松永 久秀。 戦国三大梟雄は斎藤道三と松永久秀!あと一人はだれなの?|気になる話題アラカルト

茶器割って大爆死!強烈すぎる最後を遂げた松永久秀をゆるりと解説!

松永 久秀

天我独尊 松永久秀 【圧参】 声:藤原啓治 武器:宝刀・火薬 属性:炎 タイプ:バランス 移動速度:普通 自らが欲するものを得るためには手段を選ばず、他者を踏みにじる事すら何とも思わない人物。 初期パラメーター 体力:3200 攻撃力:380 防御力:250 バサラゲージ:20000 ガマン値:100 ガード耐久値:250 失神耐久値:200• 特徴 やや癖のある遠隔攻撃が得意で、広範囲の敵の群れを焦土に変えることも可能。 火薬を敵に付着させ、各種火炎系攻撃にガードクラッシュの連爆を付加できる。 バランスタイプでありながらパワータイプに近しいパラメータを持つ。 ボタンを長押しすると、その時間に応じて火薬の散布範囲を広げられる。 虚空 『こくう』 初期習得 火薬を撒きながら通常攻撃を繋ぐことができる。 1段ごとに火薬撒きのモーションは全て異なる。 通常攻撃7段目で火薬を撒いた時と撒かなかった時で8段目の攻撃が変わる。 火薬を撒いた直後に他の固有技を使用すると、その技の火薬を撒くモーションをキャンセルできる。 通常攻撃以外から繋げて出す時は火薬を撒かずに着火斬りを行う。 劫火 『ごうか』 初期習得、Lv15 刀で地面を擦る段階まで固有技ボタンを押し続けていると他の行動ができなくなり、炎の道の調整をする状態になる。 炎の道はスティックである程度操作でき、固有技ボタンを放すと道の先が爆発する。 火薬まみれの敵は道に触れただけで爆発するが、そうじゃないどちらの状態でも道の先までしっかり押し込んで締めの爆発を当てられる。 ダウンしている敵を起こすことができる。 空中特殊でもできるので場に応じて。 進行不能な物に当たるとそれに沿うが、角に3つ集めても1つしか当たらない。 長押ししなければ刀を擦った瞬間から回避・ダッシュ・ジャンプで動作を省略可能になり、炎の道は最大距離まで伸びるので遠距離攻撃として、雑魚殲滅として有用。 指を鳴らして爆破した後の隙も回避・ダッシュ・ジャンプで省略できる。 入力しっ放しにしてれば最速のタイミングでやってくれる。 無響、葬炉の爆破も同様である。 これも他の固有技に繋ぐことでその固有技の火薬を撒くモーションをキャンセルできるが、タイミングが固有技によって異なる。 虚空なら火薬を撒き終えて刀を動かしてから地面を擦るまで。 と、長押しして爆破した後。 昇華は火薬を撒いた瞬間から。 出が早いので相性が良いが撒いた火薬は消えてしまう。 無響 『むひびき』 初期習得 前進部分にダメージはあまりないが触れた敵はよろけ、盾や葛籠を破壊する。 これも他の固有技に繋ぐことでその固有技の火薬を撒くモーションをキャンセルできるが、タイミングは斬撃の後。 突進中ではできない。 少なからず前進するので、至近距離でのキャンセルは回避で一旦下がるか空中特殊を使おう。 空中特殊の斬撃も火薬を付着させ、斬撃の後に固有技へ繋ぐことでその固有技の火薬を撒くモーションをキャンセルできる。 突進中は回避、ダッシュでキャンセルすると走るより素早く移動できる。 最悪追加入力しなければキャンセルなしで連発するだけでも走るより速い。 昇華 『しょうか』 Lv5、Lv25、Lv40 火薬を撒くモーションは全方位だが射程が短く結構無防備なので、他の固有技から繋いで省略することを推奨する。 最大レベルになると火柱の持続時間が驚異的。 ガードされてもそこに火薬を撒けば連爆で崩せる。 火柱は固有奥義やバサラ技を使用すると消えるので注意。 (「塵晦」は掴むと消える) 葬炉 『そうろ』 Lv10 短押しで遠距離、長押しで近距離を爆破するという、有り触れた操作と逆なので慣れがいる。 遠距離で爆破すると手前に吹き飛ばし、近距離で爆破すると奥に吹き飛ばす。 その距離が丁度互いの発生位置なので交互に出せばお手玉ができる。 固有技・改 景品交換(天貨メダル800枚) 前方の敵に向けて火薬を散布した後、その相手に導火線を巻き付けて時間差で爆破する。 ボタンを長押しすると、その時間に応じて火薬の散布範囲を広げられる。 火薬撒き動作の直後にキャンセルポイントがあり、各種固有技(同技含む)や回避・ジャンプでキャンセルができる。 また、点火をキャンセルして劫火に繋ぐと発生する炎の道が5本に増える。 特殊仕様としてこの技で火薬を撒いた場合に限り、 距離に関わらず連爆が発生する。 昇華の火柱がヒットしている敵にはこの技で火薬を撒く度に連爆が起きる。 火柱ヒット中にこの技を連発すればダメージを大きく稼げる。 焔界葬炉の場合は発動させた直後にこの技で火薬を撒き、着火を回避等でキャンセルすれば連爆の後乗せが可能。 焔界状態でも直で火薬を撒けるようになることから、火薬撒きから各種固有技キャンセル発動で武将のガードも割りやすい。 この技による点火は距離を問わないため、火薬撒きを連発した後に離れた位置から火薬状態の敵を一斉に起爆するといった使い方もできる。 焔界中にこの技の最大溜めを発動すると、 効果時間を1回につき約12秒間延長できる。 使い方次第では専用銘無しでも常時焔界状態にし続けることも。 固有奥義 奥義名 習得Lv 説明 ちりつごもり 塵晦 20 敵の首元をつかんで爆破し、強烈なダメージを与える 周囲の敵にもダメージ くろまがつ 黒禍 30 ばら撒いた火薬を一箇所に集め、 凄まじい大爆発を引き起こす ほむらい 焔界 35 大量の火薬を撒き散らして着火、あたりを火の海と化す 一定時間各種攻撃が強化される 塵晦 『ちりつごもり』 Lv20 掴み技のため有効射程が短く、掴み技だが防御されるし崩し効果もない。 さらに掴んでいる間は無敵ではないし、秒換算の威力なら簡単な立ち回りで確実に命中させられる黒禍の方が高い。 