ヨルシカ エルマ エイミー。 エルマ (ヨルシカのアルバム)

美しすぎて切なすぎる!心が震える、ヨルシカの楽曲の魅力をご紹介!

ヨルシカ エルマ エイミー

概要 ヨルシカについて考察と感想です。 この記事の対象• 「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」のネタバレを気にしない人 本編 アルバム「エルマ」が発売され、一つの物語が完結したので、忘れないうちに記録を残していこうと思います。 ちゃんと考察するのでアルバムのネタバレを含みます。 概要 初めに 「だから僕は音楽を辞めた」は一人の青年の音楽との向き合い方を描いたコンセプトアルバムです。 初回限定版は木箱にエルマへの手紙と写真とともにアルバムが封入されています。 このアルバムには、数々のインタビューでn-bunaさんが語っているように、n-bunaさん自身の思考や音楽論が込められています。 そして「エルマ」はそれに対するアンサーアルバムとなっています。 初回限定盤はエルマの日記に写真とともにCDが収められています。 構成 二つのアルバムはついになっています。 似たような演奏を散りばめたり、曲のタイトルを似せたりと明らかにこの二つのアルバムの曲同士は関連づけられています。 また、曲中の言葉はこの物語を理解する上で重要な役割を果たしています。 「だから僕は音楽を辞めた」の収録曲は以下のようになっています。 藍二乗• 八月、某、月明かり• 詩書きとコーヒー• 踊ろうぜ• 六月は雨上がりの街を書く• 五月は青の窓辺から• 夜紛い• パレード• エルマ• だから僕は音楽を辞めた これに対し「エルマ」は以下のようになっています。 憂一乗• 夕凪、某、花惑い• 湖の街• 神様のダンス• 雨晴るる• 心に穴が空いた• 森の教会• エイミー• 海底、月明かり• ノーチラス 1,5,10,13曲目はトラックです。 「藍二乗」と「憂一乗」のようにタイトルで関連性がわかるものもあれば、わからないものもあります。 しかし、これらはちゃんと対応しています。 例えば、11曲目の「パレード」と「声」ですが、パレードという曲は体の奥、喉の真下から生まれる誰にも見えない振動にこそ心が宿ると歌った曲です。 これはつまり声のことであると、エイミーは手紙で語っています。 このように、同じ曲数目の2曲は同じテーマについてだったり、同じ場所で書いた詩であったりと関連性があります。 物語 2つはコンセプトアルバムであり、1つの物語があります。 エイミーという青年、そしてエルマという女性の物語です。 「だから僕は音楽を辞めた」ではエイミーが自分の音楽への葛藤の答えを得るために旅をして、訪れた先で手紙と詩を書き記してそれを木箱に封入します。 「エルマ」ではそれを受け取ったエルマがエイミーの訪れた場所を同じように訪れます。 もちろん原作小説などはありませんので、二人の行動や思いはエイミーの書いた手紙、エルマの書いた日記、そして二つのアルバムの曲たちから推測することしかできません。 「だから僕は音楽を辞めた」の発売時点ではエイミーの哲学が断片的に感じ取れるだけで、謎が多くありました。 「エルマ」はそれらを補完する形で物語を完成へ向かわせるようなアルバムです。 「エルマ」 物語 旅をする 祖母から連絡があったので帰省した。 山間は色を変えて、秋も深く暮れた頃だった。 家に何か妙なものが届いていると、祖母はそう言っていた。 (中略) 包みを破って中から出てきたのは少し薄汚れた、妙な木箱だった。 蓋を開けて、彼の、エイミーの遺した手紙を読む。 あの日から私の瞳はずっと夢を見ている。 エイミーの書いた便箋たちが入った木箱がエルマの元に届き彼女の物語は始まります。 ずっと彼の後を追っていただけのエルマにとって、彼が寄越した詩の真の価値を理解することなんてできませんでした。 だから、彼の後をたどる旅に出ることにします。 これまでもずっとそうしてきたように。 