春野スヤ。 金栗四三と春野スヤはどんな結婚生活を送っていたの?

いだてんスヤ(綾瀬はるか)の結婚!四三(中村勘九郎)とはどうなるのか?

春野スヤ

金栗四三の妻、春野スヤとは? スヤは熊本県玉名郡石貫村、現在の熊本県北部の生まれで、医者の娘でした。 年齢は金栗の1歳下なので同年代の女性ということになります。 金栗とは同郷の出身ですが、大河ドラマの設定のように幼馴染というわけではなかったようです。 2人の馴れ初めはお見合いだった 縁談から結婚式まで、2人はどのような経緯を辿ったのでしょうか。 二人が出会ったキッカケはお見合いでした。 当時としては珍しいことではなかったかもしれませんが、一体どのようにして縁談がまとまったのでしょうか。 金栗に持ち上がった養子縁組 明治45年(1912)ストックホルムオリンピック大会に出場するも辛酸をなめた金栗は、次回のベルリンオリンピックに向けてトレーニングに励んでおり、後輩へのコーチングも開始していました。 そんな中、長兄の実次(さねつぐ)から養子縁組の話がきたのです。 二人の叔母に当たる池部幾江は、資産家の池部家に嫁いだものの夫に先立たれた上に子供もおらず、なんとか池部家を存続させたいという考えがありました。 そこで、自分の血縁である金栗を養子にして跡取りにしようと考えたのです。 当初はこの話に難色を示した実次でしたが、叔母の勢いに負け、本人が承諾するのであればという条件付きでこの話を受けました。 当の本人である金栗は、ベルリンオリンピックの練習に支障がないなら問題ないと考え、熊本に帰らず東京に留まることを条件に養子縁組を受けることになります。 なお、養子に入り本名は池部四三となりましたが、養子先の計らいでその後も金栗姓を用い続けました。 スヤをすっかり気に入った金栗家 返事を聞いた幾江は、金栗が養子になった上に結婚もしてくれれば池部家も安泰だと考え、嫁探しも始めました。 そこで彼女の眼鏡にかなったのがスヤだったのです。 スヤはしっかりした性格で、金栗のマラソンへの情熱もよく理解していました。 幾江からスヤを紹介された実次は、本人に会わせる前だというのに大変スヤを気に入り、すぐに見合いをするよう金栗に勧めます。 お見合い後すぐに結婚式! 縁談はとんとん拍子に進み、金栗とスヤは熊本でお見合いすることになりました。 このとき金栗は23歳、スヤが22歳でした。 初対面の二人ですから、通常ならそこから少しずつ距離を縮めて……となりそうなところですが、なんと二人はその翌日に結婚式を挙げてしまいます。 現在で考えてもビックリするほどの早さで、今で言うところのスピード結婚ですよね。 しかしこの養子縁組と結婚は、金栗にとってプラスだったといえるでしょう。 普通なら就職する年齢に達していた金栗は、オリンピックでの好成績を狙うためにもマラソンに専念したい考えがありました。 そんな彼にとって、働かなくても問題ないほど裕福だった池部家の跡取りという地位は、良い環境を維持するためにも効果的だったといえそうです。 金栗を支えたスヤ 出会った翌日に挙式した二人ですが、その結婚生活は少し特殊な形でスタートを切ることとなります。 二人の結婚生活はどのようなものだったのでしょうか。 別居を余儀なくされた2人 結婚式から5日後、二人は別居生活をスタートさせました。 というのも、金栗はスヤを熊本に残して一人で東京に戻り、マラソンのトレーニングに励むことになったからです。 スピード結婚の上に即別居とはなんとも型破りですが、そんな状況にも理解があるスヤだからこそ金栗はすぐに結婚を決めたのかもしれませんね。 このような別居生活は5年も続きました。 オリンピックに向けて夫をサポート 金栗が目指したベルリンオリンピックの写真です。 東京と熊本という遠距離で暮らすようになった二人ですが、それでもまるで会わないわけではなく、時折スヤが上京していたようです。 金栗は大正5年(1916)のベルリンオリンピックを目指していましたが、この大会は第一次世界大戦で中止になったため、次のアントワープオリンピックを目標に据えることとなりました。 