連爆で宙を舞う敵を高さによっては掴めるが、届かないなら空中攻撃で叩き落として連爆が続く内に掴みたい。 待っていても一応ゆっくり降りてくる。 掴んでる間、防御力次第ではあるが雑魚程度の攻撃なら耐える。 しかし、武将相手だと厳しいので戦友指令で黙らせておきたい。 爆破した敵は崩れ落ちるが、ここで再び掴むことができガードされるまで大体3度ほど連続で掴める。 連爆で浮かない高重量の武将には、ガード不能の安定したダメージを出せるが掴めない武将は掴めない。 掴みの成否に関わらず、動作後に虚空へ繋ぐことで火薬撒きを省略して着火斬りが可能。 ちなみに挑発も虚空にしか繋げられない。 黒禍 『くろまがつ』 Lv30 発生まで時間がかかるが連爆で宙を舞わせてれば十分間に合う。 最悪昇華の火柱が防御されてる状態で使っても、爆破がしっかり崩して吹き飛ばす。 発動時火柱は消えてしまうが、撒いた火薬が足止めになる。 範囲は広い方だが背後までは届かない。 目には見えないが、爆破前に劫火の火の道同様に壁に沿って移動していて、壁に向かって使うと自分中心の爆発になる。 『宴』では技を入力した瞬間に技の発生保証が出るが(解放でキャンセルしても爆発が起きる)、今作での発生保証は松永が拳を握りしめてからになった。 焔界 『ほむらい』 Lv35、Lv45、Lv50 一定時間 約25秒間 各技の性能などを変化させる。 虚空と固有奥義以外で火薬を付着させられなくなる点に注意。 通常攻撃• 全てが着火斬りになり、攻撃力が上昇し、3段目から敵を浮かせる。 馬上攻撃も見た目着火斬りになるが着火効果は無い。 火薬を撒くモーションが自動的に省略される。 炎の道が5本に増加する。 斬撃が火薬付着ではなく着火になり、攻撃力が上昇する。 火薬を撒くモーションが自動的に省略される。 目の前で渦のように回り中心で爆発する。 キャンセルポイントが短縮される。 短押しで奥から手前に向かって、長押しで手前から奥に向かって爆発が二つ追加される。 この技を使うと「昇華」は消えるが「黒禍」は消えないので事前に使用しておくのを勧める。 ・・・のだが最速で使用しても「この世は死海だ・・・」あたりで「黒禍」が爆発してしまい、その後解除されてしまうことがしばしば。 戦友にフォローしてもらおう。 また焔界が発生するタイミングも火薬に着火してから。 火薬がまかれている瞬間ではないので注意。 火薬撒きから他の固有技に連携できるが大きな意味は無い。 連爆を後乗せすることで火力と殲滅力を底上げするのが強力。 4では後乗せしにくくなっていたが、固有技・改によって後乗せが再び可能になった。 劫火の後に固有技・改で連爆を後乗せすることで、前方広範囲の雑魚を一気に殲滅することができるようになった。 「昇華」で拘束した武将 特に重量級 に連爆を後乗せし封殺出来る強さも健在である。 銘は六道極を優先して付けよう。 敵別対処法• 焔界状態なら空中葬炉連発も優秀。 群がっているなら対雑魚同様固有技・改キャンセル劫火や焔界状態で空中葬炉。 劫火はボタンを連打してると無響の斬りが発生する前にキャンセルしてしまい、遅いと火薬撒きが発生してしまう。 永久ループ。 バサラ技で回避されない。 壁に達すれば継続が難しくなる。 焔界時限定永久ループ。 バサラ技で回避されない。 火柱ヒット中に後ろ向きで劫火、虚空で同技補正を切ってから再び塵晦で掴む。 連爆を乗せると火柱から押し出されるので注意。 焔界時限定永久ループ。 バサラ技で回避されない。 忠勝には不可。 バサラ技 通常「不(な)くし足る美の生(しょう)じや湧出(ようで)! 梟の身を震わせよ…」 粋 「焔(ほむ)り篝(かが)れよ誕生火…! 朗々(ろうろう)たるや、弾正歌(だんじょうか)…!」 戯画「梟雄二羽(きょうゆうにわ)を嗜(たしな)みたまえ…! 」 射程が通常攻撃と同等で移動距離も少なく、戦友指令はご法度。 壁際や陣大将相手には最後に高速移動しながら斬る攻撃が操作不能で思いきり外しやすい。 爆破は多分当たると思うがとにかく扱いが難しい。 爆破は背後に発生し自分より前にいる敵には一切当たらない。 敵が真横にいれば〆の爆発は当たる。 また、〆の爆発では火薬付着の有無に関係なく連爆が発生する。 前方に敵がいた場合終了後の硬直が長いこともあり乱戦ではエア袋叩きから本番入りすることも珍しくない。 使用後「焔界」状態になる。 「焔界」がかなり潰されやすい技なのでモード移行する際は代わりにこちらを使用するのもアリ。 ただしこちらでモード移行した際は「焔界」よりも持続時間が短いので注意。 威力自体はかなり高く 特に〆の爆発 、付けている銘によっては武将が一発で沈む。 小ネタ• ちなみにこれは『英雄外伝』の時に固有技「劫火」で使用していた着火モーション。 固有奥義「塵晦」を使用した時、「卿から生じるものは…」に続く爆破後のセリフが掴んだ対象に応じて4種類に変化する。 「眩き一筋の光だ」 、、、、、、、上級武士(太刀・豪槍どちらでも)• 「闇か。 まぁ、無いよりはいい」 、、、、、、、、• 「ひどくありふれているな」 、、、、、、、、、、• 「何も無いのか。 先に言いたまえ」 、、、、、、、、、、、、宮本武蔵、忍兵• 上4つの内からランダム。 掴む度にセリフが変わる。 雑兵、モブ武将(但し上記の上級武士は例外)• 彼の所持する武器の名は日本神話などに登場する宝剣と同じだが、彼がそれらを一体どこから、そして誰から奪ったのかは判明していない。 第1武器の「十束剣」は日本神話で長剣を示す際に使われた一般名詞であり、後述する「布都御魂」と「蛇之麁正」も十束剣に含まれる。 第2武器の「波加勢流多知」は古事記の一節に登場する単語で、この一節は奈良県の石上神宮に「六叉の鉾」として伝えられた「七支刀(ななつさやのたち・しちしとう)」について記したものとされる (ゲーム中のグラフィックも、刀身から枝分かれするように六つの枝刃が伸びた七支刀の特徴を再現している)。 