マルメ、ルンド、リンショーピン、、ガムラスタン、ゴッドランド島ヴィスビー。 彼の旅路を辿ります。 次第にエイミーとの思い出は脳の容量をあふれて消えていきます。 日記帳にももう何も書けなくなります。 旅の果て 途方にくれヴィスビーを意味もなくさまよっていたエルマは森の教会を訪れたとき、茂みの先にエイミーの姿を見たような気がしました。 茂みをかき分けて彼を追うと、いつしか海岸沿いの砂浜にある桟橋にたどり着いていました。 「終わりのない小説なんてものは詰まらない」 「人生の価値は終わり方にある」 彼の言葉に最後まで支えられていたことに気づいたエルマは、彼の言葉を胸に人生を終わらせようと桟橋から海に飛び込みます。 桟橋の隙間から漏れ出た日光が月明かりのように海底に届きます。 ふと、ぼやけた視界の隅にエルマは、泥に埋まった万年筆を見つけます。 エイミーが使っていた万年筆です。 桟橋近くを探すと彼の使っていたインクの瓶と彼の鞄がありました。 鞄の中には手帳が。 エルマが旅を綴っているスペアの手帳ではなく、正真正銘彼の使っていた手帳。 エイミーはいつも詩を作るとき、下書きを書いてから手帳に写していました。 エルマに送られてきたあの便箋たちが下書きだったとしたら。 本当の詩はこの手帳の中にあります。 手帳を開くとそこには、ほとんど手紙と変わらない内容と、最後の数ページだけ初めて見る詩が書かれていました。 「雨上がりの晴れを書いた詩」「冬に眠り、夏を待つ詩」「自らを負け犬と標榜する詩」。 そして最後の1ページ。 題名は「エルマ」。 彼がくれた大切な名前。 その瞬間、エルマの頭にはエイミーとの思い出があふれて止まらなくなります。 これまでの旅でエルマは、日記帳にたくさんの空白のページを作って記録をつけていました。 それは、余白という無駄を病的に愛したエイミーを真似てのことでした。 その余白を彼との思い出で埋めていきます。 どうして思いつかなかったんだろう、と不思議なくらい書くことは止まりません。 雨宿りをしようと入ったあのカフェで彼と初めて出会ったこと。 よく2人で人気のないあの施設の広間にピアノを弾きに行ったこと。 エイミーがいなくなったときのこと。 宿に帰ってからも自分の頭の中に溢れる思い出をひたすら書き連ねていきます。 「君の指先には神様が住んでいる」とエイミーは言っていました。 「君の価値を君は知らない。 芸術の神様だけが本当の君を見てる。 エルマ、君のしたいことは何だ?君が本当に見つけたいことは。 」 エイミー、私はーーーー 日記帳に書く手が震えます。 もうエイミーの後を追っていたエルマはどこにもいませんでした。 自分で自分の人生を歩き始めたのです。 詩を書きました。 題名は「雨と」。 彼と初めて出会ったときの詩です。 詩を書きました。 題名は「憂一乗」。 エイミーを追って旅をしたときのエルマ自身のこと。 詩を書きました。 題名は「心に穴が空いた」。 エイミーがいなくなったあとの自分のこと。 言葉は止まりませんでした。 頭の中は音符が踊っていました。 ノーチラス 数日後、エルマはもう一度彼の鞄を見つけたあの桟橋に行きました。 その近くにもう一つ似たような桟橋があり、そこにエイミーのギターケースがありました。 ケースの中にはと、一つの詩。 題名は「ノーチラス 」。 エルマは決心をします。 エイミーの残した詩で音楽を書く。 彼の思想を引き継いで、彼の物語を描く。 彼がエルマ自身の中に見た月明かりを、エルマ自身が探す、永い永い旅に出るのだと。 考察とか感想とか 実際はこの数倍のボリュームはある物語を削りに削ったあらすじを上に書いていきました。 (まだの人、ほんとに初回限定版を買ってください…) これで二つのアルバムに渡ったエルマとエイミーの物語は完結のようです。 物語上の2人の思想や心情がアルバムのどの曲にもちゃんとリンクしていてほんとにすごいの一言です。 いくつか気になったとこがあると思います。 