ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日。 『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』感想*ひたすらに生きる二つの命

『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』感想*ひたすらに生きる二つの命

ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日

著『パイの物語』が原作。 監督は。 とにかく映像が幻想的で美しい。 *あらすじ* 小説家(レイフ・スポール)がインド人の青年パイ・パテル(ーン・カーン)が語る幼少時代を聴きに訪れる。 ママジ(パイの叔父)から「話を聞けば神を信じる」と聞いてやって来たのだという。 〈ここからパイの幼少期の回想になる〉 パイはプールが大好きな父の親友ママジからパリの「世界一美しいプール」ピシン・モリトーと名づけられるが、ピシンはインド語で「おしっこ」と同じ発音で、クラスでからかわれるようになる。 パイ少年は神に興味を持ち、とと教とを同時に信奉するようになる。 母と父は植物園を営んでいたが、さらに動物園も経営してなど多くの動物を飼っていた。 パイはのリチャード・パーカー(売人の名前と勘違いしてつけられた名前)に興味を持ち、仲良くなろうと檻越しにエサで引きつけるが、それを見た兄が父を呼んでパイは強く叱責される。 そして忘れられない教訓として、無残にトラが子ヤギを喰い殺すところを見せた。 その教訓の日から、動物への甘い幻想は消えた。 回想はパイの青年期へ。 が出なくなり動物園を閉めることになったパイ一家は、新天地を求めて動物とともにカナダに移住を決断。 ダンス教室で出会った恋人アナンディとも別れることになる。 乗船した日本の貨物船では、母親がだというのに肉エキス入りのルーしかないというコックに悩まされ、仕方なく白米だけで食べていると「肉汁は肉じゃない」との船員に言われる。 ある晩大嵐に襲われ、その迫力に興奮したパイは外に出て叫ぶ。 するといきなり船が大きく傾き沈み始める。 家族を助けようとするも船は沈没し、動物達も海に投げ出される。 16歳の少年パイが人間では唯一の生存者となった。 、教、、仏教など色んな宗教感が出てきます。 小難しいことは分からずとも、映像の美しさだけで一見の価値アリです。 前半の回想シーンは少し退屈かもしれませんが、漂流してからはパイとトラとの駆け引きにぐいぐい引き込まれます。 信仰、自然、命、そんなものを感じる作品です。 オープニングの映像はを見ているかのようでした。 本物とCGの区別がつかないくらい、非常にリアルです。 そしてパイとトラの生きる意志に感動します。 ラストは、これでいいんだという気持ちになりました。 トラと227日もの漂流ですから、孤独感、飢えなど見てる方が辛いシーンもあります。 海は美しく恐ろしい。 描き方は非常にファンタジックですが、人間とトラの友情物語などというおとぎ話ではありません。 リアルな自然の厳しさを教えてくれます。 映像アートだと思って観るといいと思います。 可哀想なシーンもありますが、動物好きには特にオススメです。 怖いけどリアルなリチャード・パーカーがだんだん可愛く見えてきます。 これはであり知識のない私には、真の理解は到底できません。 全て何かを意味しているのでしょうが、それが分からなくても「綺麗…!」だけで充分だと思います。 説明できない代わりに、多めに画像を入れてみました。 分からないなりに考えてみましたが、 テーマは『いかなる苦境においても神と己を信じて力強く生きろ』だと私は思いました。 、、教と、なんとなくざっくりと各宗教色は説明してくれます。 象の姿をした神などを始め、色んな神の名前なんかは日本では漫画やゲームで知る機会があったりしますよね。 そこが宗教感の薄い日本の良いところでもあります。 良くも悪くも信仰がないので、いち異国文化としてに落とし込むのを躊躇しない。 それが問題視されることも少なくないので、慎重にはならないといけない部分ですが。 パイのお父さんは科学の力に病を救われてから、神を信じなくなったリアリスト。 