「布都御魂」及び「蛇之麁正(別名:天羽々斬。 ヤマタノオロチを退治した剣)」は神器・草薙の剣と並んで「神代三剣」と呼ばれる神話上の剣である。 コメント Name:• ドラマルートのラストは、画面の前のプレイヤーよりも久秀の方が内心ハラハラしてると思う。 -- 2019-09-25 水 10:44:03• 「不足の美」とか茶会とか本当のオトナの贅沢を知っている豪の者と言った所か。 偉そうな長文コメでスマソ -- L 2017-11-03 金 08:39:18• ただし成金趣味でもなく、考えなしに贅沢を尽くすのは先生ならきっと「平凡で底の浅い欲望」とバッサリ切り捨てるのが想像できる。 -- L 2017-11-03 金 08:38:08• 凡庸なモノ、ありきたりな価値観が嫌いで、聖邪貴賤賢愚強弱大小を問わず貴重なモノ、珍しくて秀逸なモノが大好きなおじさま。 要は根っからのブルジョワ気質。 -- L 2017-11-03 金 08:37:43• そう言えば今回、三好三人集が居ないですね。 個人的には松永よりも死神殿が好きなので、残念です。 -- 2017-04-06 木 20:35:30• 通常攻撃の速さと範囲広がらないかな? 希望 -- 2016-12-11 日 11:07:55• 銘の組み合わせ教えてください。 専用は必要? -- 2016-11-22 火 21:31:46• 信長との絡みがないのが残念だ・・・ -- 2015-09-07 月 08:21:18• DLCコスが凄く似合う。 黒のロングコートにサングラスで黒幕感に溢れている貫禄というか。 -- 2015-09-06 日 08:31:54• オズウェル・E・スペンサーの衣装着た南部晴政とのやり取りが見たかった。 -- 2015-09-10 木 14:14:50• ステップ遅くなったなぁ。 と思ってたら敵の松永さんのステップ速すぎてファ!?となった。 遅く感じるのはプレイヤー視点から見てるからかな? -- 2015-09-01 火 18:30:26• この人の魅力は何があっても悪を貫いてる事だな。 毛利や明智のように誰かと出会う事によってキャラ崩壊したり穏やかになったりしない。 これからもずっと根っからの悪であり続けてほしい。 -- 2015-08-28 金 11:35:44• 信長も終始悪やで。 そういやBASARAでは信長との絡みが殆ど無いのは残念だな。 (史実と同じく元々は織田軍に居たみたいだけど) -- 2015-09-02 水 04:07:17• いや、信長には濃姫と蘭丸が…… -- 2015-09-02 水 20:42:04• 信長様魔王モードだけど、宴だったら松永ストーリーでこれでもかというほど絡んでたよね。 あと信長様は終始悪ではない気がする。 宴天海ストーリーは光秀の最大の理解者であったり、2蘭丸ストーリーは人間味溢れたおじ様って印象だった。 濃姫様や4でもそうだけど家康への固有台詞とかも良かったよね -- 2015-09-03 木 06:22:23• 宴でそんなに信長と絡みあったっけ?ストーリーラス面が本能寺だったのは覚えてるけど。 キャラによって接し方は変わるけどポジションとしては終始悪で間違いないと思う。 -- 2015-09-04 金 05:13:43• 焔界の効果時間は約20秒だが、固有技改の使用で延長が可能。 延長時間はタメの段階と出し切りか途中キャンセルかで変化。 タメなし:出し切り 約4秒、途中キャンセル 約2秒。 タメ1:出し切り 約5秒、途中キャンセル 約2秒。 最大タメ:出し切り 約16秒、途中キャンセル 約12秒。 -- 2015-08-22 土 20:51:59• 罰天が宮本武藏の時の塵晦どの台詞を言うの? -- 2015-08-20 四 23:49:46• 「「何もないのか、先に言いたまえ」でした -- 2015-08-27 木 22:54:23• 焔界でもないのに五列劫火が出せてしかも連爆後のせ可能って・・・固有技改のおかげで宴よりも爽快感あるわ -- 2015-08-18 火 02:39:30• 千利休の時の塵晦どの台詞を言うの? -- 2015-08-15 土 11:33:26• 確か眩き一筋の光だったはず -- 2015-08-15 土 22:40:26• 上の解説では六道極を優先と書いてあったけど打札とどっちが良いんだろう?単純に火力を求めるなら打札の方が良い気がするんだけど。 -- 2015-08-12 水 04:25:17• 打札付ければそれなりに強さを感じれますかね? -- 2015-08-10 月 15:15:19• 黒禍の中に入って固有技改最大タメするとなんか気持ちよくなる -- 2015-08-08 土 11:14:56• ところで昇華って空中発動出来るようになった意味あるの?葬炉と違って発動内容違うから使い道がよくわからん -- 2015-08-07 金 20:31:24• 戦友交代した時の焔界状態の見た目がカッコイイ 個人的に画面メラメラよりこっちの方が良い -- 2015-08-07 金 17:42:06 Show recent 20 comments. Link: 164d 165d 209d 263d 289d 291d 293d 340d 340d 340d 340d 340d 344d 346d 429d 429d 444d 579d 788d 882d 889d 937d 940d 942d 951d 1009d 1055d 1060d 1137d 1201d 1201d 1201d 1204d 1204d 1204d 1204d 1204d 1443d 1543d 1545d 1575d 1618d 1645d 1679d 1687d 1702d 1707d 1722d 1769d.