エルマという名前 「彼がくれた、私の名前だ」とあります。 これは答えはない謎だと思います。 一応そのときのことが日記帳には記してありますが、どういう経緯かは曖昧なままです。 僕自身はエルマの両親の描写があまりないこと(祖母はよく出てくるけど)、エイミーが出会った当時のエルマが「他人の悪意に負けない自分が欲しい」と思っていたことなどから勝手にストーリーを想像していますが、ここはそれぞれの想像力に任せられている部分かと。 エイミーは日々の生活から無駄を愛し、楽しんでいました。 そういった性格をエルマが模倣した、もしくはその名残が日記帳に現れているのでしょう。 「雨と」や「憂一乗」の歌詞も同様です。 そうやってエイミーよろしく無駄を楽しんでいたのかも。 丁寧に丁寧に書いたのか、はたまた誰か別人が書いたのか…? 流石に前者かとは思いますが、そのページだけ明らかに字が違うので謎です。 いろんな解釈ができそうです。 また、この詩がいつ書かれたのかもよくわかりません。 歌詞に「四度目の夏が来る」「あの夏に君がいる」とあることから、もしかするとエルマが旅をした夏よりもさらに後に書かれたものの可能性すらあると思います。 そうすると筆跡が投げやりな感じから丁寧な感じに変わっているのもなんとなく頷けますし。 なぜ「僕は音楽を辞めた」のか これはアルバム「だから僕は音楽を辞めた」の方でなんとなくの答えは出ていたように思いますが、結局、のような創作への向き合い方ができない自分へ失望してしまったからでしょう。 死後、初めて小説原稿が発見され有名となったの話からは、創作家は評価、名声、金、権力といったものに無欲であるべきだと考えるエイミーの哲学(そしてn-bunaさん自身の哲学)が伺えます。 いつからか、ただ人から認められたいという理由で創作をしている自分自身の生き方の報われなさに絶望してエイミーはいつしかピアノを弾くことを辞めました。 青 青について。 青は毒性の人工染料です。 エイミーの便箋にはこれを涙に例えた詩である「五月は青の窓辺から」という曲がありました。 ノーチラスのMVでは、エイミーが瓶に入った液体を飲み干すような描写がありますが、これは色的には完全に青ですね。 青の瓶を持ち歩いていて最後に飲むことに決めていたのかもしれません。 エイミーはもともと病気だったと思われます。 彼が病院に入っていく姿をエルマが目撃したという記述が日記帳にはあります。 それを含めての「人生の賞味期限」の話であったり、「人生の終わり方」を考えて夏までを生き抜くと決めたエイミーの旅であったりするわけです。 ノーチラスのMVで青を涙を流しながら飲むエイミー、心を揺さぶられます…。 夜紛い 夕焼けの修飾語として使われています。 エイミーが自分の創作の原動力である「怒り」をいつしか失ってしまっていることに気づいたときに見た忘れられない空であり、決意をしたエルマが帰路の船の上で見た空の色でもあります。 イメージはノーチラスのMVの最初に出てくるような空だと思います。 ちなみにノーチラスのMVには、エイミーが怒りを失ってしまっている様子を示唆するシーンも出てきます。 あのMVはほんとにすごい。 エイミーの手帳に残された清書、そしてヨルシカについて エイミーが自分の手帳に残した清書について。 「自らを負け犬と標榜する詩」で流石にピンときたと思いますが、これはヨルシカの楽曲「負け犬にアンコールはいらない」のことです。 (他二つは「ただ君に晴れ」と「冬眠」?) 彼の残した詩で歌を作ること、彼の物語を歌っていくことを決心したのはエルマです。 つまり、エルマこそがヨルシカなのだと解釈することでヨルシカというアーティスト自体に綺麗に筋が通ります。 「藍二乗」や「ノーチラス」がヨルシカ結成初期の頃にはすでにできていた曲である ことから考えても、ヨルシカというアーティストの裏には初めから今回の物語が隠れていたことになります。 これまでの楽曲をMVとともに思い出してみましょう。 