奈良 の 大仏。 奈良の大仏と鎌倉の大仏の違い。大きさ、材質(材料)、手の形、螺髪(らほつ)の数など比較してみました。

大仏のつくりかた

奈良 の 大仏

『』に描かれた、治承の兵火以前(創建時のもの)の大仏の画像(奈良・蔵) 東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年()に造像が発願された。 実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年()に開眼供養会が実施された。 のべ260万人が工事に関わったとされ、の教授らがの『』を元に行った試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された。 大仏は当初、奈良ではなく、の近くの甲賀寺(今の)に造られる計画であった。 しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。 制作に携わった技術者のうち、大仏師として(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。 天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。 開眼導師は出身の僧・が担当した。 大仏と大仏殿はその後、4年()と10年()の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている。 現存の大仏は像の高さ約14. 7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。 台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表す画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。 大仏は33年()2月8日、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」としてに指定されている。 現存の大仏殿は正面の幅(東西)57. 5メートル、奥行50. 5メートル、棟までの高さ49. 1メートルである。 高さと奥行は創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86メートル)の約3分の2になっている。 大仏殿はしばしば「世界最大の木造建築」と紹介されるが、20世紀以降の近代建築物の中には、大仏殿を上回る規模のものがある。 よって「世界最大の木造組建築」という表現の方が正確であろう。 略年表 [ ] 正史『』、東大寺の記録である『東大寺要録』が引用する「大仏殿碑文」「延暦僧録」によれば、大仏造立の経緯はおおむね次の通りである。 天平12年() - 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)ので盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心したという。 (続紀)• 天平13年2月14日(3月5日) - 聖武天皇が・国格など)• 天平15年10月15日(11月5日) - 聖武天皇が近江国にて大仏造立の詔を発する。 (続紀)• 天平16年11月13日(12月21日) - 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる。 (続紀)• 天平17年() - 、を転々としていた都が5年ぶりにに戻る。 旧暦8月23日(745年9月23日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される。 (碑文)• 天平18年10月6日(11月23日) - 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う(続紀)。 これは、大仏のための原型が完成したことを意味すると解される。 天平19年9月29日(11月6日) - 大仏の開始。 (碑文)• 天平勝宝元年10月24日(12月8日) - 大仏の鋳造終了。 (碑文)• 天平勝宝4年4月9日(5月26日) - 大仏開眼供養会が盛大に開催される。 (続紀) なお、開眼供養会の時点で大仏本体の鋳造は基本的には完了していたが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了であった。 大仏造立の思想的・時代的背景 [ ] 華厳経と盧舎那仏 [ ] 大仏は姿の上ではなど他の如来像と区別がつかないが、『』に説かれる盧舎那仏という名の仏である。 『華厳経』は西暦400年前後にで成立し、中国経由で日本へもたらされた仏教経典で、60巻本、80巻本、40巻本の3種類の漢訳本があるが、うち奈良時代に日本へもたらされたのは60巻本と80巻本である。 前者は5世紀、東晋の訳で「旧訳」(くやく)、「六十華厳」といい、後者は7世紀末、唐の訳で「新訳」、「八十華厳」という。 盧舎那仏はこの華厳経に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。 『続日本紀』によれば、聖武天皇は天平12年2月()、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、これが大仏造立のきっかけとなったという。 知識寺の跡は柏原市太平寺に残り、7世紀後半の瓦が出土している。 なお、ここでいう「知識」とは、信仰を同じくする人々の集団である「同志」「同信」といった意味である。 同じ天平12年の10月、聖武の四十賀に際し、で華厳教学を学んだが金鐘寺にて華厳経を講義している。 盧舎那大仏造立の背景にはこうした『華厳経』に基づく信仰があった。 大仏造立の詔 [ ] 聖武天皇は天平15年10月15日(11月5日)、近江国にて大仏造立の詔を発した。 詔の全文は『続日本紀』にあり、以下のとおりである。 朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。 志(こころざし)兼済に存して勤めて人物を撫(ぶ)す。 率土の浜、已(すで)に仁恕に霑(うるお)うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に洽(あまね)からず。 誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰(あいやすら)かに万代の福業を修めて動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。 粤(ここ)に天平十五年歳(ほし)は癸未に次(やど)る十月十五日を以て菩薩の大願を発(おこ)して、盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る。 国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構え、広く法界に及ぼして朕が知識となし、遂には同じく利益を蒙らしめ共に菩提を致さしめん。 それ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。 天下の勢を有つ者も朕なり。 此の富勢を以て此の尊像を造る。 事や成り易く、心や至り難し。 但恐らくは、徒(いたづら)に人を労すること有て能く聖を感ずることなく、或は誹訪(ひぼう)を生じて罪辜(ざいこ)に堕せんことを。 是の故に知識に預る者は、懇ろに至誠を発して、各(おのおの)介(おおいなる)福を招き、宜(よろし)く日毎に盧舎那仏を三拝すべし。 自ら当(まさ)に念を存し各(おのおの)盧舎那仏を造るべし。 如し更に人の一枝の草、一把の土を以て像を助け造らんことを情(こころ)に願う者有らば、恣(ほしいまま)にこれを聴(ゆる)せ。 国郡等の司、此の事に因りて、百姓を侵擾(しんじょう)して強(あながち)に収斂せしむること莫(なかれ)。 遐邇(かじ)に布告して、朕が意を知らしめよ。 (大意)私は天皇の位につき、人民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下にあまねく行きわたってはいない。 三宝(仏、法、僧)の力により、天下が安泰になり、動物、植物など命あるものすべてが栄えることを望む。 ここに、天平15年10月15日、菩薩の(衆生救済の)誓願を立て、盧舎那仏の金銅像一体を造ろうと思う。 国じゅうの銅を尽くして仏を造り、大山を削って仏堂を建て、広く天下に知らしめて私の知識(大仏造立に賛同し、協力する同志)とし、同じく仏の恩徳をこうむり、ともに悟りの境地に達したい。 天下の富や権勢をもつ者は私である。 その力をもってこの像を造ることはたやすいが、それでは私の願いを叶えることができない。 私が恐れているのは、人々を無理やりに働かせて、彼らが聖なる心を理解できず、誹謗中傷を行い、罪におちることだ。 だから、この事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。 たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを許せ。 役人はこのことのために人民から無理やり取り立てたりしてはならない。 私の意を広く知らしめよ。 聖武は大仏造立のためには「国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構へ」、つまり、国じゅうの銅を溶かして大仏を造り、山を削って大仏殿を造ると言っている。 実際に大仏の原型制作と鋳造のためには大量の土を必要とし、東大寺大仏殿は実際に山の尾根を削って造成されたものであることが、庭園研究家のによる東大寺境内の地形調査で判明している。 時代背景 [ ] 大仏造立の詔の2年前の天平13年(741年)、聖武天皇は詔して、国ごとにと国分尼寺を造ることを命じた。 そして、東大寺は大和国の国分寺であると共に、日本の総国分寺と位置付けられた。 この国分寺造立の思想的背景には護国経典である『』(10巻、唐僧の義浄訳)の信仰があった。 同経によれば、この経を信じる国王の下には、仏教のであるが現れ、国を護るという。 聖武は、日本の隅々にまで国分寺を建て、釈迦像を安置し、『金光明最勝王経』を安置することによって、国家の安定を図ろうとする意図があったものと思われる。 聖武天皇が位に付いていた8世紀前半、すなわち天平時代の日本は決して安定した状況にはなかった。 天平9年()には、当時の政治の中枢にいた・・・の四兄弟が、により相次いで死去した。 そのほかにも、天平時代は例年・が続き、天平6年()には大地震で大きな被害があり、国分寺建立の詔の出る前年の天平12年()には九州でが発生するなど、社会不安にさらされた時代であった。 聖武による国分寺の建立、東大寺大仏の造立には、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあったものと推測されている。 大仏鋳造の経緯 [ ] 鋳造手法 [ ] 『東大寺要録』に引く「大仏殿碑文」によれば、天平17年8月23日、平城東山の山金里で大仏造立が開始されている。 『続紀』によれば、天平18年10月6日、聖武天皇は金鐘寺に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行っているが、これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解されている。 「碑文」によれば、鋳造は天平19年9月29日に開始され、天平勝宝元年10月24日に終了した。 「碑文」は「三箇年八ヶ度」、つまり3年にわたり、8回に分けて鋳造が行われたと言っているが、実年数は2年間強である。 「八ヶ度」は、巨像を下から上へ、8段に分けて順次鋳造したという意味に解釈されている。 その造像手法は次のように推定されている。 まず、木材の支柱を縦横に組み、これに細い枝や麻縄などを巻きつけ、塑像の芯材の要領で大仏の原型の芯を造る。 大仏のおおよその形ができたら、これに土をかぶせる。 かぶせる土はきめの荒いものから塗り始め、だんだん外側へ行くにしたがって粒子の細かい土を塗っていく。 こうして金銅像と同じ大きさの土製の像ができる。 これを原型または中型(なかご)という。 中型の土が十分乾燥してから、今度は中型を外側から覆うような形で「外型」をやはり粘土で造る。 巨像のため、外型は下から上へ、8段に分けて造られた。 中型と外型が接着しないように、剥離剤として薄い紙をはさむ、あるいはをまくなど、何らかの方法が取られたはずである。 外型を適当な幅で割り、中型から外す。 外型の内面を火で焼き、型崩れしないようにする。 中型の表面を削る。 この作業で削った厚みが、完成像の銅の厚みとなる。 一度外した外型を再び組み合わせる。 外型と中型がずれないようにするため型持を入れる。 正倉院文書によれば、型持は4寸四方、厚さ1寸の金属片を3,350枚造ったという。 炉を持ち込み、高温でを溶かし、外型と中型のすき間に溶けた銅を石の溝から流し込む。 鋳加(いくわえ)、鋳浚(いさらい)という、鋳造後の表面の仕上げ、の取り付け、像表面の鍍金、光背の制作など、他にも多くの工程があり、これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われる。 作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられたのにより多くの人命が失われたとも言われる。 銅に含まれていたと鍍金に使用された水銀による推定数百人の中毒患者のため、これを専門とする救護院が設けられていた。 また、巨大な大仏製造のための銅による鋳造過程での環境破壊の問題についても指摘 されている。 開眼供養 [ ] こうして、天平勝宝4年4月9日(5月26日)には大仏開眼供養会が挙行された。 聖武太上天皇(すでに譲位していた) 、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。 『』、『東大寺要録』によれば、開眼会当日の様子は次のようなものであった。 大仏殿前の庭には五色の幡と宝樹が飾られ、中央には舞台が、東西には『華厳経』の講師と読師のための高座が設置された。 大仏殿内は造花と繍幡(刺繍を施した幡)で荘厳されている。 玉座には聖武太上天皇、光明皇太后、が座す。 南門からは上位の僧1,026人が入場。 本日の開眼の導師を務めるのはインド僧の菩提僧正()、『華厳経』を講ずる講師はの隆尊律師、『華厳経』を読み上げる読師はの延福法師である。 大仏の瞳を描き入れる儀式は、聖武太上天皇が体調不良のため、菩提僧正が担当した。 菩提僧正が開眼に使用した筆には長大な縷(る)が取り付けられており、列席の人々はこの縷に触れて大仏に結縁した。 このあと、唄(ばい)、散華(さんげ)、梵音(ぼんのん)、錫杖(しゃくじょう)という四箇法要が行われ、続いて『華厳経』の講説がある。 続いて衆僧・沙弥9,799人が南門から入場し、幄(仮の座席)に着座した。 大安寺、、元興寺、の四大寺の僧か数々の珍宝を大仏に献ずる。 さらに日本、中国、朝鮮の楽人・舞人らによる楽舞が披露される。 『東大寺要録』によれば、当日披露されたのは大歌女・大御舞(おおうため・おおみまい)、久米舞、楯伏舞(たてふしのまい)、女漢躍歌(おんなあやおどりうた)、跳子(とびこ)、唐古楽、唐散楽、林邑楽(りんゆうがく)、高麗楽、唐中楽、唐女舞、高麗女楽であり、これらが夕方まで行われた。 このうちの林邑楽が、仮面劇の伎楽にあたるとみられる。 開眼法要で使用された伎楽面は東大寺およびに現存している。 『』のうちには、『蝋燭文書』と称する巻物があり、内容不明とされていたが、これが大仏開眼会に列席した万僧の交名(名簿)であることが判明し、「1万数千人」は誇張ではなかったことがわかった。 開眼の際に使用した筆や墨、筆に結び付けられた紐である開眼縷(る)、当日大仏に奉納されたに使用されたなどは、宝物として現存している。 「天平宝物筆」と呼ばれる仮斑竹(げはんちく)製の筆は長さ56. 6センチ、「天平宝物墨」と呼ばれる墨は長さ52. 