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松永久秀(松永弾正)の死因がヤバイ!?平蜘蛛茶釜爆死の戦国武将

松永 久秀

「松永久秀」(まつなが・ひさひで、0頃~7)とは、の武将、大名である。 概要 通称は弾正(弾正忠、弾正少弼の官位から)。 その出自はに包まれているが、の臣として頭を現す。 長慶が若年の頃から右筆(側近)として仕えており、やがて一の進退を任され中でも随一の勢となる。 幕臣としてやともごく関わりが深かったようだ。 長慶死後はをも圧倒する権勢を手にし、(長慶の死にも関わっていたとする説もある)。 した幕府を傀儡にせんと軍・を殺。 その後()と対立して大を焼き払ったと言われる。 が上するといちく降伏、器「」を献上して領を安堵される。 以後はの一武将として畿内を中心に戦うが、二回ほどを裏切り敵に回る。 癇癪もちで気が短いはずのは、不思議なことに一度の裏切りを許して帰参させている。 二度の裏切りの際も名器「釜」を譲れば許すと寛大な態度を見せる。 しかし久秀は二度の条件を拒絶、に火を放ち「釜」を壊してした。 大を焼き払った日からちょうど10年の同じ日付だったので、大を焼いたら自分も焼いたと人々に言われたらしい。 後に首と釜は火で破壊して…と臣に命じた話も伝わっており、時代にあるが何度も紹介したところ、しだいに話が膨らんで釜に火を詰めする人扱いになってしまったようだ。 その所業とさから『乱世の雄』と呼ばれており、味のある人物である。 がに彼を紹介する際に「この老人は常人には出来ぬ下の大罪を三つ(君・長慶殺し、殺し、大焼き討ち)も犯した」と言ったという。 のことだから本気で褒めてたのかもしれない。 前記の通り「」「釜」という下に名高い器を所有し、の師にあたる武野紹に師事していた人な久秀だが、一説にはも伝わる流の三千 表千・裏千・千 の祖、千宗旦のである千少 の養子 の実が松永久秀であるという説が有視されているとの事。 弾正がした二度の謀反の際、嫡男久通もでし、の人質だった久通の子 久秀の孫 はの命で落前に六条の露と消えたと『』には記されているが、落ち延びてでを開業し商となった者がいるとも言われる。 その子孫が初期にで英東洋艦隊を壊滅させた隊として名高い貞軍で、さらにの産みの親のは貞の孫である。 また、の一人、の妻、代 が所属する芸「」の代表 の旧姓は代といい、もまた松永久秀の子孫であるとの事。 ちなみに久秀は高齢になってからも子宝にており、な南書を著したことでも知られている。 ギリワン 『』や『』などの歴戦では、義理や忠義が値に低く設定されている事が多く、義理=1(他の義理1武将はやなど)とされた作品が多い事から歴戦界()では「の(義理1)」とよばれている。 勢の中でも特にが立っており動かしやすいからか、にくちょく登場している。 ぶりをにしたもできている。 3ヶ5謀反は当たり前、3ヶ8謀反も• 寝返りを頻発• 久秀にとっての攻め滅ぼしは殺のしそこない• 9日人差、中負傷の状況から1人で寝返り• 大も余裕で焼く• 1年で謀反が特技• 仕官しただけで相手当が泣いて謝った、発作を起こす当も• 寝返り成功でも納得いかなければ相手君殺して帰ってきてた• あまりに謀反しすぎるから出でも謀反扱い• その出でも謀反• を一睨みしただけで長慶のたちがに飛んでいく• 戦のい日でも2謀反• を使わずに手で暗殺してたことも• 仕官してから反旗を翻す方がかった• のヤジに流暢なで反論しながら謀反• グッとしただけで5人くらい不審死した• が始まったきっかけにも少し絡んでる• の深い位置からの御所も襲撃してた• 久秀に寝返られたことにまだ気づいていない大名も多い• 久秀が挙兵した時点で君でいいだろ• 2日連続謀反は「はが飲みたい」という• 自慢の釜に火を詰め込んでという 忠臣久秀 をのっとって裏切りを繰り返した悪逆非上の雄とされてきた松永久秀だが、近年、を専門とする学者の忠幸らの研究により、「 実はとに最後まで忠義を尽くした人物だった」と言う事がになってきているという逆転現が起こっている。 元々、松永久秀は、の右筆から一軍を率いる身となり、軍を率いてのに敵対する勢を掃討してそのまま領地として任されるというな人物なうえ、においてに直接謁見できる立場にまで昇進している。 また前述の通り武野紹に師事した人である久秀は、会や会を開くなど高い教養を持ち、背丈も程とではないが当時としては十分にで、当時ののには、立ち振る舞いに優れたである事が記録されていると言う一流の文化人でもある。 そんな彼がしでかしたとされる事柄については、近年の研究により、• の大焼き討ちは、そもそもそんなところをにしたのせいであると言え、しかも失火については宣が軍にいた信徒の功績だと記録を残しているなど久秀が全てのを負うものではない。 暗殺については、久秀はにいて襲撃に参加しておらず、犯はである(のは参加していたが)。 そもそも最近の研究では、は軍という字面にあわない事をやらかしていて当時のにはだった為、暗殺された際も「されて当然だってね」的な話が記録に残っている。 の後継者と期待されていた若武者を簒奪の為に殺したと言う話も一次史料が存在せず、逆に、と同じくに直接謁見できるまでになった久秀を妬んだ者達がばらまいた根拠のい事だとしている史料もある。 の後を継いだと敵対した件も、確固たる基盤がないままの当となった義継は政を仕切るらの傀儡と化していた為で、後にに嫌気がさした義継は久秀のもとへと込み、以降は久秀とともにと戦っている。 がを奉じて上してきた際も、は久秀と共にとを向かいいれ、の前にへと逃亡したが再上陸してきた際にこれを迎撃・撃退し、義継がに参加してに敗れて自するまで共に行動している。 など、これまでの定説とは逆であった事が発表されてきており、には二度反逆したものの、本来の君である・・に対して不審な行動をとった事を明する記録も存在していない。 とこのように実は実だったのではないかと思える行動も取っておりの多い人物である。 補足 「」()における松永久秀の覧。 のは古く、武将録から存在する。 ただし毎回恒例という訳でもない。 内政 群雄伝 S1 76 86 魅 野望 武将録 S1 魅 野望 教養 伝 采配 74 智謀 99 野望 戦才 B 智才 1 A 政才 A 魅 74 野望 録 智謀 伝 采配 81 智謀 99 世記 采配 智謀 野望 録 統率 知略 下創世 統率 知略 教養 統率 81 武勇 知略 統率 81 武勇 知略 86 創造 統率 武勇 知略• 義理は「群雄伝」4、「武将録」「伝」「」「録」0、「伝」、「世記」、「録」「下創世」「」「」1。 録以降はまさにの。 「創造」では義理が止され、代わりに「必要忠」値が登場(野心みたいなもの)。 低いほど義理堅い性格で、補正しの忠値は10なのだが、彼の必要忠はもちろん最高値の 15。 宝とかで底的にテコ入れしないと常に寝返りの危険がある。 って世記おかしいだろ、と思われるかもしれないが、世記の義理は が値である。 しかしどころかギの時期もあったのか……。 野望も高いし。 戦国無双 4にてようやく参戦する。 (は)は曲と。 悪党を気取るふてぶてしい性格ではあるが、もたしなんでおり自分の才に自信を持っている。 自分の運命を他人に左右されるのを何より嫌う性格で、を陰から見てを持ったに対し、臣下に加わる一方でやを陰でたきつけるの役を演じようとするも、全て見透かされたうえで手もとにおかれ続けていることに不満を募らせていく。 戦国大戦 「ククク…いい気分だ」 の彼はその他大勢である他軍に属している。 武8統率9という双方ともに高い文武両のに伏兵・制圧・魅と特技を3つ持っているという。 他で数少ない他軍と較しても遜色ないの持ちである。 計略の「の釜」は、してにり付いた敵武将を焼き払ってを与えるという計略。 例外的にの中から一撃てる計略となっている。 まさに。 数奇としても登場しており他で数少ない気合持ちのである。 他はしか持っていない。 計略は同じ。 はで有名な氏である。 関連動画 関連商品 関連コミュニティ 関連項目• ちゃん-下上-.