準透明少年では桟橋の前に立つ青年の姿や海底に沈んでいく様子が描かれています。 雲と幽霊では、顔のない幽霊が彷徨っている場所に「Stockholm」や「Gamla Stan」の文字が写っています。 全てこの物語の伏線とも考えることができます。 だから、あえてこう言いましょう。 今回の二つのフルアルバム「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」。 ここからヨルシカは始まった、と。 もちろん、一つ一つの楽曲単体で聴いても素晴らしいものですし、そういう楽しみ方もとても良いことだと思います。 それにさらにプラスとして、今回の二つのコンセプトアルバムを知っていると、より楽曲が味わい深いものに聴こえるかもしれないよ、ということです。 ヨルシカの歌には「あの夏」という言葉がよく出てきます。 エイミーとお別れした「あの夏」を、エルマが、歌い続けているのかもしれない、なんて思うとまた少し曲の聴こえ方が変わってくるようですね。 最後に n-bunaさんという天才が、suisさんというボーに出会ってくれたからこそ生まれた奇跡の作品だと思っています。 n-bunaさんというコンポーザーが天才なのはもう言うまでもない事ですが、suisさんが曲に入り込んで歌うような人でなければここまで好きな作品にはならなかったと気がします。 n-bunaさん自身、suisさんの存在が作品作りに影響したと言っています。 かなり内容をまとめて書いた記事なので、このブログだけを読んだ人には良さが伝わりきってないであろうことがとっても無念です。 だから皆さん、ぜひ二つのアルバムを初回限定版で買ってこの世界観を味わってください。 また、エルマ特設サイトのインタビューも一つ一つの曲について詳しく語られているので読むのおすすめです。

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エルマ (ヨルシカのアルバム)

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About ヨルシカ ヨルシカのブレイクが物語る、想像し、読み解くという音楽の楽しみ方 インターネット上のコンテンツ出身のアーティストたちがリスナーの裾野を広げ、音楽シーンの前線へと躍り出るようになったここ数年。 中でも最右翼といえるのが、VOCALOIDクリエイターとしても活動し、現在は他アーティストへの楽曲提供などもこなすコンポーザー・n-buna ナブナ と、もともとは彼の楽曲のファンであったというシンガーの suis スイ からなるバンド・ヨルシカだ。 その勢いは数字の面でも明らかで、2019年7月現在、「言って。 」と「ただ君に晴れ」が、それぞれYouTubeで4000万近くの再生数を獲得しているほか、今年の4月にリリースされたばかりのフルアルバム『だから僕は音楽を辞めた』からも「藍二乗」「だから僕は音楽を辞めた」の2曲が既に1000万再生を突破。 顔出しをせずロゴのみをアーティスト・ビジュアルとし、TVなどのメディア露出もないにもかかわらず、である。 つまり、ヨルシカの音楽が支持を得ている理由は、楽曲の良さ、ほぼその一点に尽きる。 外連味のないギターロックを軸としながら、音色やバランス面を細部まで突き詰めることで、透明感や奥行き、耳触りの良さを高水準で実現。 変拍子や超高速BPMといったアプローチも少なくないネット発の音楽においては却って珍しいともいえるサウンド感だが、その所以は、ブルースからポップス、エレクトロニカまであらゆる音楽を好むn-bunaが、ヨルシカとして表現したい音とビジョンを明確に定め、そのために必要な手法を豊富な引き出しから適宜セレクトしているから。 そして彼のメロディと言葉が持つ力は、suisが巧みに感情を差し引きしながら歌うことで増幅するのだ。 極めてコンセプチュアルな作品性も特筆に値する。 