンで写真を撮っておきました。 この看板には「登山口」がしっかりと明記されているので、どこから登るのかよく調べておきましょう。 バス停からのあるきはじめは道路を挟んで向かいにある 「妙力寺 塚脇F1号古墳」と書かれた看板を目印に進みます。 住宅地の中を歩くのでこの看板を見落とすと登山口には一生たどり着くことができなくなります。 道なりに登る方向に進んでいきます。 分岐には三好山を示す道標があるので、見落とさないように歩きましょう。 黄金の里という厳かな老人ホームを右手に見て進んでいくと、だんだん山の中に入っていきます。 途中から舗装道から山道の上りへと変わります。 最初は田畑を見下ろしつつ進みます。 このあたりは何か大きな土地開発が進んでるらしく、大規模な整地が上の方まで続いていました。 何ができるのでしょうか? 三好山は私も最近知ったばかりだったからマイナーなハイキング道かと思えば、そうでもなく山を歩く人は結構おられました。 15分ほど登ると 「史蹟 城山城跡」という石標がありました。 「城山城」というのは芥川山城のことです。 ここは分岐になっていて、左の下り道へ向かうと 芥川山城の石垣が残っているのを見ることができます。 私は右の上り道へ。 少し歩くと展望がドカーンと広がりました。 高槻の町並みを一望です。 丸太の椅子がたくさんあったので、ここで一休み。 山頂は最高の眺めでした さらに少し進むと地元のボーイスカウト協会が整備したという 桜広場に到着。 残念ながら植樹した桜は台風でほとんど倒れてしまったそうだ。 山頂は広場のすぐ上です。 上がってすぐに迎えてくれたのは、さらに広がる眺望でした!数年前は木が邪魔で展望が利かなかったそうですが、台風でほとんどの木が倒れて今では素晴らしい景色を見ることができるようになりました。 平日なら摂津峡を眺めながら歩こう 帰りは摂津峡・上ノ口バス停方面に向かいます。 分岐のところで黄色いテープや木の道標がありますが、とてもわかりにくいので注意して発見してください。 こちらはあまり歩かれないのか、道は細く暗い。 芥川が眼下に見えてきました。 川遊びをする家族連れで賑わっている様子です。 上ノ口側の登山口へと下りてきました。 さてここから川沿いを歩いて摂津峡桜公園に抜けるか、上ノ口バス停から帰るか?せっかくだから渓流を眺めながら帰ろうと思い、上の口とは反対の摂津峡方面に向かいます。 摂津峡は数年前からバーベキュー禁止になっています。 しかし、渓流沿いの道には多くの家族連れや若者たちのグループで賑わっていました。 もうイライラするぐらいうるさいし、選択を間違ったと後悔しました。 このルートを歩くなら春夏の土日祝日は絶対にやめたほうがいい。 素直に上ノ口バス停へ向かったほうがいい。 平日なら人も少ないだろうからおすすめです。 結局うるさいぐらいの賑わいは、桜公園までずっと続き塚脇バス停へ。 途中に山水館という温泉や美人の湯〜祥風苑〜というスーパー銭湯もあり、もっとゆっくりすることも可能です。 それが「自然を旅する遊歩紀行」のはじまりです。 遊歩紀行の発信は、NIFTY-Serveのパソコン通信から始まり、今に至ります。 発信する媒体は変わっても、旅のスタイルやマインドは変わっていません。 私は、森を歩いているときに木々が軋む音や、風が走る音を聞くと魂の奥がザワザワとしてきます。 ひょっとすると、魂の奥底に「古代の森」を歩いた記憶が蘇ってくるのかもしれません。 はるか縄文人であったころ、豊かな森で過ごした日々。 そんな記憶のかけらを、覚醒することに癒されるような心地よさを感じます。 気の向くままに、自分の五感を頼りに旅をしよう。 出会いの経験と感動が、あなたの歩む道を教えてくれるでしょう。