お母さんは神を信仰しつつ、子供に押し付けたりしない優しい女性。 宗教には詳しくないですが、洋画を観ていると的思想が入っている場合が多いですよね。 他の宗教は分かりませんが、では科学が禁忌みたいにされてる場合が多いと感じます。 生物や自然を操作するのは神だけに許される行為、ということですね。 そんな多様性の縮図のような両親に育てられたパイは、先入観なく色んなことに興味を持つ子供になりました。 多数の宗教を信仰するというのは、ある意味日本のと似てるのかもしれません。 日本の場合は御墓参りや初詣、クリスマスにハロウィンなど生活に根付いているので宗教的な感覚が限りなく薄いですが、それらを多様な宗教的儀式だと意識してやっているのがパイのような事例でしょう。 親が動物園を経営しているせいか、動物にも興味を持つパイ。 特に興味深々だったのが、のリチャード・パーカーでした。 パイはリチャードの瞳の奥に何かを感じますが、肉食獣とは人間に制御できるものではない恐ろしい存在なのだと父に厳しく教えられます。 パイは、どんな動物でも仲良くなれる童話のような世界はないという現実を知りました。 実際に漂流した際も、リチャードは一切懐いてくれません。 いつ襲われるか分からないヒリヒリした空気がずっと漂っています。 ボードはリチャードに支配され、パイはずっとダ暮らし。 それでも立ち向かい続けるパイの精神力がすごい。 トラと人間が漂流しているうちに心を通じ合わせていくという話を想像していた私の夢想も砕かれました(笑) そんなおとぎ話みたいなハートフルな話じゃないんだこれは! といっても、何か言葉にできないような絆は確かにあったと思います。 ちなみにリチャードはもちろんフルCGですが、リアルさが半端ないです。 この状態が… 実際の映像ではリアルと遜色ない姿に! 人間をCGで表現するとまだまだ違和感がありますが、それ以外の自然や生物はほぼほぼ違和感なく表現できる技術が確立しているんですね。 この話は大人になったパイが、1人の作家に語った過去の実体験を回想する形で進行します。 リチャードとパイの277日にも渡る漂流話は信じがたいものでした。 日本船の保険会社の人達には信じてもらえず、パイは仕方なく動物を人間に例えた話を語って納得してもらいます。 実際パイが嘘として語った話が真実で、パイが見ていたのが全て幻想だった可能性もあります。 ですがパイは聞きます。 「君だったら、夢のようなリチャード・パーカーの話とただの漂流記どっちがいい?」と。 このパイの一言に全てが集約されています。 何を信じるかは自分次第。 作家は夢のある話を選び、この話を本にすると約束します。 保険会社の報告書には「トラと漂流した例はない(ので保険の判断が難しい)」と記載されていました。 保険会社の人達も、夢のような話を信じたのです。 私もリチャード・パーカーとの物語が好きです。

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阪神タイガースのトラッキー&トラと漂流する映画「ライフ・オブ・パイ」が阪神電車内を占拠

ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日

好ましかった話はトラ(リチャード・パーカー)が登場するほう。 以下にもうひとつの話、すなわちパイが逆上のあまり母親を殺害したコックを殺したというストーリーのほうで考えた内容について、ネタバレ多々で記します。 長いので根気のある方以外にはあまりお奨めはいたしません。 では…… もう一つの話は倫理的に非常に重たかったが、内容自体は単純な事実の連なりに還元できると思えた。 ただ、浮島の意味するところがさっぱり見当がつかなかった。 このもう一つの話において、この浮島はいったい何の比喩だったのだろう。 その解釈が思いつかず、ボゥ〜っと考えていた。 はじめは浮島の実の形から蓮(ハス)の花を連想したので、仏教に関係があるのだろうと思い、仏教による解釈を試みた。 パイの命をつないだ昼間の真水のプールは、夜には強烈に死を暗示する。 種があるはずの実の中心に歯があった植物は、諸行無常とも、生者必滅とも、あるいは輪廻転生ともとれる。 