一本のコンセプトに基づいたアルバム自体は珍しくないが、ヨルシカの場合はこれまで全ての作品が、物語のサウンドトラックのように、あるいは物語の一部であり、作品をまたいで伏線を回収したりすることも多々ある。 ただし、そこに具体的なストーリーは明示されず、聴き手が各自ストーリーを想像したり脳内で補完しながら聴き進めることに。 先行配信された「心に穴が空いた」「雨とカプチーノ」、そして8月28日にリリースが決まった2ndフルアルバムでもその手法は変わらない。 今作のハイライトでありラストを飾るミドルバラード「ノーチラス」へと至る全14曲において、ピアノをフィーチャーしたギターロックという中核はそのままにバリエーションは豊富になり、描かれる心象や情景に滲むメランコリーを、ときに切々と、ときにあえて明るいトーンのサウンドと歌声をもって表現するヨルシカ一流の手つきは、ますます冴えを見せている。 アルバムで描かれる物語の概要やその意図を断定することは、、ここでは避けたい。 n-bunaがインタビュー等で常々発言している通り、ヨルシカの音楽は個々の感性で自由に受け止め、想像を巡らせることで面白みが増すものだ。 ただし、そうするうちに「ノーチラス」(作家・ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』に出てくる潜水艦の名)よろしく、とんでもない深みに潜っていくことにはなるだろう。 文=風間大洋 アルバムの初回限定盤「エルマが書いた日記帳仕様」には、CDに加えて、エルマの旅の足跡を記した日記帳と写真が封入される。 音源やミュージックビデオだけで楽しむこともできるが、その世界に入りこむことで、一つ一つの曲に込められた背景を、より深く味わうことができる。 なぜ、どのようにしてこの作品が生まれたのか? インタビュー前編では、ヨルシカのコンポーザーn-bunaの原風景やルーツから、創作の背景、ヴォーカリストsuisの歌の表現の成長など、様々な切り口から語ってもらった。 『だから僕は音楽を辞めた』で音楽を辞めた「青年」の物語を作って、それと対になるコンセプトを持ったアルバムをもう一枚出そうと最初から考えていました。 『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』のプロットを同時に考えていった感じです。 制作自体は前のアルバムが発売された後に取り掛かったので、だいぶ期間は短かったんですけれど、楽しかったですね。 たしか「ノーチラス」と『だから僕は音楽を辞めた』に入っている「藍二乗」が、ヨルシカを始めて最初の頃に作った曲ですね。 ヨルシカを結成したのは2017年の春なんですけれど、音楽を辞めた青年と、それに影響されて模倣するように生きるエルマという人間の話をコンセプトにした作品は、その頃から作ろうと思っていました。 「ノーチラス」のデモも、その頃から僕のパソコンの中にはずっとありました。 バンド形式というか、そういう形で作品を作りたいという。 あと、昔から、映画や小説のような一つの作品が作りたかったんです。 コンセプトをしっかり固めた上で、その作品の中に音楽というものがあって、それをパッケージして世に出すということがしたかったのが、ヨルシカの始まりですね。 それを人間的なヴォーカルを使って表現したくて、suisさんという人と出会って組んだ感じです。 暗い詩を歌ってもどろっとしなかったというか。 ある種の爽やかさを持っていた人なので。 そこら辺が大きかったなと思います。 ーsuisさんにとっては、n-bunaさんと出会ってヨルシカで歌うというのはどういう体験でした? suis ヨルシカの前に、n-bunaくんのボーカロイド曲を歌うライブのゲストヴォーカルをして、そこで見つけてもらったんです。 もともと彼の描く歌詞や世界がすごく好きだったので、最初に聞いたときには嘘みたいな話だと思ったんですけれど。 『人生って面白いな』って感じでした(笑)。 