そうして迎えた念願の大会では、出発の準備を手伝おうとスヤが上京してきたといいます。 しかし金栗は、すべてを忘れて祖国のために走りたいので邪魔しないでほしいと告げ、スヤを追い返してしまったそうです。 そんな金栗に理解を示すことも、スヤのサポートの1つだったといえるでしょう。 この大会で16位という成績だった金栗は、その後に東京女子師範学校に勤務することとなり、スヤを東京へ呼び寄せて同居を始めます。 大正13年(1924)パリオリンピックでは途中棄権し、これを機に競技生活から引退しました。 現役引退後も夫を支え続けた 金栗の恩人であり、日本体育の父と呼ばれる嘉納治五郎です。 昭和5年(1930)親代わりだった実次が死去すると、二人は熊本に帰って幾江のいる池部家で生活を始めます。 これには支援し続けてくれた幾江の恩に報いる意味もあったようです。 現役から退いた金栗でしたが、その後もスヤは彼を支え続けています。 金栗が知人から梨園経営を勧められた際には「あなたはマラソンに捧げる人生を選んだのではなかったのか?」と叱ったといわれ、これにより金栗は熊本での陸上競技の普及や後進育成に力を注ぐことができたようです。 また昭和15年(1940)に東京オリンピック開催が決定した際は、金栗に開催準備の手伝いをして欲しいとの要請が来ました。 このときも、子供たちの心配はいらないので上京して手伝うように、金栗の背中を押したといわれています。 というのも、この要請は柔道の父と呼ばれる嘉納治五郎によるものであり、彼は金栗がマラソンを始めるキッカケとなっただけではなくオリンピック出場や職の紹介など、金栗にとって大の恩人でした。 スヤには、そんな恩人の要請を無下にできないという思いもあったのでしょう。 金栗とスヤの間には6人の子供がいたので、一人で面倒をみるのは大変なことです。 それでもスヤは夫の面目をたてたり背中を押したりと、金栗を支え続けました。 金栗の夢に向かい人生をともに走る 同郷でありながらお見合いで知り合った金栗とスヤは、長らく別居生活を続けながらも、マラソンの夢に向かって共に人生を駆け抜けました。 オリンピックでは必ずしもいい結果を残せたわけではありませんが、それでも日本代表として大会出場の切符を手にしたり、後進の教育に関わったりと、金栗は偉大な功績を残しています。 さまざまな人から援助された金栗ですが、その活躍の裏にはスヤの深い理解があったといえそうです。 <関連記事>.

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レキシン 金栗四三の妻・春野スヤとは?大河ドラマ「いだてん」での役は綾瀬はるか! オリンピックマラソンで日本人初の代表選手・金栗四三(かなくりしそう)は2020年の東京オリンピック開催のシンボル的な人物として取り上げられ、2019年のNHK大河ドラマ 「いだてん~東京オリムピック噺~」の前半期の主役にも抜擢されました。 金栗四三がストックホルム五輪に出場したのが22歳の時、その翌年に四三は 春野スヤという女性と結婚し、その後はマラソン選手、そして指導者としての道を歩みます。 金栗四三の競技生活、指導者としての活動を影から支え続けた四三の妻、大河ドラマでは 綾瀬はるかさんがキャスティングされることになった春野スヤ(はるのすや)の人生を取り上げたいと思います。 養子縁組の話が四三とスヤの出会いのきっかけ 明治45年(1912年) 初参加したストックホルムオリンピックから帰国した金栗四三は、次の第6回ベルリンオリンピックを目指して東京高等師範学校に復学し、勉強にマラソンのトレーニングにと精力的に活動し、またこの頃から後輩へのコーチングも始めました。 翌年の大正2年(1913年)、 実家の長兄・金栗実次(かなくりさねつぐ)から養子縁組の話が金栗四三のもとへ持ち込まれます。 実次、四三兄弟の叔母に当たる池部幾江(いけべいくえ)から跡取りのいない池部家を継いで欲しいというものでした。 