つまりこの島全体が、死をも含む生命の実相を表しているのだと考えられ、その解釈は一応仏教の解釈にも馴染んでいるように思えた。 だがしっくり来なかった。 なぜならこの映画における仏教の扱いはとても軽いからだ。 船内での食堂のシーンで、若い青年が提案した食事に関する見解は、結局パイの家族には受け容れられず却下されている。 それにこの浮島が仏教の教えで解釈されるものならば、序盤において仏教は重要なモチーフのひとつとして登場していなければならない。 しかしそのような構成ではない。 それではこの島のシーケンスに至って、ようやくはじめて仏教が詳細に述べられたのだろうか。 だが初めて脚光を浴びる仏教が、このようなおぞましさ、後味の悪さを残すような描かれ方で終わってよいものだろうか。 そうではあるまい。 少なくともこの原作者には特定の宗教を誹謗する姿勢は感じられない。 おまけに劇中でのパイは仏教徒でもない。 したがってこの浮島のパートは仏教をモチーフとしたものではあるまい。 この島のシーンを観た直後は、なまなましい感覚が残って少々不快だったのだが、この島がパイと彼の分身であるトラの命を繋いだことを考えると、この島が単純に禍々しさの象徴としてとらえるべきものでないことは確かだ。 浮島の全景は仰向けに寝ている人の姿であり、なおかつぼんやりと光っており、その絵柄からすればやはり神性を帯びたものととらえるべきだと感じた。 仏教以外でこの映画において神性を感じさせるもの。 それはなんだろう。 パイが信仰していたのはヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教だ。 これらの宗教は、本来の仏教、つまり釈迦がその生存時に直接説いた仏教とは異なり、すべて神を必要とする宗教だ。 そして嵐の時に祈りを捧げていたのは、ヒンドゥーのヴィシュヌ神だ。 ヒンドゥー以外ではどうか。 イエスなら、その亡骸は通常十字架の上か、マリアの膝の上であろうし、この島の不気味さとは相いれない。 イスラム教ではその教義から言って具体的な姿が映像として表現されることなど到底あり得ない。 では浮島をヴィシュヌとみなした場合、なにか不都合な点はあるだろうか。 こういうときにウィキペディアは便利だ。 調べてみると、 (1)ヴィシュヌの臍(ヘソ)から伸びた蓮の花からブラフマーが生まれる (2)ヴィシュヌから生まれたブラフマーが宇宙を創生し、それをヴィシュヌが維持・管理する (3)ヴィシュヌには多くの化身(アヴァターラと呼ばれ、「アバター」の語源とのこと)がある などの記載があった。 蓮に類似した植物の実の中に歯が入っており、映画にはヴィシュヌと共通のモチーフが使われていると言えよう。 またヴィシュヌの役割が宇宙、つまりこの世界の維持であるのなら、生と死、つまり生命の実相にも当然ヴィシュヌは深く関わっていると言ってよいだろう。 このように考えたので、この浮島はヴィシュヌ自身、あるいはその化身と理解して良さそうに思えた。 この考えをもとに、さらに漂流のできごとについて考えてみた。 さて劇中の浮島のエピソードから少し前に遡る。 パイの生命維持の根幹にある原初の凶暴な本能としてトラは活動している。 パイは理性、あるいは表層上の自我であろう。 そのトラがハイエナを殺す。 そのあとパイはトラを飼い馴らしはするが、トラが恐怖の対象として、さらには慙愧の象徴として存在することに変わりはなかった。 そんなときに、ヴィシュヌが稲妻として顕現した。 そのヴィシュヌに、パイがトラに見せたがったのも道理だ。 彼は己が思うにまかせないでいる本能を神に直接見てもらい、神からの言葉、あるいは承認、あるいは赦しを得たかったからだ。 嵐の後で、パイは救命ボート上でトラの頭を膝の上に乗せる。 残念ながら神からの赦しの件はわからなかった。 大切なところを見逃したのかもしれない。 ひょっとしたら本能とはある程度の共存協定が整ったのかもしれないし、あるいは単に飢餓と渇きでパイの理性も本能も疲れ切っていただけなのかもしれない。 ここのところの考察は不十分なまま残っている。 そして場面は進み、浮島、つまりヴィシュヌへ漂着する。 ヴィシュヌの体内で、パイは、「生きることは殺すこと」、という生命のありようを知る。 