5センチ。 縹縷(はなだのる)は長さ190メートルに及ぶ。 『続紀』は当日の様子を、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と述べている。 仕上げ作業 [ ] と支え なお、開眼供養の時点で、大仏の仕上げはまだ完了していなかった。 『東大寺要録』に引く「延暦僧録」によると、「鋳加」作業は天平勝宝2年正月(750年)に始まり、開眼供養より後の天平勝宝7年正月(755年)まで掛かっている。 鋳加とは、鋳造後、溶銅がうまく回らなかったり、空洞ができたりした箇所に再度銅を流し込んだり、銅板で補強したり、はみ出した部分を削ったり、8段に分けて鋳造した継ぎ目を接合(鋳からくり)したりといった一連の仕上げ作業のことである。 こうして仕上げが終わり、表面をやすりで平滑にしたところで、初めて鍍金の作業に入る。 「大仏殿碑文」によると鍍金開始は開眼会直前の天平勝宝4年3月14日(752年4月2日)、完了は「正倉院文書」に天平宝治元年 757年 と記載されていることから 、開眼会の時点では鍍金は未完成である。 はさらに後の天平宝字7年 763年 に着手し、宝亀2年(771年)に完成した。 このように、大仏の仕上げが未完成の状態で開眼会を挙行した理由については、聖武天皇が病気のため、実施を急いだという説もあったが、天平勝宝4年(752年)が、『』などの主張する仏教伝来の年(欽明天皇13年・552年)から200年目の節目の年に当たり、この年の仏誕の日(4月8日)に合わせて開眼会を実施したとする説が有力となっている。 開眼会は、実際には1日順延されて旧暦4月9日に実施されているが、順延の理由は定かでなく、天候のためかとも言われている。 台座 [ ] 大仏の台座には奈良時代当初の部分が比較的多く残っている。 台座は大小各14枚の蓮弁からなり、表面には釈迦如来像を中心に、蓮華蔵世界を表した図様が線刻され、奈良時代仏画の遺品としても貴重である。 蓮弁の図像については、『華厳経』に基づくとする説、『』に基づくとする説、『華厳経』・『梵網経』の両方の要素を取り入れているとする説がある。 平安時代後期に東大寺を訪れた大江親通は、『七大寺巡礼私記』(6年・頃成立)の中で、大仏の台座は天平勝宝4年(752年)から同8年(756年)にかけて造られたものだと書き残している。 これが正しいとすれば、大仏は像本体が初めにでき、台座は後から鋳造されたことになる。 最初にこれを取り上げたのは足立康で、彼は昭和9年(1934年)、台座後鋳説を主張した。 以後、技法面から考えて台座が先に鋳造されたはずだとする説(など)と、台座後鋳説が対立しており、台座内部の本格的な調査が行われていないこともあって、結論は出ていない。 資材調達 [ ]• 銅:大仏建立に用いられた銅の量は記録によって差異があるが、約500トンと考えられている。 『』が引用する縁起文によれば、大仏建立に用いた銅は「西海から」集めたとしており、銅のほとんどは山口県のやその近隣の銅山で産出された銅でまかなわれたことが推察される。 大仏創建当時のままと思われる部位、大仏殿西回廊横から出土した銅塊、長登銅山の銅鉱石の濃度との間には強い近似性が認められている。 蓮華座と線刻画 [ ] 蓮弁線刻画 釈迦像 大仏の坐す蓮華座は、仰蓮とその下の反花からなり、ともに28弁(大小各14)の花弁を表す。 仰蓮にはそれぞれにタガネで彫った線刻画がある。 2度の兵火にもかかわらず、台座蓮弁の線刻画にはかなり当初の部分が残り、奈良時代の絵画資料として貴重である。 なお、現在、銅の蓮華座の下に石造の円形の台座があるが、創建当時の大仏の台座は銅の蓮華座の下にさらに石造の蓮華座があった。 『』には治承4年(1180年)の兵火で焼ける以前の大仏の姿が描写されているが、そこにも銅と石の二重の蓮華座が描写されている。 蓮弁の線刻画はいずれの蓮弁にも同じ図柄が表されているが、細部の寸法を計測すると完全に同じではなく、一枚一枚異なっている。 これは同一の原図をもとに、フリーハンドで作図したことによると考えられている。 蓮弁の上部にはと諸菩薩が描かれ、下部には7枚の蓮弁をもつ巨大な蓮華がある。 これらの中間の部分は26本の水平線を引いて25段の層に分かれている。 これらは全体として『』の説く「蓮華蔵世界」のありさまを表したものである。 『華厳経』の世界観によれば、「香水海」という清い真水の大海の上に一輪の巨大な蓮華がある。 その上は大地になっており、そこにはまた無数の香水海があって、そのそれぞれに一輪ずつの大蓮華がある。 その上には無数の世界が積み重なり、それぞれの世界に無数の仏国土があるという。 前述のとおり、創建当時の大仏の台座は銅の蓮華座の下にさらに石造の蓮華座があり、蓮華を重ねることによって「蓮華蔵世界」を表していた。 なお、蓮弁の画像については、『華厳経』の説く「蓮華蔵世界」ではなく、『』の説く「蓮華台蔵世界」に基づくものだという説が、小野玄妙によって1915年に提出された。 『梵網経』の説く「蓮華台蔵世界」とは、盧舎那仏の坐す千弁の蓮弁のそれぞれに一つの世界があり、そこには盧舎那仏の化身である釈迦如来がいて、一つひとつの世界には百億の(世界の中心にあるとされる山)と百億の(われわれが住むとされる世界)があるというものである。 蓮弁の画像が『華厳経』と『梵網経』のいずれによるものかについてはその後論争があったが、現在では、『華厳経』、『梵網経』、『』などの説を合わせて用いたものと考えられている。 各蓮弁の線刻画の図様をくわしく見ると以下のとおりである(説明の都合上、線刻画を「上段」「中段」「下段」に分ける)。 上段は中央に説法相の釈迦の坐像をひときわ大きく表し、その左右には各11体ずつ、計22体の菩薩像を表す。 これらの周囲には雲上の化仏が飛翔している。 中段は26本の水平線を引いて25段の層に分けられている。 このうち、上から1段目から3段目までには何も描かれていないが、4段目から下には菩薩の頭部、楼閣などが描かれる。 11段目までは水平線が蓮弁の幅一杯に引かれているが、12段目から下では左右の幅がしだいに狭まっていく。 19段目から25段目までの計7段分は、縦方向に6つの切り込みが入って、7つの部分に分かれている。 これはその直下にある7弁の蓮華に対応している。 この25段に、上段の釈迦と諸菩薩のいる区画を加えて26段となるが、これは仏教の世界観で、須弥山の上にある26の世界(境地)を象徴している。 下段の7つの蓮弁にはそのそれぞれに須弥山世界を描く。 具体的には、須弥山を中心に、その周囲にあるとされる七金山や四大洲が表されている。 その四大洲のうち、われわれが住むとされる南の閻浮提は手前に大きく描かれている。 蓮弁の線刻画は全体として、仏教の説く「」(欲界、色界、無色界)を表している。 三界については『』という経典に説かれているが、松本伸之は大仏蓮弁線刻画は『倶舎論』ではなく『大智度論』に依拠したものだと解釈した。 『大智度論』によれば欲界は六天、色界は初禅、二禅、三禅、四禅の4つに分かれて計十八天、無色界は四処に分かれるとされ、以上を合計すると28になるが、欲界の六天のうち最下部の二天(地居天)は須弥山上にあるとされており、これを除いた残りの26の世界(境地)が蓮弁線刻画の26段に対応すると解釈されている。 『倶舎論』では色界を1つ少ない十七天とするため、段数が合わなくなるという。 前述のとおり、線刻画の中段では上から19段目から25段目までの計7段分の幅が狭くなっているが、この7段は六欲天のうち上の方にある四天(空居天)と、色界初禅の三天に相当する。 欲界は須弥山と同じ広さ、色界初禅は須弥山と四大洲を合わせた広さとされる。 色界二禅はその千倍の広さ(小千世界)、三禅はそのまた千倍(中千世界)、四禅はそのまた千倍で、これらを合わせて「三千大世界」という。 線刻画の中段で、下の方の段ほど幅が狭く表されているのは、こうした世界観に基づく。 線刻画のうち、釈迦と諸菩薩のいる上段と、その直下の何も描かれていない3段とが、無色界に相当する。 