松平 広 忠。 松平家広

松平忠輝

松平 広 忠

8代当主。。 の家臣。 の従弟であり、義弟でもある。 生涯 [ ] 3年()5月ので父・が討死。 祖父にあたるが若年だった康忠を後見した。 一方で母の碓井姫は、徳川家の重臣であるへと再嫁し離別している。 永禄5年 ()に元服し、小坂井ほか1,810貫文を知行した。 康忠の叔父であるやらも、家康から100貫文ずつを給わって補佐を拝命した。 信重は翌年からので家康方として討死したものの、近清はのちも康忠を支えて16年()に死去している。 その後の康忠は元年()、義父の忠次に属してに参加。 続いて3年()のでも忠次に従った。 が守る鳶の巣砦を徳川軍の別働隊として攻略し、を開放している。 さらに家康の嫡男であるのもとで老職を務めたが 、天正7年()信康の自刃により蟄居した。 のちにそれを許されて家康のもとへ帰参し、の際には家康のに同伴。 に参戦している。 天正16年()に嫡子の康直へ家督を譲り京都へ隠棲する。 ところがの藩主となっていた康直が2年()に24歳で病没。 隠居していた康忠は、家康の七男のを康直の養子とし、深谷藩1万石を相続をさせた。 しかし松千代も慶長4年()に夭折したため、その兄の辰千代(後の)を迎えて名跡を継がせた。 元和4年()8月10日に死去。 享年73。 なお元和2年()に起きた忠輝のによって長沢松平家の嫡流は途絶えたが、康忠の系統は後世に伝わっている。 また、天文9年()ので戦死した伝承のある同姓同名の松平康忠(甚六郎)が存在するが、こちらは松平宗家親忠系での子であって別人である。 脚注 [ ] [].

次の

松平伊忠

松平 広 忠

(まつだいら-ただてる)は、 と側室である茶阿局 さあのつぼね の間に産まれた六男です。 天正20年 1592年 1月4日、 で生まれた忠輝は、その生年が辰年であったため、幼名は辰千代(たつちよ)と名付けられましたが、家康は彼の誕生を喜びませんでした。 その理由としては、生母の身分が低かったことがあったと言われており、辰千代は捨て子の風習 捨てられた子が丈夫に育つと言われた安育祈願 によって に拾われ、皆川城主・広照に養育されました。 家康と辰千代が親子の対面を果たしたのは慶長3年 1598年 の事でしたが、家康からは嫌われたままであり、2歳年下の弟である松千代が永沢松平家に後継者として迎えられたのとは雲泥の差でした。 翌年、その松千代が夭折したことから名跡を継ぐこととなり、4年後の慶長7年 1602年 には元服し、上総介忠輝と名乗ります。 同年12月には佐倉に、慶長8年 1603年 の2月には信濃国・川中島藩主として移封され、慶長10年 1605年 には の右大臣就任のために へ参上、6年後には の長女・五郎八姫 いろはひめ を正室として迎えます。 また、家康の家臣・ に公私ともに助けられており、長安の息子で茶阿局の娘 忠輝の異父姉 を妻にしていた花井吉成が慶長13年 1608年 、附家老として配属されます。 その後も忠輝は慶長5年 1610年 に越後・高田藩主に封ぜられ、 に入り大名として栄達を重ねますが、家康との不仲は続いたままでした。 のちに、 を築城しています。 不仲の決定的となったのが慶長19年 1614年 の大坂冬の陣で、命じられた内容が気に入らない忠輝は高田城を出ようとせず、舅である政宗に促されて出陣する事件を起こします。 また、翌年の大坂夏の陣では遅参して手柄を立て損ねてしまい、家康は彼との対面を禁じることとなったのでした。 元和2年 1616年 に が亡くなりますが、家康の勘気を被った忠輝だけは拝謁を許されず、後を継いだ兄・ から改易を命じられます。 その時、子供こそ生まれなかったものの愛妻であった五郎八姫とは離縁し、彼女は生国の に帰国しました。 元和4年 1618年 には飛騨国・高山の金森重頼に身柄を預けられますが、この時に使者である と中山照守に対して無罪を主張したため、幕府の重臣らが将軍への謝罪を勧め、結果として忠輝は飛騨に赴きました。 その3年後、彼が許されるように幕府へ訴えたり、親族を家臣にさせたりと数少ない味方であった母・茶阿局が亡くなっています。 カテゴリー• 126• 761• 110• 108• 128• 115• 113• 208• 161• 153 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。