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東大寺大仏殿の戦い

松永 久秀

Contents 目次• 【 】 松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将です。 大和国の。 官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の名で知られています。 弟に松永長頼、嫡男に松永久通、 久秀の甥で松永家の姓を継承した永種(松永貞徳の父)がいます。 なお、松永貞徳は、江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者でした。 【 とは?】 初めは に仕えていました。 やがて三好政権内で実力をつけ、 室町幕府との折衝などで活躍した人物です。 松永久秀は の配下であると同時に、 交渉の一環として 室町幕府第13代将軍・ の傍で活動することも多く、 その立場は非常に複雑なものであったとされています。 また、三好長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、 同時に官位を授けられるなど 主君の嫡男と同格の扱いを受けていました。 三好長慶の死後は三好三人衆と協力と争いを繰り返し、 畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となっていきました。 後に、 が足利義輝の弟・ を奉じて上洛してくると、 一度は降伏してその家臣となります。 けれどもその後、織田信長に反逆して敗れ、 信貴山城で切腹もしくは焼死により自害しました。 茶人としても高名であり、 茶道具と共に爆死するなどの創作も知られています。 【生い立ちなど】 永正5年(1508年)生まれとされています。 出身は、阿波国・山城国西岡(現在の西京区)、 摂津国五百住の土豪出身など諸説があります。 【三好長慶の書記として】 天文2年(1533年)か天文3年(1534年)頃より 細川氏の被官であった 三好長慶の右筆(書記)として仕えたとされています。 史料における初見は天文9年(1540年)と言われています。 天文9年(1540年)6月9日、 三好長慶が西宮神社千句講用の千句田二段を 門前寺院の円福寺、西蓮寺、東禅坊の各講衆に 寄進する内容の書状を33歳の松永久秀が 弾正忠の官名で伝達している記述があるとの事です。 同年12月27日、 堺の豪商・正直屋樽井甚左衛門尉の購入地安堵判物にも 松永久秀が副状を発給しており、 このころ奉行の職にあったとみられています。 <三好長慶の像> 【三好長慶の家臣として】 史料上の初見の時期からも、三好長慶が、 それまでの三好勢のように、 畿内の争いで一時敗れても阿波に帰らず、 越水城主として摂津下郡半国の守護になり、 初めて畿内での統治を行った際に 外様の家臣として取りたてられ活動していたと見られています。 天文11年(1542年)には三好軍の指揮官として、 木沢長政の討伐後に なおも蠢動する大和国人の残党を討伐するため、 山城南部に在陣した記録があり、 この頃には官僚だけでなく 武将としての活動も始めていたとされています。 三好長慶が の部下であった頃から、 仕えていたと見られいますが、 本格的に台頭してくるのは三好長慶が 細川晴元を放逐して 畿内に政権を樹立する頃からでした。 【三好政権における松永久秀に対する人事】 松永久秀の抜擢については、 三好政権における人事の特殊さを表していると見られています。 三好長慶は松永久秀や岩成友通を登用し、 彼らは三好政権で枢要な地位につくほどの重臣となりました。 けれども、他の大名家と異なる点として、 彼らが阿波時代からの三好譜代の 名跡と家格を継承した形跡がないことが挙げられます。 低い身分、外様からの重臣への抜擢自体は 他の大名家でも見られます。 例を挙げますと、上杉家は 樋口兼続に直江家の後を継がせ、 直江の城と家臣団を継承させています。 北条家は福島(櫛間)綱成に 北条の名字を与え一門に列席させています。 このように、抜擢するに応じて 相応の家格・地位・領地・家臣団を与えています。 や を外様から抜擢した織田信長も、また然りです。 これは三好家の人事登用が、 従来の家格秩序に とらわれないものであったと見られています。 【三好長慶の寵臣時代】 天文18年(1549年)、 三好長慶が細川晴元、 室町幕府13代将軍・足利義輝らを近江国へ追放して を支配すると、 公家や寺社が三好家と折衝する際の仲介役として、 三好長逸と共に果たすようになりました。 松永久秀は三好長慶に従って上洛し三好家の家宰となり、 上洛後しばらくは他の有力部将と共に、 京都防衛と外敵掃討の役目を任されました。 【相国寺の戦い】 天文20年(1551年)7月14日には、 等持院に攻め込んできた 細川晴元方の 、 香西元成らを弟の三好長頼と共に攻めて打ち破っています。 これは相国寺の戦いと呼ばれている戦です。 【政治家として幕政に関与】 三好長慶に従い幕政にも関与するようになり、 三好長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に 摂津 主に任ぜられています。 なお、一説には 弘治2年(1556年)7月とも言われています。 同年9月には松永長頼と共に、 丹波国の波多野秀親の籠る数掛山城を攻めました]が、 波多野氏の援軍に訪れた三好政勝、 香西元成に背後から奇襲を受け惨敗となりました。 この戦いで味方の内藤国貞が戦死を遂げ、 内藤家に混乱が生じます。 その後は三好長頼が内藤国貞の遺子である 千勝の後見人をするという形式で 内藤家を継承し、丹波平定を進めていきました。 【北白川の戦い】 永禄元年(1558年)5月に 足利義輝、細川晴元が近江国から進軍して 京都郊外の東山を窺うと、 松永久秀は吉祥院に布陣し、 弟の松永長頼、三好一門衆の三好長逸、 伊勢貞孝、公家の高倉永相と共に 洛中に突入して威嚇行動を行い、 将軍山城と如意ヶ嶽で幕府軍と交戦し、 11月に和睦が成立すると摂津国へ戻りました。 【 子孫への赦免】 永禄2年(1559年)3月、 三好長慶は で花見を開催しました。 この時に、松永久秀も谷宗養、三好義興、 寺町通昭、斎藤基速、立入宗継、細川藤賢らと 共に参加していました。 また同年、部下の楠木正虎(楠木正成の子孫)が、 北朝から朝敵から赦免して欲しいと前から願っており、 松永久秀はこれを聞き入れて、 正親町天皇に赦免を許可して欲しいと交渉しています。 楠木正虎は赦免された上に河内守にも任官されています。 【 を陥落】 松永久秀は同年5月の河内国遠征に従軍。 戦後は三好長慶の命令を受けて残党狩りを口実に 8月6日大和国へ入り、わずか1日で の本拠地である 筒井城を陥落させ追い払っています。 