東大寺と橘奈良麻呂 [ ] 天平勝宝4年(752年)に、大仏の鋳造が終了し、(現在のインド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が盛大に挙行された。 そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは2年()のことである。 だが、このような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。 実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、の税制が崩壊寸前になる地方も出るなど、の大きな矛盾点を浮き彫りにした。 天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、聖武太上天皇が没する。 その翌年の7月に起こったのが、である。 旧暦7月4日に逮捕されたは、の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。 政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。 ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父()の時代である。 その口でとやかく言われる筋合いはないし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。 橘奈良麻呂の乱は計画性に乏しく、軽率と言えば軽率ではあった。 東大寺と藤原仲麻呂 [ ] これに対して飯沼賢治は「そもそも東大寺での大仏建立は聖武天皇の意思であったのか?」という事に疑問を呈する説を出している。 飯沼説は聖武天皇による大仏建立計画は甲賀寺での建立中止時に挫折し、東大寺における大仏建立は光明皇后および彼女を支えたが深く関与していたとするのが主旨である。 皇后の父で奈良時代初期の政治を主導した藤原不比等の仏教政策は所謂「」の確立であり、行基教団の弾圧もその政策の一環であった。 娘である光明皇后もその遺志を継承して国分寺の建立など官寺の建設計画に関与していった。 ところが、夫の聖武天皇が行基や知識集団に接近して民間の協力を得て大仏建立を決意した事はその政策の否定につながるものであり、許容できない物であった。 このため、聖武天皇と光明皇后の仏教観の対立は政治的対立も絡んで大仏計画に深く影を落とし、その結果皇后が勝利して大仏建立計画は白紙化されて、彼女の建立した福寿寺をルーツの一つとし、「国家仏教」の中核になる筈である奈良の東大寺にて国家事業として大仏を建立するという天皇の計画とは全く異なる計画が開始されたとする(なお、皇后の仏教政策には唐のの影響も受けていることを指摘する)。 また、政治的には天皇に近かったやが左遷され、政権の中枢も橘諸兄から皇后の後ろ盾を受けた藤原仲麻呂主導に移ることになったとする。 なお、飯沼は紫香楽宮放棄の原因になったとする宮周辺での謎の不審火は皇后側によるもので、天平勝宝元年(749年)に起きたの託宣の入京も天皇側の大仏建立の主導権を取り戻すために仕掛けた反撃の一環と解する。 更に光明皇后の崩御後に藤原仲麻呂が急速に没落した背景の1つに、父である聖武天皇の仏教観に共感しながらも母の光明皇后に抑圧されていた孝謙天皇が母の崩後にその意向を公然と表明して政治的にも巻き返しを図ったことが原因で、宇佐八幡宮が聖武ー孝謙派であったことが後のにもつながっていくと説く。 焼損と復興 [ ] 詳細は「」を参照 大仏と大仏殿の2回目の焼失は永禄10年(1567年)、と、松永と対立関係にあった東大寺にあえて布陣した三好三人衆軍の戦いの最中に焼失した。 この火災の原因について、大仏殿を狙った攻撃である、夜襲の際の失火である、三好三人集軍の陣中にいたによる放火である、との諸説あり定かではない。 前回の焼失の際とは時代背景も違い、復興事業はなかなか進まなかった。 大仏殿は仮堂で復興したが、それも15年()に大風で倒壊した。 大仏の頭部は銅板で仮復旧されたままで、雨ざらしの状態で数十年が経過した。 元年()、はから大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得て、ようやく再興が始まった。 こうして4年()完成し、翌元禄5年()に開眼供養された大仏と、6年()に落慶した大仏殿が現存する。 大仏殿は創建当時と比較して約4分の3の規模になっている。 大仏の現状 [ ] 銅合金に含まれる鉛と砒素の重量%。 1~14番は大仏各部 、15~17番は大仏殿西回廊横出土銅塊。 大仏のどの部分が天平当初のものであるかについては、資料によって小異がある。 『奈良六大寺大観 東大寺二』によれば、右腋から下腹にかけての部分、両手の前膊と袖の大半、両脚のすべてが奈良時代のものであるとする。 『週刊朝日百科 日本の国宝』の解説(1998年)は、右腋から腹、脚部にかけての部分が当初。 蓮肉、蓮弁は台座後方に当初のものが残るとし、体部の大半は室町時代末期の補修、頭部は江戸時代のもので、鎌倉時代の補修部分は背中の一部に残るのみだという。 これまで像のは、平安時代に編纂された『』に基づき966個と言われてきたが、准教授の大石岳史の研究グループが行ったレーザー光解析により、実数は492個(うち9個は欠けている)であることが判明した。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• (川村、1986)、pp. 16 - 18による。 (川村、1986)、pp. 16 - 18、(金子、2010)、pp. 34 - 35を参照した。 (川村、1986)、pp. 36 - 38• 左右田信一「談話室 即身仏信仰と安全工学(科学)」『安全工学』第27巻第4号、1988年、 238-239頁。 平城京、水銀汚染痕なし『朝日新聞』2013年05月29日 東京 夕刊• 本段落は特記なき限り(川村、1986)、pp. 3 - 6および(金子、2010)、pp. 33 - 34による。 (栄原、2002)、p. (金子、2010)、p. 石野亨「奈良東大寺大仏の塗金」『金属表面技術』第15巻第6号、1968年、 7-11頁。 橋本(2005)pp. 265-266• 『週刊朝日百科 日本の国宝』51(朝日新聞社、1998、p. (金子、2010)、pp35 - 36. (川村、1986)、pp. 6567• 本段落は(川村、1986)、pp. 58 - 65(金子、2010)、pp. 36による。 本段落は(川村、1986)、pp. 68 - 70, 76による。 本段落は(川村、1986)、pp. 64 - 65. 70 - 74(金子、2010)、pp. 36 - 38による。 本段落は(川村、1986)、pp. 73 - 74による。 飯沼賢治「信仰の広がり」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(吉川弘文館、2016年) P154-166• 『』貞観9年4月4日条• 『日本三代実録』貞観3年3月12日条• 『奈良六大寺大観 東大寺二』、p. 『週刊朝日百科 日本の国宝』51(朝日新聞社、1998、p. 東大寺 公式ホームページ• 朝日新聞 2015年12月3日• 毎日新聞 2015年12月3日 参考文献 [ ]• 、『東大寺』(古寺巡礼 奈良14)、、1980• 川村知行『東大寺I 古代』(日本の古寺美術6)、、1986• 『週刊朝日百科 日本の国宝52 奈良 東大寺2』、、1998• 、東大寺、朝日新聞社編『東大寺のすべて』(特別展図録)、朝日新聞社刊、2002• 「東大寺の歴史」• 鷲塚泰光「東大寺の美術」• 、編『東大寺大仏天平の至宝』(特別展図録)、読売新聞社刊、2010• 「東大寺大仏と天平彫刻」 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 1952年の映画• - 1952年の映画•

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奈良の大仏が造られたのはいつ? 現在と何が違うの?