昼間が生命で満ちあふれていても、夜として象徴される死の世界が、生の世界のすぐ隣に存在し、その両者が織り成す構造こそが、生と死のあるこの世界、この宇宙の実相だと深く理解するに至る。 長期間の漂流という極限状況にあっては、それが凶暴な本能であろうと、人倫にもとる人肉食であろうと、それらすべてははじめからヴィシュヌにより赦されている。 なぜならすべてはヴィシュヌがつかさどること、つまりヴィシュヌの体の中でのできごとであり、ヴィシュヌが維持する世界の摂理のひとつの現われに過ぎないのだから。 原初の世界での生命のありようは、食べて、そして死ぬことの二点に尽き、そこに形而上学的価値観が入り込む余地はない。 そのような世界をヴィシュヌから生まれたブラフマーは造りあげ、その世界をヴィシュヌは偉大なる神として維持し続けている。 したがって原初の世界のように、生か死かの二者択一を突きつけられる状況では、パイの救命ボート上でのさまざまな行為は、はじめから、無条件で赦される。 なぜならパイも生きて、そして死ぬ身であるから。 この世界の一員として、ヴィシュヌから生命と、そしていずれ死すべき運命とをその身に備えさせてもらった存在なのだから。 これがこの寓話で語られた信仰の本質のように思う。 実際のところ、この島を出発するときにはまだパイは死に対する恐怖だけが気持ちの上で勝っていたようにも思う。 だがその後で、上で述べたような内容を理解し、自分の信仰として身に着けたのだろう。 浮島の後の話に進む。 メキシコの海岸で、トラはパイの願いも空しく振り向かず、さよならも言えず、森に消える。 パイには自分の分身であったトラ(通常の食欲、性欲、睡眠欲よりもさらに深いところにある原初の本能)に深い感慨があったことだろう。 しかしその上で漂流期間では必要だったトラは、文明世界に戻ったパイ(理性)にとって今後は制御したい、支配下に置きたいと切望するものともなった。 だからこそ、もうろうとした意識の中でも別れを告げたかったのだろう。 パイの理性はそのために、本能にはっきりとした決別を告げたかったのだ。 だが、そうはならなかった。 本能は、本能のまま、原初の姿を保ったまま森へ消える。 本能は理性のコントロール下にはいることを拒絶した。 パイは泣いたが、極限状況を生き延びたパイには分かっていたはずだ。 理性が望んでも、本能に別れを告げることなどできないことを。 かりにまたパイが危機にさらされることがあったなら、この荒々しい原初の本能はパイの表層の意思や理性とは無関係に、パイの生存を維持している生命活動そのもののために再びその凶暴な姿を現すだろう。 振り向きもせず、唸り声すらたてずにただ消え去っていったトラの姿に、実はこの理性とは完全に独立した本能の働きが担保されていたのではないだろうか。 私にはそう思えてならない。 劇中現在において、パイはこの凶暴なるトラの件を引きずってはいない。 自分に凶暴な本能が潜んでいることを自覚している。 そうでなければトラの登場しない第二の話を他人に語ることはできない。 パイはトラが潜む自分自身を怖れてもいないし恥じてもいない。 その凶暴さを含めて自分は自分であると考え、しかもその考え自体が信仰で赦されていると自覚し、かつ満足もしている。 落ち着いて訪問者に話ができること、そして幸せそうな家族の存在がその証左だと思う。 最後に、 光るものが神性の表現だと考えた場合、稲妻や浮島以外にも神は現われていたのではないか。 この観点からすると、クジラは間違いなく神の化身であろうし、その直前の光るクラゲの群れもまた神性を帯びたものだっただろう。 これらのように、夜間のシーンでは光るものは分かりやすいが、それでは日中のシーンではどうなのだろう。 筏(いかだ)の直下で採れた大きな魚(シイラかな?)も緑色にキラキラ輝いていたので、神のひとつの顕現であった可能性がある。 トビウオやそれを追いかけてボートに飛び込んできたマグロはどうだろう。 これは夜のシーンだが、星空を映した鏡のような海面のシーンも、実は神によるおだやかな見守りだったのかもしれない。 この映画には私が気づかなかった神性を示すシーンやモチーフがあったのかもしれないなと、今になって思っている。 