次の

三好長慶会―信長・秀吉・家康に先立つ戦国天下人、三好長慶

三好 長慶

三好長慶 1523-1564 三好長慶,幼名千熊丸,父親是擁立細川晴元得到管領細川家實權的三好元長。 三好氏是清和源氏小笠原氏一族的分支,小笠原長清以其子長經分封於阿波,居於三好郡,遂以三好為苗字。 後於室町時代成為四國守護管領細川氏的家臣。 享祿四年,元長擁晴元上洛擊敗了同族的敵對勢力細川高國和浦上村宗,雖然名義上細川晴元是主公,但三好元長才是真正掌握權力的人物,晴元為此十分不滿,遂命元長的同族三好宗三和木澤長政用計對付元長,三好宗三和木澤長政鼓動本願寺一向宗徒暴動襲擊元長,將妻子與嫡子長慶送回領地阿波後,元長兵敗在界的顯本寺自刃。 天文三年,年僅十一歲的長慶在父親死後繼任為家督,長慶為了三好家的存續而不得不將父仇深深地強自隱忍在心中,透過木澤長政向細川晴元委曲求全進行和解,成為晴元的被官,獲攝津守護代之職,任越水城主。 晴元借本願寺的勢力擊敗元長後,雙方因利益糾結而大打出手,當年被元長擊敗的細川家分支見有機可趁紛紛起兵反對晴元,玉井氏康擁立了細川高國的義子氏綱、游佐長教擁立了田山植長之弟政國,與一向一揆聯手使晴元分身乏術難以應付,晴元命麾下的三好宗三等部將前往鎮壓,但全都慘食敗果。 為此晴元只好派人到四國阿波招長慶來援,本來長慶因為父仇,心懷芥蒂不願出兵,經過其弟三好義賢的勸諫後長慶才答應帶兵渡海去援助晴元。 天文八年元月,長慶率軍進入近畿和細川氏綱、田山政國等軍交戰,並且接受將軍足利義晴的命令與柳澤元俊一同勦滅了洛中的盜匪。 當年七月,昔日謀害長慶之父元長的三好宗三嫉長慶之威名而在細川晴元面前詆毀長慶,欲再次用計對付長慶。 宗三的預謀為長慶所知後,大怒之下長慶忿而與細川晴元決裂,和游佐長教聯合反戈進攻晴元的領地,於天文十一年三好長慶聯合游佐長教在河內太平寺擊殺了仇敵木澤長政,隨後便與游佐長教反目,先在翌年打敗玉井氏康擁立的細川氏綱,然後於天文十六年長慶次弟三好義賢率軍在攝津舍利寺大破游佐長教軍,次年四月,再無力與三好抗衡的游佐長教與田山政國臣服於三好長慶,長慶也迎娶了游佐長教的女兒以鞏固和游佐氏的同盟。 天文十八年三月,將軍義晴病死,三好長慶以四弟十河一存為先鋒進攻伊丹城並於城下放火,同日取中島城,迫近榎並城在攝津江口擊敗了細川軍,晴元方的大將三好宗三戰死,晴元政權面臨崩解的危機,晴元轉向有姻親關係的南近江六角家借兵,雙方在京都展開混戰,相互之間死傷慘重,先是在當年七月長慶命三好長逸跟十河一存進攻京都時被細川軍以洋槍伏擊,然後長慶親率大軍殺入京都,繼任的將軍義輝隨六角定賴逃往朽木。 翌年二月長慶和捲土重來的細川六角聯軍再次發生激戰,捲入戰火中的京都鹿谷因而付之一炬。 三月,長慶攻下了京都附近的岩倉城,七月,晴元方的香西元成由丹波往京都進攻,擊退了松永久秀並且焚燬了相國寺。 同年十一月,長慶以松永長賴為先鋒攻入近江,並在大津放火。 天文二十一年四月,三好長慶率領内藤國貞、松永長賴等部將出兵丹波,包圍支持細川晴元的波多野家居城八上城,同時妹婿芥川孫十郎受到池田家小川某的策反,於居城芥川城掀起反旗。 這樣一來一回的攻防戰使京都一帶飽受戰火的摧殘,當地人民苦不堪言,作戰的雙方也有感如此消耗戰鬥已使本身元氣大傷。 天文二十二年,六角定賴對三好長慶提出和議遣使要求和談,長慶順水推舟地要求細川晴元出家,由其子細川信良繼為管領的條件。 和議達成後,足利義輝回到已殘破不堪的京都正式繼任為室町幕府第十三代將軍,三好長慶以將軍直臣的名目擔任御供眾,大權盡入掌中,以幕府政所執事伊勢貞教處理戰後紛亂的洛中,隨即出兵包圍芥川城,攻打叛將芥川孫十郎,芥川城兵糧絕盡後孫十郎投降長慶,此後三好長慶便以芥川城為居城。 同年長慶次弟義賢殺細川持隆,謀奪其領國,三好家完全控制四國。 