奈良 の 大仏

745年 天平17年 、再び大仏つくりが始まりました。 みんなで大仏をつくろうという天皇の呼びかけによって、多くの人が物を寄付したり、土工や大工の仕事を手伝いました。 材木を寄付した人が5万人あまり、材木を切ったり、運んだりした人が166万人あまり、金・銀・銅・鉄などの金属を寄付した人が37万人あまりの金属を貼ったり、運んだりした人が51万人以上という、大勢になりました。 こうして、高さがほぼ15. 7メートル これは当時の長さで、今は約14. 8メートル の金銅の大仏ができました。 今の大仏殿は、1180年の源平合戦を初めとして、何度も火事に焼かれ、つくりなおされたものです。 もとの部分で残っているのは台座だけです。 台座の蓮の葉には毛彫 細い線を彫り込むこと でたくさんの大小のシャカの姿が、彫り込まれています。 大仏殿の前にある八角燈龍も、1200年前のものです。 大仏殿の高さは48メートル、奥行は50メートルで、今のものとその当時のものと、かわりませんが、間口は今の五〇メートルに対し、もとは87メートルありました。 また、大仏の前には、今は残っていませんが、高さ100メートルほどの七重の塔が、東西に2つ並んでそびえていました。 大仏つくりは大工事ですから、すぐに出来上がったわけではありません。 744年 天平16年 に工事をはじめ、745年に奈良の都でやり直し結局、八度鋳なおして6年めに鋳あがりました。 工事の終わり頃になって大仏の体に塗る金が足りなくなり、皆困ってしまいました。 ところが749年2月、陸奥国 宮城県遠田郡 から金が出ました。 天皇をはじめ、みな非常に喜び、年号を天平から天平感宝と改めました。 同じ年の7月、聖武天皇は位を皇太子に譲り、孝謙天皇が位につき年号も天平勝宝と改められました。 その7月に大仏が鋳あがったので、聖武太上天皇は光明皇太后・孝謙天皇とともに大仏を拝みました。 752年 天平勝宝4年 4月9日、大仏開眼会が、盛大に行われました。 これは大仏に眼を入れる、落成式の供養です。 開眼の日は聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめとして、多くの皇族や役人が式に参列し、1万人にものぼる僧が声をそろえてお経をよみました。 大仏殿の中や外には、美しい色とりどりの旗などがかけめぐらされ、いろいろな花が撒き散らされ、においのよい香が、どんどんたかれました。 インドからきた、ボダイセンナという人が筆をとって、大仏の像に眼をいれました。 儀式のあと、日本に古くからある舞やインドシナ・唐 中国 ・高麗 朝鮮 などから伝えられた音楽や踊りの数々が、催されました。 仏教が伝わってから、これほど盛んな儀式は無かったと、朝廷の記録にも記されています。 東の山辺を清み新鋳せる 慮舎那仏に花たてまつる 奈良の都の東の山辺が清い土地だというので、ここに新しく鋳た慮舎那仏に、花をたてまつる。 慮舎那仏は大仏をさす この歌は、六興寺の僧たちが開眼会を祝って朝廷に奉った歌です。 今の奈良の大仏は、高さ約14. 8メートル、顔の長さ約3. 219メートルで、重さ約443トンです。 これとよく比べられる鎌倉の大仏は1252年 建長4年 につくられました。 その高さは約11. 3メートル、顔の長さは約2. 3メートル、重さは約93. 75トンです。 1586年 天正14年 豊臣秀吉が京都に建てた方広寺の木像の大仏は、高さ19メートルあまりで、日本一の高さでしたが、1593年(文禄2年 の地震や、その後の火事で亡くなってしまいました。 外国でも大きな仏像がつくられました。 アフガニスタンのバーミヤーンの大断崖には、4、5世紀頃つくられた石仏立像があり、高さは53メートルもあります。 中国でも、雲岡石窟には17メートルと14メートルの石仏座像があり、敦煌石窟には32メートルという、東大寺の大仏の約2倍もの大仏があり、龍門石窟にも13メートルの石仏があります。 これらの石仏と違って、奈良の大仏は金銅仏としては世界最大級のものです。

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奈良が誇る世界遺産・東大寺。大仏さまに会いに行く、ワンランク上のおすすめコース│観光・旅行ガイド

奈良 の 大仏

日本で一番有名な大仏さまと言えば「東大寺大仏」。 「奈良の大仏さま」の愛称でも親しまれている奈良県奈良市にある世界最大級のブロンズ像です。 今からおよそ1300年も前に造られ、国宝に指定されています。 一体、誰がどのような目的でこのような巨大な大仏を完成させたのでしょうか?今回は、東大寺の大仏さまの謎を一緒に紐解いていきましょう。 東大寺大仏ってなに? 正式名称「毘盧遮那仏」(びるしゃなぶつ) 一般に「奈良の大仏さま」として有名な奈良県奈良市の東大寺大仏殿の本尊。 修学旅行などで訪れた事がある人も多いのでは。 みなさんは、正式名称をご存知ですか? 東大寺の大仏さまは、「毘盧遮那仏」(びるしゃなぶつ)と言います。 毘盧遮那とは、サンスクリット語でヴァイローチャナの音訳で「太陽や光」を意味します。 「毘盧遮那仏」とは、太陽のように身光・知光の大光明で全宇宙を照らす永遠不滅の宇宙真理を意味し表現した仏さま。 仏教の教えそのものを神格化した仏さまなのです。 左手で宇宙の知恵を、右手で慈悲を表しながら、人々が思いやりの心で繋がり、絆を深めることを願っていると言われています。 この毘盧遮那仏は、華厳宗の本尊。 華厳宗は、奈良時代に特に栄えた宗派です。 この世は個別の事象が無限に重なり合ってできており、すべてを自分本位に考えずに自我や偏見を捨てて、物事をありのままに見つめることが必要であるという宇宙的な教えを説いています。 「毘盧遮那仏」は、その中心仏なので、宇宙の絶対的存在と捉えられ、巨大なお姿に造られる傾向があります。 また、毘盧遮那仏は蓮華蔵世界に御鎮座しているとされ、蓮華蔵世界は、巨大な蓮の中に存在する世界とされています。 そのため、仏様も巨大に作られる傾向があるそうです。 盧遮那仏は、1000枚の蓮の台の上に鎮座しており、1000枚の蓮の花弁の1枚1枚すべてに、大釈迦が鎮座していると言われています。 さらにその中にも、小釈迦が鎮座しており、合計で100億もの仏の世界があると云われています。 以上のような途方もない仏の世界の頂点に立つ仏様なので、巨大なお姿で現されるているのですね。 実際の大きさはどのくらい? 東大寺大仏の実際の大きさはどのくらいでしょうか? 東大寺大仏は、何度か焼失しているので建立当初の大きさと現代の大きさは、少し異なります。 現代の東大寺大仏は、以下のような大きさです。 ・高さは、14m98cm ・顔の大きさ(縦) 5m33cm ・顔の大きさ(横幅)3m20cm ・目の長さ 1m2cm ・鼻の幅 98cm ・耳の長さ 2m54cm ・口の長さ 1m33cm ・足の大きさ 3m74cm ・手のひらの長さ 1m48cm ・中指の長さ 1m8cm ・重さ 約250トン となっています。 簡単に想像することができない大きさです。 しかし、私たちが、東大寺大仏の大きさを直に触れることができる場所があります。 それは、東大寺大仏殿の北東の柱にある「穴くぐり」と言われている穴。 この柱の穴は、東大寺大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われています。 とても人気で、常に列が出来ていますが、東大寺に訪れる機会がある方は、ぜひ一度くぐってみて下さい。 著者も何度か体験したことがありますが、かなり狭く感じました。 しかし、成人男子である主人(少し細め)でもくぐれましたので、ぜひチャレンジしてみて下さいね。 もし、挟まってしまった場合は、大声で助けを呼ぶと、東大寺の僧侶の方が助けて下さるそうですよ。 東大寺大仏が造られた背景とは? 東大寺大仏を造らせたのは、誰? この巨大な東大寺大仏ですが、誰が発案したのでしょうか? これは、歴史の教科書にも出てくるのでご存知の方も多いはず。 東大寺大仏は、「第45代聖武天皇」(しょうむてんのう)が発願されました。 聖武天皇は、文武天皇の第一皇子として生まれました。 しかし、文武天皇が病弱であったため、7歳で父と死別してしまいます。 母である藤原宮子(藤原不比等の娘)は、聖武天皇を生んですぐに精神を病んでしまい聖武天皇が37歳になるまで、一度も対面が果たせませんでした。 (聖武天皇が37歳の時に、ある僧侶の祈祷で正気に戻ります。 )37歳になるまで聖武天皇は、外戚である藤原一族(生母の父、藤原不比等の妻である橘三千代が乳母だったと言われています。 )により養育されてました。 父と母の愛を知らずに成長すことになり、少し可哀想な生い立ちですよね。 そして、この聖武天皇はスムーズに天皇に即位できませんでした。 父である文武天皇が亡くなったのは7歳の時、幼子がすぐに即位はできず、父である文武天皇の母、つまり聖武天皇の祖母である元明天皇(天智天皇の娘)が中継ぎの天皇として即位。 聖武天皇は、皇太子となりますが、病弱であったことと、外戚である藤原氏が権力を握る恐れがあったため、皇族側から反対もあり即位はしばらく先延ばしにされていきました。 文武天皇の姉で、聖武天皇の叔母にあたる元正天皇がまたも「中継ぎの中継ぎ」として即位することになります。 そして、やっと聖武天皇が24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することとなります。 その後も、藤原一族の娘である藤原安宿媛を皇后に迎え、藤原一族が中心となり政治を行なうようになっていきます。 父に似て病弱で、政治は藤原一族が支配していたため、聖武天皇は、深く仏教に帰依し、巨大な東大寺大仏を造営することとなるのです。 東大寺大仏をつくった目的は? では、聖武天皇はなぜ東大寺大仏を造営したのでしょうか? それには、聖武天皇が仏教を頼りたくなった背景にあります。 先に述べたように聖武天皇は、生まれつき病弱で、父とも早くに死別し、実の母とも37歳になるまで一度も会うことが出来ませんでした。 また、妻である藤原安宿媛(後の光明皇后)との間に生まれた皇太子・基皇子は生後1年もしないうちに亡くなってしまいます。 聖武天皇の私生活は、孤独との戦いでした。 そして、政変争いにも巻き込まれていきます。 当時は、藤原不比等を中心とする藤原一族と、長屋王を中心とする皇族とで政権争いがありました。 聖武天皇の私生活を利用して様々な目論見があったのです。 藤原不比等の息子たちである藤原四子(房前・武知麻呂・麻呂・宇合)が、皇太子・基皇子が亡くなったのは、時の権力者であり皇族の代表格であった長屋王(ながやおう)が呪詛したのだと主張。 そして、現代の私たちの感覚では考えられませんが、呪詛は重大な罪に問われることになり、長屋王は、自害に追い込まれてしまいます。 これが「長屋王の変」と言われる事件です。 藤原家は、この皇太子の死を対抗勢力の失脚に利用したことになります。 しかし、因果応報というべきが、藤原四子は当時大流行していた「天然痘」により4人が相次いで亡くなります。 これは長屋王の祟りではないかと当時の人々は恐れました。 聖武天皇も次は自分かもしれないと恐れたかもしれませんね。 また、当時の民衆は、天候不順による飢饉(食糧不足)や地震災害そして、天然痘などが大流行しており、とても生活は苦しいものでした。 そして、そうした民衆の不満は、聖武天皇への不満に繋がり「藤原広嗣の乱」が起こります。 聖武天皇は、皇太子が亡くなり、天然痘で藤原四子が亡くなり、国は飢饉にみまわれ、そして藤原広嗣が反乱を起こすという不幸が続いてしまったのです。 聖武天皇は、心機一転、このような災いから逃れるように都を変えることを決断。 山背国恭仁京・摂津国難波宮・近江国紫香楽宮と遷都を繰り返していきます。 しかし、この度重なる遷都は、逆に民衆に負担を与えることになり、不満はますます聞こえてきます。 そこで、今度は、「国分寺建立の詔」を発令します。 国ごとに国分寺・国分尼寺の建立をすすめ、仏の加護により国家鎮護を目指していくのです。 しかし、当然ですが、各地に国分寺を造ったり、遷都を行っているだけで、具体的な政治改革は行なっていないので、社会の状況が改善されることはありませんでした。 そこで、思い詰めた聖武天皇は、743年に「大仏造立の詔」を発令し、東大寺に大仏を建立することに決めるのです。 民衆のすべてが、仏に見守られるように、そして、民衆がその仏の加護を実感できたら、社会は平和になるであろう。 との考えから、多くの人々が拝めるように巨大な大仏を造ったと言われています。 仏教によってあらゆる災いから逃れようとしたのでしょう。 当時は地震や天災・流行病は、科学的なことが解明されていませんでした。 災いから「祈り」で逃れようと聖武天皇は考えたのでしょうね。 東大寺大仏の歴史 建立から2度の開眼供養まで 東大寺大仏さまは、743年に聖武天皇によって発願されました。 その当時、都は「紫香楽宮」(現在の滋賀県)にあり、東大寺大仏は、当初紫香楽宮で造られ始めましたが、遷都が民衆から反対され平城京に都が戻ったことで、現在の東大寺が造営され本尊とされるようになりました。 752年に開眼供養(仏像が出来たときにその仏の目を描き、仏の力を迎える儀式)が盛大に行なわれました。 しかし、開眼供養の時点で、大仏殿は完成していたようですが、東大寺大仏はまだ出来上がっていなかったと言われています。 東大寺大仏の金メッキ加工が完了するのは、その5年後。 東大寺大仏の全体が完了するのが、開眼供養から20年近く経ってからだったそうです。 