それらの神性を汚さないためにも、この映画は美しく撮られたのではないだろうか。 もう一度観る機会があれば、それらをひとつひとつ探してみたい。 いい映画だと思います。 再見したい気になりました。 あ、ちなみに我が家での実験では バナナは水に浮きました。 ブラフマンの解釈とても参考になりました。 ありがとうございます。 この映画で気になったのは船です。 名前がTSIMTSUM(ツィムツーム)号、救難ボートにも同じ名前があります。 これは縮小の意味で、世界の縮図というメタファーがこめられています。 つまり、貨物船はノアの箱舟で、ボートは個人の心でしょう。 この船名はカバラ思想からきていますから、ボートは「生命の樹」を象徴していて、シートがかかった部分が陰で、シートが無い部分が陽なのでしょう。 パイの理性が陽で、野生や本能が陰かと。 それでトラはシートの中にいました。 トビウオなどの食料を奪い合ったパイ(人類のメタファー)が、次のシーンでは食料を分け合います。 シートの境界を巡ってオシッコを掛け合い縄張り争いしますから、シートの境は国境線をめぐって争う人類も象徴しているのだと思います。 こんな印象を持ちました。 日本の貨物船にしては変わった船名だなぁと思っていましたが、 カバラに関係があったのですか。 カバラは、その名称だけは聞いたことがありましたが、内容までは知りませんでした。 いちおういくつかのサイト(ウィキを除けば、『ヘブライの館2』が良かったかな)を覗いてみましたが、とても理解したと言えるほどの知識は身につけておりません。 ですが、ボートを「生命の樹」ととらえて陰と陽とに分け、おのおのが「理性」と、「野生」あるいは「本能」の比喩であるという考えは、たいへん示唆に富むものでした。 実はこの作品の鑑賞後に、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』を観た後のような気分になっていたのですが、この作品にも「生命の樹」が隠れモチーフとしてあったなんて思いもよらなかったです。 ただ、この物語が人間の社会全体としての争いまでをもその比喩の中に含んでいるのかについては、私は否定的な見方をしています。 なぜなら国境をめぐる争いは、国家間や部族間の利害、経済問題、歴史といった言わば世俗的な事柄で決められていることが大半でしょうし、純粋に信仰や宗教だけで決められているものは少ないのではないかと思っているからです。 せっかくのレスに、ちょっと反論しましたが、うさきちさんのお考え自体を否定しているわけではありません。 私はまた別な立場にいる、という表明だとご理解ください。 私は多様な考えに接するのが好きなので、うさきちさんのレスはうれしく思いましたし、ほんとうに参考になりました。 ラストで家庭を持ったパイが語ったように、物語を聞いた後は、聞いた人自身の、個人の物語になるのだと思います。 ですのでご容赦いただければと思います。 実は今、美しい夜空の下で海の底に横たわる船まで視点が移動し、光りを帯びた母親の顔が現われたシーンを思い返しています。 このあたりからトラがおとなしくなっていたような気がしていますが、これはトラがこのイメージを見せたのか、それともトラも同じイメージを見ていたのか、いまだ結論をくだせないままでいます。 本能こそが真の信仰へいざなうのか、本能もまた理性と同じように信仰を望むのか。 母親のイメージも、ヴィシュヌの化身と考えるべきか、あるいはヒンドゥーではなく、聖母マリア信仰?? もちろん単に母親への想いが生み出したものなのかも…などなど、いろいろな想像が湧き上がってきます。 ベンガルタイガーの耳の裏が、紺色のような色合いだった点とともに、記憶に残ったシーンの一つでした。 二度目の鑑賞で気づいた点がありました。 一回目にも聞いていましたが、完璧に失念していました。 これらから改めて浮島のことを考えると、やはりあの島はヴィシュヌ神と考えて間違いはないと思います。 一回目は聞き逃していました。 ……これは初見時には花か蝶々のように思ったのですが、今回は母親がクリシュナ神をパイに教えたときに地面に描いた模様のように見えました。 まあ日本人に生まれたせいで日頃から多神教になじんでいるので、ヒンドゥーのいろいろなモチーフに共感しやすかったのかもしれませんが、あまりキリスト教のにおいは感じずに済み、うれしく思いました。 