幾江が嫁いだ池部家は熊本県田名郡小田村では有数の大地主で、働かなくても食べていけるほどの大資産家でした。 養子の申し出 この池部家の当主に嫁いだ幾江は跡取りもなく、夫にも先立たれ、このままでは池部家が跡絶えてしまうことを危惧して、 自分の血縁に当たる四三を跡取りにしようと考えます。 この話を聞いた実次は当初、四三を養子に出すことは反対だったのですが、叔母が執拗に申し入れてくるため四三が承諾するならばという条件付きでこの話を受けました。 東京でこの話を聞いた四三はベルリンオリンピックの練習に支障がでなければ特に問題はないと考え、熊本には帰らず東京にいることを条件に、養子縁組を受けることにしました。 四三の返事を聞いた幾江はついでに嫁も探して結婚させようと考え、その幾江のおめがねに叶ったのが春野スヤでした。 出会ってすぐに結婚を決める 大正3年(1914)3月、四三は無事に東京高等師範学校を卒業、愛知一中への赴任要請を断り東京高等師範学校研究科へ進学し、マラソン一筋の生活を選択します。 約束通り、卒業後に故郷熊本に帰った四三は初対面のスヤとお見合いをし、 なんとその翌日には結婚式を挙げてしまいます。 大正初期の旧き時代で叔母や兄が決めた相手とはいえ、たった一度の見合いだけで結婚してしまうとは、お互いに何か引かれるものがあったのでしょうか。 その上、四三は結婚式からわずか五日後に新妻スヤを熊本に残し、単身で東京へ戻ってマラソンのトレーニングを開始しました。 この時から五年間、二人はずっと別居生活を続けることになります。 オリンピック出場を影で支える妻・スヤ 東京と熊本で離れて暮らす金栗夫妻は、スヤが東京に通うことで夫妻の絆を確認しました。 四三が目指した1916年のベルリンオリンピックは第一次世界大戦により中止され、四三は悔し涙を流すことになりましたが、次のアントワープオリンピックに目標を切り替え、マラソンの練習を続けます。 このアントワープオリンピックへの出場が決まり東京から出発する直前、スヤは上京して準備を手伝おうとしますが、四三は 「故郷も君のこともすべて忘れて、祖国のために走ろうと思っているのだ。 ジャマをしないでくれ」と言ってスヤを追い返してしまいます。 アントワープオリンピックでは16位の成績に終わり、 帰国後、東京女子師範学校に勤務しスヤを東京へ呼び寄せ、五年に及ぶ別居に終止符を打ちました。 1924年のパリオリンピックに出場した四三は途中棄権に終わり、これを最後に競技生活から引退しました。 スヤの真意、それは四三に走り続けてもらうこと 第一線から退いた金栗四三は後進の指導に当たりましたが、昭和5年に長年に渡って四三を支えてくれた兄・実次が死去、これを契機に 四三とスヤは熊本へ帰り、池部家へ戻って幾江とともに生活を始めます。 故郷に戻った金栗四三のもとには、全国各地の数多くの学校からの校長就任の要請が集まりますが、ここまで親孝行することもなかったのにずっと支援を続けてくれた幾江のそばにいるために四三とスヤ夫婦は熊本に根を下ろそうと考えます。 マラソン一筋で生きるよう説得 そんなとき、四三が知人に梨園の経営を勧められ、その気になってスヤにこの話をすると、烈火のごとく怒ったスヤに 「梨園の経営とは何事ですか。 あなたはマラソン一筋に生きることが自分の人生ではなかったのですか?」と言われたことで知人の勧めを断り、熊本でのマラソンや陸上競技の普及、後進の育成に全精力を傾けたのでした。 1940年の幻となった東京オリンピックの開催が決まったとき、 嘉納治五郎に上京を要請された四三にスヤは 「子供の学校のことなどで私はすぐに着いていくことはできませんが、あなた一人先に上京して先生のお手伝いをしてください。 子供のことはなんの心配もありませんから」と快く送り出しました。 なお、二人の間には6人子供がいました。 大河ドラマでは綾瀬はるかさんが演じます。 「いだてん~東京オリムピック噺~」では、金栗四三を中村勘九郎さん、妻のスヤを 綾瀬はるかさんが夫婦役を演じます。 