次に平群谷を焼き、筒井方の十市氏を破っています。 【大和国統一と信貴山城】 永禄3年(1560年)には 興福寺を破って大和一国を統一する一方、 三好長慶の嫡男である三好義興と共に 将軍・足利義輝から御供衆に任じられ、 1月20日に弾正少弼に任官します。 6月から10月までの 三好長慶の再度の河内遠征では大和国に残り、 7月から11月にかけて大和北部を平定し、 三好家中の有力部将として台頭していきました。 そして同年11月に滝山城から 大和北西の信貴山城に移って居城としました。 やがて信貴山城に天守を造営しました。 <信貴山城跡> 【松永久秀、御供衆の大出世】 永禄4年(1561年)2月4日に従四位下に昇叙されると、 それまで称していた藤原氏から 源氏を称するようになりました。 また2月1日には足利義輝から 桐紋と塗輿の使用を許されています。 (「歴名土代」「御湯殿上日記」「伊勢貞助記」より) この待遇は、三好長慶父子と同等であり、 既にこの頃には幕府から 主君である三好長慶と拮抗する程の勢力を有する 存在として見られていた事がうかがえます。 足利義輝が参内などをする際、 松永久秀は三好義興と共に幕臣として随行しており、 また足利義輝の元に出仕して 仕事を行う頻度も増えていきます。 この御供衆任命以降、 松永久秀と足利義輝が関与する史料が増加していきます。 三好長慶には多くの被官がいましたが、 ここまでの出世を遂げたのは 松永久秀、ただ一人でありました。 この頃、松永久秀は三好長慶と 「相住」(同居)の関係(『厳助大僧正記』)にあり、 三好長慶の側近として特に重用されていたそうです。 同年からは六角氏への対応のため、 三好軍の主力を率いてしばしば交戦しています。 永禄4年(1561年)3月、 将軍である足利義輝が三好義興の邸宅に御成し、 歓待を受けました。 ここで松永久秀は、足利義輝に太刀を献上したり、 足利義輝の側近達を接待したりするなど、 三好家の人間として足利義輝達を接待する一方で、 具足の進上、足利義輝達への食事の配膳、 食事中の足利義輝に酒を注ぐなど、 御供衆の仕事も務めていました。 またこの将軍御成の宴席では猿楽が催されましたが、 松永久秀はその際に要脚を運ぶ仕事をしています。 これは足利義輝を歓待する三好一族と、 足利義輝の側近のみが許可された仕事であり、 三好一門ではない松永久秀は 御供衆としてこの仕事を行ったと推測されています。 【三好政権内における地位】 将軍御成における松永久秀の仕事は、 彼が御供衆として 非常に多くの仕事をこなしていたことを示しています。 御供衆への任命によって、 松永久秀は三好家家臣及び三好長慶被官として 活動するのと同時に、 足利義輝の側近のような立場としても活動していました。 松永久秀は、三好義興が足利義輝の相伴衆に任命されると ほぼ同時に御供衆に任じられ、 同時期に従四位下の官位を授与され、 桐紋の使用を許可されています。 三好家の実権は没するまで三好長慶が握っていました。 このことから、三好家の実質的なトップは 最期まで三好長慶であり、 松永久秀は三好長慶を出し抜こうとしたり その意に反した形跡はありませんでした。 また、松永久秀は三好長慶から 大和一国の管理を任され、 その権勢は非常に強く、 一国の大名のような立場になっていました。 【三好長慶の不幸と自身の死】 松永久秀が勢力を増加させていく一方で、 主君である三好長慶は弟の 、 、嫡男である三好義興の 相次ぐ死去などの不幸が重なりました。 三好一存や三好義興については、 松永久秀による暗殺説もあるそうですがが、 十河一存の死因は落馬、 三好義興は病死とされています。 また岩成友通に宛てた書状では、 三好義興が病に倒れたことに心を痛め、 改めて三好家に忠誠を誓い討死する覚悟がある、 ということを伝えているとのことです。 永禄7年(1564年)5月9日、 三好長慶の弟である の死去により、 三好家では松永久秀に並ぶ実力者は、 阿波で国主を補佐していた のみとなりました。 7月4日に三好長慶が死没すると、 しばらくは三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと 共に三好長慶の甥・三好義継を担いで三好家を支えていました。 【永禄の変、勃発】 永禄8年(1565年)5月19日、 息子の松永久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて上洛し、 室町御所の足利義輝を襲撃して殺害しました。 この事件は松永久秀が首謀者のように見られていましたが、 この時期の松永久秀は京への出仕は、 息子である松永久通に任せ、自身は大和国にいることが多く、 事件当日も大和国におり加わってはいません。 また覚慶と号し、この当時僧籍に入っていた 還俗前の足利義昭の書状から、 松永久秀は事件直後に 足利義昭の命は取るつもりはないと誓詞を出しており、 実際に興福寺での監禁は外出を禁止する程度で さほど厳しいものではなかったそうです。 三好義継・松永久通・三人衆ら襲撃犯が 足利義輝の子を懐妊していた侍女や 弟の周暠を殺害したことに比較すると 足利義昭に対しては温情的な処置であり、 松永久秀は足利義輝殺害には全く関与していなかったか、 または消極的だったと見られています。 しかしながら一方で、 松永久秀は義輝殺害に強く反発した形跡が見られず、 殺害そのものは容認していたのではないかという見方もあります。 松永久秀は足利義輝の死という突発的な状況に、 足利義昭を庇護し、それを将軍に据え、 傀儡として操ろうとしていたのではないか、 とも推測されています。 【三好三人衆との対立】 同年8月2日に弟である松永長頼が丹波国で敗死して 三好家は丹波国を喪失いました。 やがて松永久秀は畿内の主導権をめぐりって、 三人衆と対立するようになり、 11月16日に三好義継を担いだ三人衆が松永久秀と断交します。 両者は三好家中を二分して争い、 これが内乱の幕開けとなっていくのでした。 【孤立する松永久秀】 永禄9年(1566年)には、 三好康長や安宅信康ら一門衆も三人衆側に加担し、 三人衆が新たに担いだ 14代将軍である からも討伐令を出されるなど、 松永久秀は三好家中で孤立してしまいました。 【筒井順慶に敗れる】 2月に畠山高政・安見宗房と同盟を結び、 とも連携して三好義継の居城高屋城を攻撃するなど 何とか勢力の挽回を図ろうとしましたが、 三人衆は和泉国堺を襲撃します。 2月17日、松永久秀は畠山軍とともに、 三人衆と同盟者の大和国人である筒井順慶と 堺近郊の上芝で戦いましたが、 両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退しました。 松永久秀は一旦多聞山城に退却して5月に再度出陣します。 かつての領国摂津で味方を募り、 堺で畠山軍と合流しました。 