歌詞にもラップランドやガムラスタンという現地の地名も出てきますが、そのことも最初から明確にあったんでしょうか? n-buna そうですね。 スウェーデンは幼少のある時期住んでいた国で、ガムラスタンはよく行っていた街です。 そういう子供のころ見た綺麗な景色とか、その頃に体験した思い出って、ずっと忘れられないですから。 そうして今も影響を受け続けている僕の原風景の一つを書いたのが「ノーチラス」という曲です。 最初は「言って」と「雲と幽霊」(『夏草が邪魔をする』収録)みたいに曲と曲単位でやっていたんですけれど、次は必然的にアルバム単位でそれをやろうということを考えていました。 n-buna そうですね。 エルマという人間は音楽を辞めた「エイミー」という青年が残した作品に影響を受けて、それを真似るように生きてしまう。 まさに芸術への模倣ですよ。 オスカーの言葉を現代の解釈で、音楽で描こうとしたのがコンセプトの始まりです。 最初は、感情のある声、感情的に聴こえる歌を歌おうって思っていたんです。 『夏草が邪魔をする』と『負け犬にアンコールはいらない』でやってたことはそれに近くて。 ただ、実際、感情のある声って結局テクニックでもあるんです。 感情がこもってなくても出せるというか。 で、今回の『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』では、歌い方も変わりました。 『だから僕は音楽を辞めた』では「青年」に感情移入をするというか、その役に入って、「青年」の気持ちを感じながら歌うという形でやったんです。 で、『エルマ』では、エルマが音楽を始めて、自分の歌、自分の人生を歌った曲なので、感情移入というよりも、suisではなくエルマとしてレコーディングするという風に考えていました。 没入感というよりも、エルマ本人が歌っているという表現にしようと思いました。 元々器用に表現する人だから、ヨルシカというものに適応したと言ってもいいかもしれないんですけれど。 僕が書いた曲に対して、ちゃんと考えてその時々の役に入り込ん で歌ってくれる。 映画における役作りみたいな感覚で歌ってくれているというのは、ありがたいと思っています。 どんなイメージから曲調を組み立てていったんでしょうか? n-buna 『だから僕は音楽を辞めた』の方はそもそもピアニストに憧れた青年の物語なので、ピアノというものが一本の軸になって通っているんです。 『エルマ』も青年に憧れてピアノを始めているので、それは共通していますね。 その上で『だから僕は音楽を辞めた』の方は、言ってみれば全体的に荒々しいロックバンドのスタイルで作っている。 一方で『エルマ』は、「憂一乗」でアコースティック・ギターだけ始まるようなアレンジがあったり、全体的に柔らかいイメージで作っています。 あとは、エルマはエイミーに影響を受けてはいるんですけど、エイミーにはない癖があるんです。 たとえばメロディやリズムで言うと、三連符やシャッフル・ビートを多用している。 歌詞もそうですね。 「声」や「神様のダンス」には、エイミーが使わないような言葉遣いが出てくる。 歌詞を書くときにも「これはエルマという女性が書いた歌詞だ」と思いながら書いているので、ちょっと表現が柔らかくなったりしてると思います。 音楽的なところで言えば、僕はブルースとか、ギターヒーローのようなギタリストが好きなんです。 ジョニー・ウィンター、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、ラリー・カールトンのような人達が好きだし、影響を受けていると思います。 映画だったら、クリストファー・ノーランやデビット・フィンチャー、あとはヒッチコックが好きで影響を受けています。 あと、僕は近代歌人が好きなんです。 名前を挙げるならば、正岡子規、与謝蕪村、種田山頭火の俳句や短歌にはすごく影響を受けています。 