綾瀬はるかさんは1985年生まれの33歳、愛くるしい笑顔と共演者全てを笑いの渦に巻き込む天然キャラを持つと言われている大人気の女優さんです。 ドラマ、映画で数多くの主演をこなし、 「海街dairy」で日本アカデミー賞主演女優賞を受賞、NHK大河ドラマは2013年の「八重の桜」で主役の新島八重を演じて以来になります。 今回演じる春野スヤは内に秘めた情熱と強さと頑固さがあり、本音でつきあわないと気がすまない、かけひきや遊びが苦手な面があるといわれる火の国熊本生まれの女性です。 広島県生まれの綾瀬はるかさんがどのようなイメージの春野スヤを作り上げるのか非常に楽しみです。 支えるだけじゃなく、同じく夢を見続けた妻 見合いした翌日に祝言を上げて夫婦となり、そこから夫は東京へ単身赴任、約5年間スヤは東京への通い妻で四三を支えます。 四三はオリンピック出場とシューズの開発に全精力を傾け、ひたすら走り続け、引退して第一線を退いたあとに一度マラソンから離れようとしますが、スヤの叱咤激励によってマラソンの普及と後身の指導に尽力し、日本のスポーツの発展に貢献します。 日本最初のマラソンランナー金栗四三にとって妻の春野スヤは彼の人生でもっとも必要な伴走者だったようです。

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池部幾江と金栗四三との関係性 もともと金栗家と親戚関係であった池部幾江は熊本県玉名郡小田村にある池部家に嫁いだ女性です。 池部幾江が嫁いだ池田家は、資産家であったため、裕福な暮らしを送っていました。 しかし池部幾江は夫との間に子供は恵まれず、またその夫にも先立たれてしまったため、 親戚関係であった金栗家の四男・金栗四三を大正2年(1913年)、養子に迎えたいと申し出ます。 この頃、 金栗四男は東京にある東京高等師範学校の学生であり、また日本初参加となるオリンピックのマラソンランナーとして明治45年(1912)に開催されたストックホルムオリンピックに出場し、一躍時の人となっていました。 しかし、オリンピックでは良い成績を残すことができず、大正5年(1916)に開催されるベルリンオリンピックに向けトレーニングを開始していました。 そんな金栗四三を養子に迎えたい池部幾江は、金栗四三の兄である金栗実次に養子に迎えたいと頼み込んだとされています。 こうして 金栗実次を通して金栗四三は池部幾江の養子となり、金栗四三は池田家を継ぐこととなりました。 校長就任を反対 現役を引退後、金栗四三は教師として女子体育の普及に努めその後、昭和6年(1931)故郷の熊本へと帰郷しました。 オリンピックに出場した金栗四三が帰ってくるということで、各地から金栗四三に対し校長就任の依頼が来ましたが、池部幾江は金栗四三が校長に就任することを反対し、就職せず、マラソンの普及活動を続けるよう勧めます。 これに対し、これまで支援してきれた池部幾江に恩を返す意味で、校長就任の依頼はすべて断り、故郷の熊本でマラソンの普及活動や農業支援を行いました。 東京オリンピック実現に奔走する金栗四三を支援 熊本でマラソンの普及活動を行っていた金栗四三でしたが、 昭和11年(1936)11月、東京でのオリンピック開催が決定されると、IOC委員の嘉納治五郎から東京オリンピックの準備を手伝ってほしいと要請が入ります。 金栗四三はこれまで支援をしてくれた池部幾江に恩を返すため故郷に残り、マラソンの普及活動をしていました。 そのため、再び上京することを躊躇っていましたが、池部幾江は金栗四三の上京を促し、また妻の春野スヤも上京を勧め、金栗四三は再び上京し、東京オリンピック実現に向け奔走しました。 しかし、昭和12年(1937)に日中戦争が勃発し、この影響で東京オリンピックは実現せず、金栗四三は失意を抱え昭和20年(1945)熊本へと帰郷しました。 熊本へと戻った金栗四三を池部幾江は良き理解者として支え続けたとされています。

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