それでも西欧社会で評価が高かったということは、キリスト教信者もそれなりの満足を得たのでしょうから、各宗教に関するアン・リー監督の描き方の「さじ加減」が、絶妙にうまかったのでしょうね。 普段神などは信仰していないにもかかわらず(今後も信仰する気はないのですが)、率直に「祈り」について思いを馳せることができた映画でした。 原作を読む気はないのですが、映画はさらにもう一度観たいなと思っています。 返信を投稿• 長いので根気のある方以外にはあまりお奨めはいたしません。 ただ、浮島の意味するところがさっぱり見当がつかなかった。 このもう一つの話において、この浮島はいったい何の比喩だったのだろう。 その解釈が思いつかず、ボゥ〜っと考えていた。 パイの命をつないだ昼間の真水のプールは、夜には強烈に死を暗示する。 種があるはずの実の中心に歯があった植物は、諸行無常とも、生者必滅とも、あるいは輪廻転生ともとれる。 つまりこの島全体が、死をも含む生命の実相を表しているのだと考えられ、その解釈は一応仏教の解釈にも馴染んでいるように思えた。 それにこの浮島が仏教の教えで解釈されるものならば、序盤において仏教は重要なモチーフのひとつとして登場していなければならない。 しかしそのような構成ではない。 それではこの島のシーケンスに至って、ようやくはじめて仏教が詳細に述べられたのだろうか。 だが初めて脚光を浴びる仏教が、このようなおぞましさ、後味の悪さを残すような描かれ方で終わってよいものだろうか。 少なくともこの原作者には特定の宗教を誹謗する姿勢は感じられない。 おまけに劇中でのパイは仏教徒でもない。 したがってこの浮島のパートは仏教をモチーフとしたものではあるまい。 浮島の全景は仰向けに寝ている人の姿であり、なおかつぼんやりと光っており、その絵柄からすればやはり神性を帯びたものととらえるべきだと感じた。 これらの宗教は、本来の仏教、つまり釈迦がその生存時に直接説いた仏教とは異なり、すべて神を必要とする宗教だ。 そして嵐の時に祈りを捧げていたのは、ヒンドゥーのヴィシュヌ神だ。 ヒンドゥー以外ではどうか。 イエスなら、その亡骸は通常十字架の上か、マリアの膝の上であろうし、この島の不気味さとは相いれない。 イスラム教ではその教義から言って具体的な姿が映像として表現されることなど到底あり得ない。 またヴィシュヌの役割が宇宙、つまりこの世界の維持であるのなら、生と死、つまり生命の実相にも当然ヴィシュヌは深く関わっていると言ってよいだろう。 この考えをもとに、さらに漂流のできごとについて考えてみた。 パイは理性、あるいは表層上の自我であろう。 そのトラがハイエナを殺す。 そのあとパイはトラを飼い馴らしはするが、トラが恐怖の対象として、さらには慙愧の象徴として存在することに変わりはなかった。 そのヴィシュヌに、パイがトラに見せたがったのも道理だ。 彼は己が思うにまかせないでいる本能を神に直接見てもらい、神からの言葉、あるいは承認、あるいは赦しを得たかったからだ。 残念ながら神からの赦しの件はわからなかった。 大切なところを見逃したのかもしれない。 ひょっとしたら本能とはある程度の共存協定が整ったのかもしれないし、あるいは単に飢餓と渇きでパイの理性も本能も疲れ切っていただけなのかもしれない。 ここのところの考察は不十分なまま残っている。 昼間が生命で満ちあふれていても、夜として象徴される死の世界が、生の世界のすぐ隣に存在し、その両者が織り成す構造こそが、生と死のあるこの世界、この宇宙の実相だと深く理解するに至る。 なぜならすべてはヴィシュヌがつかさどること、つまりヴィシュヌの体の中でのできごとであり、ヴィシュヌが維持する世界の摂理のひとつの現われに過ぎないのだから。 原初の世界での生命のありようは、食べて、そして死ぬことの二点に尽き、そこに形而上学的価値観が入り込む余地はない。 そのような世界をヴィシュヌから生まれたブラフマーは造りあげ、その世界をヴィシュヌは偉大なる神として維持し続けている。 したがって原初の世界のように、生か死かの二者択一を突きつけられる状況では、パイの救命ボート上でのさまざまな行為は、はじめから、無条件で赦される。 