三好長慶的專權使身為將軍的足利義輝既不滿又不安,同樣擁有雄心壯志的義輝不甘於被長慶當作傀儡擺弄,於是暗中與細川晴元聯合對付三好,聞得這項消息的三好長慶迅速發兵帶領兩萬銳卒先在京都西郊擊潰晴元,然後由兵壓義輝駐紮的靈山城將其攻下,戰敗的義輝逃往近江投奔六角氏,三好長慶完全君臨近畿。 並以三弟冬康繼承以淡路為活動中心的水軍眾安宅氏,當長慶於中央政界活躍時,安宅冬康也以淡路為據點壓制大阪灣,進而與界的商人互相合作鞏固三好家的財政基石。 弘治二年六月,三好長慶、三好義賢、安宅冬康、十河一存四兄弟在父親的喪生地顯本寺於忌日當天舉行一場隆重的祭典。 之後長慶開始整頓因戰爭不絕而混亂無比的近畿地區,同年十月長慶重新制定賦稅,大幅刪修原來不合理的各項苛捐雜稅,翌年十月在京都大德寺頒布三條禁令整肅治安。 永祿元年,足利義輝與細川晴元再度發兵上洛,與三好家臣三好長逸於京都鹿谷交鋒,長慶命令松永長賴、三好長逸率一萬五千兵布陣於吉祥寺、梅小路、七條千乘寺、六條中堂寺,兩軍在白川口展開激戰,雙方皆死傷無數,為此三好長慶緊急向分封各處的弟弟要求增援,三好義賢、安宅冬康、十河一存與長慶會軍於尼崎,使情勢傾向三好家一方。 兩造最後在六角氏新當主六角義賢的斡旋下和談,三好長慶重新迎回將軍足利義輝,同時河內守護田山氏重臣安見直政和遊佐信教企圖謀害主公田山高政,但田山高政卻早一步逃至界町,兩人另立高政之弟昭高為傀儡家督,這番不臣的舉動讓三好長慶引為藉口。 永祿二年八月,三好家開始攻略河內國。 八月,攻陷安見直政的高屋城並迎回田山長政。 這時對解決了家臣叛亂的田山高政來說三好家的侵入是更加令其不安之事卻是三好長慶的趁機介入,於是轉與安見直政聯合。 但是這不過是給了長慶再一次進軍河內的理由,翌年十月,三好長慶以四弟十河一存領軍攻打飯盛高屋二城,擊破來援的根本眾,田山家的飯盛城同告陷落,三好長慶索性將河內守護田山高政流放,完全支配河內一國,同時重臣松永久秀也擊敗了興福寺筒井家奪取了大和國。 永祿三年,三好長慶便移居至飯盛城,芥川城交給長子義興。 永祿四年,三好長慶將宿敵細川晴元囚禁於攝津芥川城,此事引起了晴元的盟友六角義賢的不滿,於是六角義賢便與田山高政結盟一同對抗三好家,六角義賢、義弼父子於勝軍山起兵,安見直政也與田山高政於紀伊起兵呼應,聯合根來寺僧兵伺機進軍岸和田城與三好義賢對峙和泉久米田。 同年五月,噩耗驚傳,四兄弟中最為年幼但最為英勇的四弟十河一存在往有馬溫泉途中落馬傷重不治,自幼相依為命的手足驟逝,長慶不敢相信也不願相信,比自己小七歲而且一向健壯的四弟十河一存竟然比自己先走一步。 正是三好家禍不單行,隔年三月五日,田山高政與六角家組成三萬大軍聯合進攻和泉,引發久米田之戰,是役之中素為長慶倚重的二弟義賢戰敗身死,當時長慶正在居城與三弟安宅冬康及連歌師宗養、里村紹巴等招開連歌會,得報之後強忍心中悲痛秘而不宣,反而接著宗養的「芦間にまじる薄一村」,站起身來幽幽吟道:「古沼の浅き方より野となりて」此舉正表現出長慶的文化涵養與其處變不驚的態度。 吟完,從容不迫地公布了義賢的死訊,然後便親率兩萬大軍以安宅冬康、松永久秀為先鋒連同三好長逸、政康、康長等部將於五月二十日在河內教興寺大破田山、六角聯軍,將田山高政趕回紀伊。 永祿六年,三好長慶偕同家臣松永久秀等七十三人在界受洗,三月一日細川晴元病逝,而三好長慶也在接連失去兩個弟弟的打擊下身體急速衰弱起來,國事盡為松永久秀所控制,久秀忌憚長慶嫡子義興武勇能斷,日後繼位自己可能將大權盡失,索性將他毒殺。 由於此事為安宅冬康所知悉,所以久秀又在翌年於已病得精神恍惚的長慶面前進讒言,誣告其弟安宅冬康意圖謀反,已無法分辨是非的長慶大怒之下,親手斬殺了自己最後一個弟弟。 永祿七年七月,失去了眾親兄弟與長子的長慶在無盡的失落與孤寂中一病歸西,稱霸近畿的一代梟雄就此隕歿,享年四十三歲,法名聚光院眼室宗進。

次の