高屋城では三好義継の被官である金山氏が、 松永久秀へ内応を図りましたが、 高屋衆に阻止され失敗し、 高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため、 松永久秀は5月30日に堺から逃亡。 畠山高政は三人衆と和睦し、 摂津・山城の松永方の諸城は 篠原長房・ などの援軍を加えた三人衆に 次々に落とされ、留守中の多聞山城は 松永久通が守っていましたが、 筒井順慶が大和を荒らし回るなど 劣勢に立たされてしまいました。 <多聞山城跡> 【久秀、信貴山に帰還】 ところが、永禄10年(1567年)2月16日に 再び金山氏の手引きで三人衆のもとから 三好義継が松永久秀を頼って出奔してきたため、 これを契機に勢力を盛り返し、 4月7日に堺から信貴山城に復帰しました。 4月18日に三人衆が大和へ出陣しました。 松永久秀は長い対陣の末に、 10月10日に三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、 畿内の主導権を得ました。 これを東大寺大仏殿の戦いと称します。 実際これ以降の松永久秀の行動は三好義継とほぼ共にあり、 三人衆や阿波三好家(三好長治)とは激しく対立しましたが、 やはり三好家当主には忠実だったと言えます。 【打開策は織田信長の上洛】 しかし、この時点で松永久秀に味方したのは 畠山高政や根来衆、箸尾高春ら一部の勢力だけで、 四国に強い地盤を持つ 阿波三好家である篠原長房が率いる 大軍勢を味方につけた三人衆とは 大きな勢力の開きがありました、 三人衆との戦いは終始劣勢であったのです。 永禄11年(1568年)になっても三人衆は、 軍を大和に駐屯させたまま、 松永久秀の監視体制を継続。 6月29日に信貴山城が 三人衆に落とされてしまいました。 そこで、多聞山城に籠城していた松永久秀が 打開策として考えていたのが織田信長の上洛でした。 永禄9年(1566年)の段階で既に、 織田信長と交信していて、 織田信長も大和国人衆に 松永久秀への助力を伝えていました。 【織田信長の時代】 【足利義昭の幕臣として】 永禄11年(1568年)9月、 足利義昭を擁立した織田信長は上洛に成功します。 織田信長の上洛に協力した松永久秀は、 当初は織田信長の同盟者の立場にありました。 10月2日には織田信長に対して人質と 名物といわれる茶器「九十九髪茄子」を差し出しています。 松永久秀は幕府の有力な構成員となり、 大和一国の支配を認められました。 三人衆は織田信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、 足利義栄も上洛出来ず急死したため、 足利義昭が15代将軍となり、 畿内は織田信長に平定されました。 この後も三好義継、松永父子は 相伴衆や御供衆に任じられた 足利義昭の「幕臣」として、 京での活動が記録に残っています。 <織田信長像> 【大和の平定】 大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していましたが、 織田信長が10月に家臣の 、 、 ら 2万の軍勢を松永久秀の援軍として大和に送ると、 この軍勢と協力して次第に大和の平定を進めていきます。 一段落した12月24日には岐阜へ赴き、 さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上しています。 永禄12年(1569年)も大和平定を継続し、 対する筒井順慶は没落を余儀無くされていきます。 またこの年の本圀寺の変時には岐阜に滞在しており、 事件の際には織田信長と共に上洛し駆けつけています。 【本圀寺の変】 本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、 永禄12年1月5日(1569年1月31日)に 三好三人衆らが京都本圀寺に仮御所を置いていた 室町幕府15代将軍足利義昭を襲撃し、 戦闘となったことです。 六条合戦とも呼ばれています。 【信長包囲網形成と共に足利義昭側へ】 元亀元年(1570年)、 織田信長の 討伐に 三好義継や池田勝正らと共に参加し、 と呼ばれる戦の際には、 織田信長が妹婿・ の謀反で 撤退を余儀なくされると、 近江国 谷領主である を説得して味方にし、 織田信長の窮地を救っています。 また、同年11月から12月にかけて、 織田信長と三人衆の和睦交渉に当たり、 松永久秀の娘を信長の養女とした上で 人質に差し出して和睦をまとめています。 以後も織田信長の家臣として 攻めに参加しましたが、 次第に信長包囲網が形成されてゆくにつれて 足利義昭に通じていったと推測されています。 【織田信長への不穏な動き】 元亀2年(1571年)の時点で 甲斐国の から書状が送られており、 この時点で織田信長に対する不穏な動きが見られます。 また三好義継と共に和田惟政や筒井順慶と しばしば争いを起こしていますが、 8月4日の辰市城の戦いで筒井方に大敗し、 竹内秀勝らの有力な家臣を失っています。 【ついに織田信長と敵対す】 元亀3年(1572年)、 ついに松永久秀は織田信長に対する敵意を明らかにし、 三好義継、三好三人衆らと組んで織田信長に敵対しました。 けれども翌年の元亀4年(1573年、天正に改元)4月、 包囲網の有力な一角である武田信玄が 西上作戦中に病死し、武田氏は撤兵。 7月には、 の戦いで 足利義昭が織田信長に敗れ追放されます。 更に11月には、三好義継も 織田信長の部将・佐久間信盛に攻められ敗死)。 12月末に余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、 多聞山城を織田信長に差し出し降伏しました。 三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解しました。 翌年の天正2年(1574年)1月には 岐阜に来て織田信長に謁見し、 筒井順慶も織田信長に服属しています。 以後、松永久秀は 対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である 佐久間信盛の与力とされましたが、 目立った動きはなかったとされています。 【信貴山城の戦い】 信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)は、 天正5年(1577年)10月5日から10月10日にかけて、 織田信長に対して謀反を起こした 松永久秀の居城である信貴山城で行われた攻城戦です。 別名「松永久秀討伐戦」とも称されています。 【本願寺攻めから離脱】 天正5年(1577年)に 、 、石山本願寺などの 反織田信長勢力と呼応して、 本願寺攻めから勝手に離脱します。 織田信長の命令に背き、 信貴山城に立て籠もり、 再び対決姿勢を明確に表しました。 