なぜならパイも生きて、そして死ぬ身であるから。 この世界の一員として、ヴィシュヌから生命と、そしていずれ死すべき運命とをその身に備えさせてもらった存在なのだから。 だがその後で、上で述べたような内容を理解し、自分の信仰として身に着けたのだろう。 しかしその上で漂流期間では必要だったトラは、文明世界に戻ったパイ(理性)にとって今後は制御したい、支配下に置きたいと切望するものともなった。 だからこそ、もうろうとした意識の中でも別れを告げたかったのだろう。 パイの理性はそのために、本能にはっきりとした決別を告げたかったのだ。 本能は、本能のまま、原初の姿を保ったまま森へ消える。 本能は理性のコントロール下にはいることを拒絶した。 パイは泣いたが、極限状況を生き延びたパイには分かっていたはずだ。 理性が望んでも、本能に別れを告げることなどできないことを。 振り向きもせず、唸り声すらたてずにただ消え去っていったトラの姿に、実はこの理性とは完全に独立した本能の働きが担保されていたのではないだろうか。 私にはそう思えてならない。 自分に凶暴な本能が潜んでいることを自覚している。 そうでなければトラの登場しない第二の話を他人に語ることはできない。 パイはトラが潜む自分自身を怖れてもいないし恥じてもいない。 その凶暴さを含めて自分は自分であると考え、しかもその考え自体が信仰で赦されていると自覚し、かつ満足もしている。 この観点からすると、クジラは間違いなく神の化身であろうし、その直前の光るクラゲの群れもまた神性を帯びたものだっただろう。 筏(いかだ)の直下で採れた大きな魚(シイラかな?)も緑色にキラキラ輝いていたので、神のひとつの顕現であった可能性がある。 トビウオやそれを追いかけてボートに飛び込んできたマグロはどうだろう。 これは夜のシーンだが、星空を映した鏡のような海面のシーンも、実は神によるおだやかな見守りだったのかもしれない。 それらの神性を汚さないためにも、この映画は美しく撮られたのではないだろうか。 もう一度観る機会があれば、それらをひとつひとつ探してみたい。

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ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日

ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日

の紹介:2012年アメリカ作品。 監督アン・リーがブッカー賞に輝いたヤン・マーテルの世界的ベストセラー小説『パイの物語』を原作に実写映画化した、衝撃と感動のサバイバル・アドベンチャー。 海上で嵐に遭い遭難し小さな救命ボートにベンガルトラと乗り合わせることになった一人の少年パイが、いかにしてその後生き延びることが出来たのか。 想像を絶する漂流生活の行方を美しく幻想的な映像で描き出す。 第85回アカデミー賞で全11部門にノミネートされました。 アン・リーが2度目の監督賞受賞を果たした作品。 ライフオブパイ/トラと漂流した227日のネタバレあらすじ:起 成人したパイ・パテル(イルファーン・カーン)は、若き少年の日に体験した長期漂流生活について、カナダ人小説家相手に語るところから物語は始まります。 パイ(スラージ・シャルマ)はインドのボンディシェリで生まれ育ちました。 父親は動物園を経営する実業家、母親は植物学者です。 パイは数学が得意な子供で円周率を延々と暗記し、教師や同級生から称賛されるほど。 パイの一家はイスラム教徒ですが、パイ自身はキリスト教の教えを受けるなど他の宗教に心を傾けるため、父親から叱責を受けます。 パイにとってはどちらも大切でした。 成長する間にどちらかに決めれば良いと母親のとりなしを受けますが、すぐにでも洗礼を受けたいと発言して父親を驚かせました。 父親が経営する動物園には、ベンガル虎がいますが、恐れを知らないパイはベンガル虎にエサをやろうとして近づき、父親にこっぴどく叱られました。 さらにパイの父親は虎がどれだけ恐ろしい存在か教えるために、パイの目の前で生きた動物を襲う虎の様子を見せます。 この時、パイは虎の恐ろしさを知ることになります。 