この儀式は、聖武太上天皇(すでに譲位していました。 )、光明皇太后、孝謙天皇(庶務天皇の娘)を始め、要人や僧侶が約1万1千人参列しました。 当時の日本の人口が数百万人と考えられているので、この儀式がいかに重要で盛大であったかが窺い知れます。 眼を書き入れたのは、インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)という僧侶でした。 筆には長い紐が付けられており、参列者たちは、その紐を握ることにより仏と縁を結ぶことができたそうです。 この時使用された筆や紐は、現代の東大寺の宝物が眠る「正倉院」(しょうそういん)に残されています。 その後、急ピッチで造られた東大寺大仏は、ひび割れや痛みなどが生じ、地震で頭部が転がり落ちてしまい、861年に修理され、2度目の開眼供養が行われたと伝えられています。 2度の焼失と現代に至るまで 東大寺大仏は、2回焼失しています。 一度目は、1180年の源平合戦。 平重衡(たいらのしげひら)が放った火が、大仏殿にも燃え移り焼け落ちてしまいました。 この時は、「俊乗坊・重源」(しゅんじょうぼう・ちょうげん)と言う僧侶が寄付を集め、5年後に東大寺大仏・大仏殿は立て直されました。 2度目は、1567年の戦国時代。 松平久秀の兵火により大仏殿と大仏さまが焼失してしまいます。 その後、大仏さまは首がない状態のままで10年以上、雨ざらしで放置されていたと伝えられています。 そして、1691年に公慶上人によって大仏さまは修復されました。 このように東大寺大仏さまは、長い年月の間に幾度となく、焼失や補修をされています。 頭部は江戸時代。 体部の大半は、鎌倉時代の補修ですが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などは、建立当時である天平時代ままの部分も残っています。 台座の蓮の花弁に線刻されている華厳経の世界観を表す画像も、天平時代のもので大変貴重です。 東大寺大仏は1958年2月に「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定されました。 東大寺大仏 どうやって造られたの? 現代の費用で約4657億円! この巨大な東大寺大仏は、どのように造られたのでしょうか? 東大寺大仏に使った材料は、 銅:499トン (4トントラッ約125台分) すず:8. 5トン (4トントラック 約4台分) 水銀:2. 5トン 4トントラック 約0. 5台分) 金 :440kg 炭 :1194㎥ と莫大な量でした。 これらの材料が日本の各産地から算出できたことにも驚きですね。 そして、作業には260万人が関わったと記録に残っています。 現代の私たちには、想像もつかない大規模な国家的政策だったことが理解できますね。 そして、これだけの大規模事業ですので費用も桁違いです。 最近の試算では約4657億円の費用が掛かったと言われています。 原材料費、人件費、労働者の住居費の合計費用。 原材料費は、大仏に使った銅約499トンなど合計で約3363億5000万円、人件費は260万人分で約1292億円、その住居費は約1億7000万円とされています。 スカイツリーが総事業費が650億円、東京ディズニーシーが3380億円と言われているので、東大寺大仏は、莫大な費用だったことがわかりますね。 東大寺大仏はこのように造られた! 実際に東大寺大仏は、以下のような工程で造られました。 木を形通りに切り出し、1つずつ部品に加工。 その木を用いて、大仏の形をある程度骨組みで組み立てる。 組み立てた骨組みに粘土で大まかに大仏の型を形成する。 乾かした後、1度目の粘土との間に隙間をつくりながら、さらに粘土を塗り重ねきちんとした大仏の形を造りあげる。 乾かした後、1度目と2度目の粘土の隙間を削って広げる。 この隙間に熱して溶かした銅を流し込む。 全体に銅が流し込めたら、冷めて固まるのを待つ。 完全に固まったら、粘土を取り除く。 固まった銅だけが残り、大仏の元が出来上がる。 銅でできた大仏に 50tの水銀と金を混ぜて金メッキ加工を施す。 完成! 一見、簡単そうに見えますが、形作りだけで1年半。 銅を流し込む作業に3年。 仕上げの工程で5年。 金メッキ加工に5年。 これだけで、14年もの歳月が費やされています。 そして、東大寺大仏には、大きな「光背」と呼ばれる大仏が自ら出す光の輪を表すものが、背に付けられています。 この光背を造るだけでも、8年半かかっていると記録されていますので、合計で28年以上の長い年月がかかっています。 この長い年月をかけて造られた東大寺大仏は、再建された現代においても、世界最大のブロンズ像と云われています。 東大寺大仏の特徴 其の1 東大寺大仏 手の形 大仏には、様々な手のかたちがあります。 「手印」と呼ばれるものです。 東大寺大仏は、2つの手印が組み合わされています。 東大寺大仏の右手は、「施無畏」(せむい)と呼ばれる形。 施無畏(せむい)とは、手を上げて手の平を前に向けている印相です。 東大寺大仏は、中指が他の指より少し前に突き出て、柔らかい動きを表しています。 この突き出した中指の長さだけでも、108cmもあります。 著者の5歳の娘の身長より高いので驚きです。 そして、この手印のは、「なにも恐れなくてよい」と相手を励ます意味があるとされています。 左手は、与願印(よがんいん)と呼ばれる形。 ひざの近くで手のひらを上に向け、指先側を傾けて手のひらが見えるようにする手印。 東大寺大仏は、左手の中指が他の指より少し曲がっており、躍動感を出しています。 この手印は、「あなたの願いを叶えてあげます。 」という意味があります。 以上の2つの組み合わせを「施無畏与願印」(せむいよがんいん)と言い、「おそれなくて良い。 すべての願いを叶えよう。 」と東大寺大仏は、私たちに語りかけているのです。 東大寺大仏 手に水かきがある? 東大寺大仏の手に水かきがあるのに、気付いた方はいるでしょうか? 水かきがあるのは、諸説あります。 1つは、「苦行のあらわれ」とされています。 悟りを得るために厳しい修行を行い、荒れた道を突き進み、大きな海原を泳ぎきる力が必要とされました。 大仏である如来は、この苦行を乗り越え、大きな海原も泳ぎきり、厳しい修行に耐え抜いた者として、指の間に水かきがついていると言われてます。 もう1つの説は、「慈悲の心のあらわれ」と言われ、水1滴も漏らさないように、全ての人々を救い上げるという意味を持つと言われています。 これは、釈迦が菩提樹の下で悟りをひらいた際に、今までと異なる32の特徴が現れたといわれる「32相」のうちの1つ「手足指縵網相」(しゅそくしまんもうそう)。 東大寺大仏をこれから訪れる方は、手にぜひ注目してみて下さいね。 東大寺大仏 特徴其の2 東大寺大仏 頭 東大寺大仏の頭は、ブツブツと丸いものが沢山付いています。 