織田信長は松井友閑を派遣し、 理由を問い質そうとしたが、 松永久秀は織田信長の説得を拒絶したとあります。 【織田信長、憤慨し挙兵】 憤慨した織田信長は同年9月後半ごろより 筒井順慶、 、細川藤孝を出陣させ、 法隆寺へ布陣、信貴山城の先軍としました。 【片 、落城】 同年10月1日には、 織田軍は信貴山城の支城となっていた 片岡城を約5千兵で攻城します。 これに対して松永軍は海老名勝正(友清)、 森秀光(正友)らが率いる 約1千兵で防御したとあります。 この時の戦いの状況を 「片岡城今日セメキリ、エヒナ河人始テ七十ハカリ無残討死了」 (「多聞院日記」)と記載されており、 筒井隊にもかなりに戦死者が出た模様ですが、 松永軍の武将である 海老名、森を含む150余が討死、片岡城も落城しました。 【織田信長、更に兵を送る】 同年9月23日、 で勝利した上杉謙信でしたが、 から進軍が止まった、との報告が 同年10月3日に から、 直接織田信長がいる に入りました。 そこで織田信長は、 総大将に嫡男の 、佐久間信盛、 、 など 加賀に出陣していた部隊を 信貴山城攻城の援軍として送り込みます。 この時の織田信長軍の総数は4万兵とも推測されています。 翌10月4日、朝護孫子寺の毘沙門堂が焼け落ちました。 【信貴山城の戦い、開始】 戦いは翌10月5日から開始されました。 4万の軍が一斉に攻城を開始しましたが、 信貴山城は簡単には落城しなかったとのことです。 【援軍要請の落とし穴】 10月5日の戦いでは勝利した松永軍でしたが、 織田軍との兵力差は圧倒的でした。 そこで、もう一つの密約の相手である顕如に 至急援軍を要請することにし、 その使者に森好久という人物を選びます。 森好久は10月7日に信貴山城を出立、 翌10月8日石山本願寺から 加賀鉄砲衆200名を引き連れて帰城し、 三の丸付近に配置させました。 森好久の報告によると、 両三日中に毛利軍から更なる援軍が到着し、 そのようになれば石山本願寺からも 更なる援軍を差し向ける事が出来ると 顕如が申していたといい、 松永久秀は喜んだと伝わっているそうです。 【使者は筒井順慶の元譜代】 けれども、この鉄砲衆200名こそが 信貴山城落城のきっかけとなったのでした。 森好久は筒井順慶の元譜代で、 筒井順慶の居城である筒井城が落城すると 牢人となっていましたが、 その後に松永久秀に仕官し、 その才覚から落城直前には信頼を得ていたと見られています。 しかし、森好久は信貴山城を出立すると、 そのまま筒井順慶の部将である松倉重信の陣所に駆け込み、 信貴山城の内情を知らせたのでした。 筒井順慶は森好久に金子三十両を与え、 虎の子の鉄砲衆200名を預け、 伏兵とするように命じたとされています。 (「和州諸将軍伝」より) 【最期の戦い】 その後、 「夕六ツ過ヨリ信貴城猛火天二耀テ見了」 (「『多聞院日記」)とあるので、 翌10月9日の午後6時前後より すでに戦闘は開始されていたと見られています。 けれども、再び総がかりの攻城は、 翌10月10日明朝からで、 織田信忠の許可を得て 筒井順慶は前線に立ち攻撃しました。 これに対し松永軍は弓と鉄砲で抵抗しました。 門からも討ってでて、 筒井隊は一度は押し返されたとのことです。 そんな中、天守に近い三の丸付近から 火の手が上がったとのことです。 森好久が率いる鉄砲衆200名が反乱を起こしたので、 これにより軍としての統率力は 無くなったとみられています。 【最期】 松永久秀・久通父子は自害しました。 松永久秀は68歳、松永久通は35歳でした。 また安土城の天守のモデルとも言われている 信貴山城の四層の天守櫓は、 この時に炎上したと見られています。 奇しくも、 10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と 同月同日でした。 「兼見卿記」によりますと、 松永親子は切腹し、また放火したとあります。 「多聞院日記」では、 遺体が焼けたあとで首4つが 安土城に送られているとのことです。 【埋葬したのは筒井順慶】 「大和志科」によると 胴部分は達磨寺に葬られ、 丁重に埋葬したのは 長年の宿敵であった筒井順慶と記載されています。 <松永久秀の墓> なお、2020年大河ドラマ「麒麟がくる」では、 吉田鋼太郎(よしだこうたろう)さんが 演じられる事が決定しております。 【筒井順慶】 この戦いは筒井順慶の 目覚ましい活躍があったとされています。 地元であり、松永氏とは仇敵とも言える間柄でした。 筒井順慶は着陣以後、 何度か家臣達と戦評定を行っていたとされています。 これは織田信長より守護を拝命し、 武人として先陣の名誉を承った以上、 無為の日々を送っていては不忠で臆したことになり、 なんとしても城を攻め落とす必要があったのではないかと 推測されています。 【達磨寺】 達磨寺(だるまじ)は、 奈良県北葛城郡王寺町にある臨済宗南禅寺派の寺院です。 【歴史】 この寺の創建については、 推古天皇21年(613年)の冬、 が片岡山で飢えていた異人に 衣食を施したという 片岡山飢人伝説にからめて語られています。 その後は、衰退と中興が繰り返され、 江戸時代には幕府から30石が与えられています。 【片岡山飢人伝説】 片岡山飢人伝説とは、 聖徳太子こと厩戸皇子が片岡山を通りかかったところ、 飢えて瀕死の異人に出会いました。 聖徳太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、 食物と自分の衣服とを与えました。 翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、 すでに息絶えていたので、丁重に葬りました。 それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、 死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて、 棺の上に置かれていたとのことです。 これを知った里人は、 あの異人は達磨大師の生まれ変わりに相違ないと言い、 聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが 達磨寺の始まりであるとされています。 【境内】 達磨寺の境内には 達磨寺1号墳・2号墳・3号墳と称される 3基の古墳(6世紀頃の築造)が存在しています。 このうちの3号墳の上に本堂が建てられています。 この古墳は平安時代には、 聖徳太子ゆかりの達磨大師の塚であると 信じられていたとされています。 寺院としての形態が整うのは 時代以後と見られています。 なお、1号墳は、聖徳太子の愛犬である 雪丸の墓とされています。 境内には雪丸の像もあります。

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