ライフオブパイ/トラと漂流した227日のネタバレあらすじ:承 パイの父親が経営していた動物園は政府からの援助を打ち切られたため、閉園することになりました。 動物園を畳むと同時に動物を売って、新天地カナダモントリオールへ移り住むことになります。 恋をしていたパイですが一人残るわけにもいかず、泣く泣く家族と共に貨物船に乗り込みます。 貨物船に乗り込んだのは家族だけではありません。 動物園にいた多くの動物も一緒です。 その中にはあのベンガル虎もいました。 太平洋上を航行していた貨物船は、嵐に見舞われ船は沈没してしまいます。 この時家族を失ってしまい、生き残ったのはパイただ一人きり。 救命ボートに乗りこんだため命は助かりますが、他にも乗客がいました。 骨折したシマウマ・獰猛なハイエナ・オラウータンと、動物ばかりでした。 パイの目の前でシマウマはハイエナに襲われ、怒ったオラウータンが返り討ちにあって死んでしまいます。 さらにあのベンガル虎も乗り込んでいました。 ボートの中で一番強い虎は、シマウマ・ハイエナ・オラウータンを食べることで生き延びます。 パイは虎に食べられないように立ち回り、小さなイカダを作って虎と距離を置きます。 ボートに備えてある非常食や水のおかげで生き延びますが、パイを助けてくれるような船が通りかることはありませんでした。 ライフオブパイ/トラと漂流した227日のネタバレあらすじ:転 降りるわけにいかない救命ボートで、パイは虎と共存できるよう工夫します。 ベジタリアンのパイは虎のためにトビウオを網で獲ります。 虎と共に救命ボートにいるという不幸な出来事は、パイに緊張感を持たせました。 やっかいな同乗者のおかげで苦労をしてはいますが、生き延びることができているのだと気づきます。 どれだけの時が経過したのか、ある日、パイは美しい島にたどり着きました。 涅槃仏(寝釈迦像)の形をしており、美味しい水とミーアキャットという動物が生息する平穏な島。 まさに楽園でした。 虎もパイも島でのんびりと時を過ごしますが、夜になると島の様子は急変します。 水は酸性になり動物も人も溶かしてしまう恐ろしい島へと姿を変えます。 この島は人を食らう島でした。 急いで虎と共にボートに乗りこみ、再び青く広がる海の真ん中へと漕ぎだします。 227日の漂流の間に、パイは虎に対して少なからず親しみを感じていました。 コミュニケーションを取れていたように感じることもありました。 とうとうメキシコの海岸にたどり着いた時、虎はパイのことは気にせずさっさとジャングルの奥地へと去って行きます。 共に試練を乗り越えたと思っていたパイは寂しく思いながら、虎を見送りました。 ライフオブパイ/トラと漂流した227日の結末 地元の人たちに救助されたパイは、貨物船沈没の原因を解明するために訪れた保険調査員二人に、虎と救命ボートで漂流したことを話しました。 調査員の二人はパイの話が信じられず、誰もが信じられる真実の話をしてほしいと要求しました。 パイが語った別の物語は、コックと仏教徒の船員、パイの母親とパイ自身が助かったと話します。 船員は足に怪我を負っていましたが、切り落とさないと命は助からないというコックの助言に従い、母親が船員の足を抑えコックが切り落とします。 足を切ったにも関わらず船員は死に、コックは船員の足を魚のエサにしました。 怒った母親が大喧嘩をしますがパイにはイカダに乗るよう促します。 母親はコックに刺されて海に落とされ、逆上したパイがコックを刺し殺したと第二の物語を語りました。 母親を先にイカダに乗せれば良かったと悔やむパイ。 パイは一人で漂流したことになります。 カナダ人の小説家は、虎がパイ、ハイエナがコック、オランウータンが母親、船員がシマウマだろうと指摘しました。 どちらが本当の物語なのか聞く小説家に、パイは「どちらでも良い」と返します。 調査書に目を向けると、パイが長い漂流期間を経た末に帰還し、さらにベンガル虎と一緒であったことが書かれていました。 カナダ人の小説家も、パイが虎と救命ボートで漂流した話が真実であると考え、小説に書くことに決めるのでした。

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