次の

松平忠質とは

松平 広 忠

概要 長沢松平家は三代・の十一男(異説あり)親則を祖とする。 本拠地はであった。 この長沢城は現在の(長沢町字午新)周辺。 今では拡張のための建設により、城の丘は南北に分断されている。 著名な人物には、の従弟・がある。 康忠は戦功多く、の一人にかぞえられている。 2年()、康忠の子・が嗣子無きまま病没したため、家康の七男・を養子に迎えて家名存続を図った。 その松千代が夭折すると、今度は家康六男(松千代の同母兄)を新たな養子とした。 これがである。 忠輝を養子に迎えて繁栄を見込めたのは、ほんの僅かな期間に過ぎず、2年()、忠輝は異母兄の将軍・により。 長沢松平家の家名は断絶してしまう。 ただし、忠輝の改易後も長沢松平家の血統は残っていた。 それでもはなかなかこの家を認めず、4年()にようやく長沢松平家と認知した。 5年()に十人扶持になり、やっと幕臣として禄が下された。 の・(主税助)はの前身であるの取締役になった。 その他の長沢松平家• 傍系のはの付家老を務め、忠輝の改易後浪人するが、元和4年5月()に将軍家に召し出されてに5、000石の所領を与えられ、となったが、孫の信実の代に無嗣絶家。 清直の弟・は忠輝後はに召抱えられ、藩重臣の松平主馬家として存続した。 また、同家の分家筋であるはに官僚として出仕し、後にに叙せられた。 正世 - - - 正村(正勝) - 正恒(再襲) - (正般) - 正惟 - 正郷 - 正義 - 正方 - 正一• の・も長沢松平氏のの一つであるとされている。 系図 凡例 1 実線は実子、点線は養子 2 太字は。 数字は継承順。 子孫、幕臣500石。 徳川家康六男。 交代寄合・松平尚澄三男。 通称は平右衛門。 4年()卒。 墓はの妙心寺。 通称は八兵衛。 文禄2年()卒。 墓は妙心寺。 通称は甚兵衛(以降三代にわたり甚兵衛を称す)、筑後守、源心。 の家臣として代1万6千5百石。 5年()卒。 墓はの西迎寺。 甚五兵衛• 甚兵衛、孫三郎、筑後守、源雪。 信宗の遺領を継ぐ。 2年()11月15日卒。 通称は平右衛門。 甚兵衛、孫三郎。 室は松平正直の娘。 11年()卒。 通称は五郎左衛門。 4年()卒。 墓はの大連寺• 通称・仙之助、孫三郎。 8年()卒。 甚之丞、左近。 元禄元年()卒。 通称・小大夫(以降、子孫も小大夫を称す)。 2年()卒。 墓所:の善導寺。 千之助、源七郎。 元禄14年()卒。 孫次郎、甚兵衛。 室は大久保忠行の娘。 10年()卒。 通称・平一郎。 9年()卒。 墓所・善導寺• 勘太郎。 室は小笠原常春の娘。 安永5年()卒)。 6年()卒。 墓所・善導寺。 根岸五衛門成巴二男。 14年()卒。 墓所・善導寺。 稲次郎、三十郎、大蔵。 造酒正、飛騨守。 鳥山大七郎允陳二男。 元年()卒。 墓所・善導寺。 14年()卒。 墓所・善導寺。

次の