これは、大仏全般の特徴的な髪型で、「螺髪」(らはつ)と呼ばれているものです。 これも、上記に述べた三十二相八十種好の一つに挙げられます。 智恵と徳の高さを表現しており、悟りを開いた位の高い仏に出てくる特徴の一つ。 この髪型は、菩薩などには存在せず、如来のみの髪型です。 螺髪の「螺」は巻貝を意味しています。 螺髪は、巻貝のように髪の毛一本一本がカールして丸まっている様を表しています。 この髪形は、古代インドの階級の高い人の髪型を由来としています。 東大寺大仏の「螺」1個の大きさは、 ・直系:約22cm ・高さ:約21cm ・重さ:1200g(1. 2キロ) です。 近年まで東大寺大仏の頭に付いている螺髪の数は、「996個」が定説でしたが、レーザー分析をした結果、実際は螺髪が483個、螺髪の後が9個と確定。 最新の技術は素晴らしいですね。 東大寺大仏 おでこ 東大寺大仏のおでこにホクロのようなものが付いています。 これは、ホクロに見えますがホクロではなく、「白毫」(びゃくごう)と言われるものです。 白毫も三十二相八十種好の一つ。 これは、全世界のすべての人々に慈悲の光が届き渡り、悩む人、悲しむ人、苦しむ人をすべて見落とすことなく、救済するためのものであると言われています。 白毫は、眉と眉との間に、右まわりに生えている産毛で、その産毛が丸まって巻き付いているとされています。 この白毫は伸ばすと4. 5mもあるそうです。 長過ぎますよね。 そして、東大寺大仏のおでこの上にある髪の毛の生え際にも、ひときわ大きい丸いブツブツが1つあります。 これは、「肉髻珠」(にっけいじゅ)と呼ばれており、これも三十二相八十種好の一つ。 これは、髪の毛ではなく頭がこぶのように盛り上がった状態なのです。 これは悟りに達した者だけの特徴で、如来のみ有するものと言われています。 仏の智恵を象徴するものです。 悟りの境地に達すると頭が盛り上がってくるのは、想像すると少し怖いですね。 仏の特徴 三十二相八十種好とは あなたはいくつ見付けられる?三十二相 仏の特徴である三十二相八十種好ですが、知っておくと寺院で仏像を拝む時に、より仏像を理解できると思います。 細かい特徴である八十種は、見ることが難しいと思いますので、三十二相をご紹介します。 足下安平立相(そっかあんぺいりつそう) 足の裏が真っ平らで安定しています。 慈悲の平等を表しているとされています。 足下二輪相 そっかにりんそう 手と足の裏に法輪の模様がります。 人々の迷いを静めるとされています。 長指相 ちょうしそう 指が繊細でとても長い。 寿命の長さと敬愛を表しているとされています。 足跟広平相 そくこんこうへいそう かかとがとても広い。 未来の人々を救うとされています。 手足指縵網相 しゅそくしまんもうそう 手足の指の間に水かきがあります。 もれなくすべて人々を救う意味があるいわれています。 手足柔軟相 しゅそくにゅうなんそう 手足が柔らかく血色が良い。 誰にでも等しく接することができるとされています。 足趺高満相 そくふこうまんそう 足の甲が亀のような形で縁起が良い。 人々に幸福をもたらすとされています。 伊泥延膊相 いでいえんしつそう 足のすねが鹿のように繊細で細い。 喜びを与え学ぶことが早いとされています。 正立手摩膝相 しょうりつしゅましつそう 手がとても長い。 哀愍摩頂する徳を意味します。 陰蔵相 おんぞうそう 男根が体内にあります。 自分の子を持つことがないかわりに、多くの弟子をもつとされています。 身広長等相 しんこうちょうとうそう 身体の均整が長く整っています。 無上の法王を意味すると言われています。 毛上向相 もうじょうこうそう 身体の毛がすべて上向きに生え右巻きです。 喜びの心を起こさせるとされています。 一一孔一毛生相 いちいちくいちもうそう 身体の毛穴にすべて一毛を生じ、その毛孔から良い香りを出し、毛の色は青瑠璃色。 罪障を消滅させると言われています。 金色相 こんじきそう 身体すべてが金色をしています。 人々を喜ばせた結果を意味します。 丈光相 じょうこうそう 身体すべてが光輝いている。 迷いを除き願いを叶えるとされています。 細薄皮相 さいはくひそう 皮膚が滑らかでそして柔らかい。 慈悲をもってご利益を与えるとされています。 七処降満相 しちしょりゅうまんそう 両手足肩・頭の肉付きバランスがすべて良い。 随眠を断ち七聖戒を満たすとされています。 両腋下降満相 りょうえきかりゅうまんそう 脇わきが引き締まっています。 人々を看病して得た相を意味します。 上身如師子相 じょうしんにょししそう 獅子のように威風堂々とした姿をしています。 高い徳を表しているとされています。 大直身相 だいちょくしんそう 身体全体が広く端正です。 安心感を与えるとされています。 肩円好相 けんえんごうそう 肩に丸みをもっています。 柔軟の徳を意味します。 四十歯相 しじゅうしそう 40本の歯をあり、それらは雪のように白く清潔。 悪口をいわないとされています。 歯斉相 しせいそう 歯は大きさが等しく、硬く密に生えており一本のように並びが美しい。 清浄さを表すとされています。 牙白相 げはくそう 白く鋭利な歯をしています。 三毒を制するとされています。 師子頬相 ししきょうそう ほほの肉が豊かであり、獅子のようです。 豊かであることを意味しています。 味中得上味相 みちゅうとくじょうみそう なんでも最上の味を味わえる舌を持つ。 人々の願いをすべて満足させると言われています。 大舌相 だいぜつそう 舌が大きく柔軟。 嘘をいわないことを表すとされています。 梵声相 ぼんじょうそう 声が清浄で、美しくしかも遠くまで聞える。 話を聞くものに喜びを与えると言われています。 真青眼相 しんせいがんそう 瞳が青く蓮華のような色。 全ての事柄を良く見通すことができと言われています。 牛眼睫相 ぎゅうがんしょうそう まつげがあたかも牛の眼のように揃っています。 眼が清らかであるとされています。 頂髻相 ちょうけいそう 頭の上が盛り上がっています。 頭脳明晰さを表すとされています。 白毛相 びゃくもうそう 眉の間に白毫が生えています。 生死の災いを消すとされています。 以上です。 寺院の仏像にこの特徴をいくつ見付けることができるでしょうか?ぜひ、試してみて下さいね。 ぜひご自身の目でご覧になって下さい いかがでしたでしょうか?日本で一番有名な大仏である東大寺大仏の正式名称から、造られた歴史的背景・造り方・特徴などを詳しくご紹介致しました。 しかし、言葉では言い表すことができない、この壮大なスケールの国宝の大仏を、ぜひ一度ご自身の目でご覧になって、その圧倒的なお姿を目に焼き付けて見て下さいね。

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