作品の中でもいろんな箇所でオマージュしていますね。 あとは、物語の骨格にも井伏鱒二の「山椒魚」からの影響があります。 「山椒魚」は簡単に言えば、どんどん自分の体が肥大していってそれによって岩屋から出られなくなった山椒魚が、ある日迷い込んできた蛙を閉じ込めてしまう話です。 『エルマ』では、エルマ自身の 中で虚無感や焦燥感がどんどん肥大していく。 エイミーの書く詩や文章、曲調やメロディー から、一人称までも真似して、エイミーになろうとする。 ここでいう山椒魚はエルマです。 岩屋は音楽であり、エイミーの残した作品であり、エルマの生き方そのものです。 『山椒魚』を僕なりの解釈で噛み砕いて隠喩にしたものが、今作の骨組みであり土台です。 この作品には二人の関係もなぞらえられている印象もありますが。 n-buna そうですね。 僕は与謝蕪村と松尾芭蕉の関係というものが好きで。 与謝蕪村は、松尾芭蕉が残した作品に影響を受けて、芭蕉が辿った道をなぞるように日本中を旅している。 それは本当に美しい芸術の模倣の仕方だと思うんです。 それこそ、オスカー・ワイルドの言葉が、そのままこの頃の日本でも行われているんですよ。 ヨルシカでエイミーとエルマの物語を作るにあたっても、そういう構造を描きたかったというのがあります。 『山椒魚』も与謝蕪村の話もそうですけど、結局、僕はそのオスカー・ワイルドの「人生は芸術を模倣する」という言葉をヨルシカで表現したかった、そこに尽きるんですよね。 いろいろ話を聞いて、すごくわかりました。 ポップ・ミュージックの歌詞を形容するにあたって「文学的な〜」という言い方をすることはよくあるんですが、ヨルシカの場合は、ちょっと違うなと思いました。 むしろ「音楽的な文学」というほうが近いかもしれない。 n-buna いい表現ですね。 ありがとうございます。 ただ、リスナーには、何も考えずに頭を空っぽにして聴いてもらえたらいいなとも思うんです。 そういうアルバムとしても作っているので。 この曲がいい、この歌詞がいいって、ただ音楽として楽しんでほしい。 で、それもありつつ、その音楽が何故できたのかという背景も日記帳では説明しているので、興味がある人はその根底を知ってもらったらいい。 そういう思いで作っています。 close 閉じる the 2nd volume: 『エルマ』の全14曲からは、主人公「エルマ」が辿った旅の足跡が浮かび上がる。 一つ一つの楽曲は、1stアルバム『だから僕は音楽を辞めた』に収録されている楽曲と対になる構造を持っている。 そして、エルマの旅は、最後に胸に迫るクライマックスに辿り着く。 インタビュー後編では、ヨルシカのコンポーザー・n-bunaにその情景を一曲一曲解説してもらった。 車掌にパスポートの提示を求められて、電車がいつの間にか国境を超えている。 そこで「あ、もう国境を渡ったんだ」と気付く。 そういう旅の始まりを書いた曲です。 n-buna 前作の「藍二乗」は虚数単位のiのことなんです。 虚数単位iの2乗でマイナス1になる。 エイミーが1人になってエルマがいない状態を「藍二乗」と言ったわけなんですけれど、そこから影響を受けたエルマは「i」から連想して「You」という言葉を使ったわけですね。 「憂一乗」は、日記帳の最後の方にある「湖の底に飛び込んだ そこから見る月明かりが綺麗だった」という情景から出来た曲です。 水の中の底から見る景色を曲にした。 僕自身が昔、綺麗だなと思った景色でもあります。 そういうものが書きたかった。 n-buna これは「八月、某、月灯り」と対になっている曲です。 エイミーがロックンロールを書いたように、それにならってエルマはロックンロールを書くわけですね。 「この歌の歌詞は380字」という歌詞も「藍二乗」のオマージュです。 このタイトルのもとになった着想は、東京で見た花火なんです。 東京ってビルが沢山あって、花火が建物の影に隠れて半円のように途切れて見えるんですよね。 風の止んだ夏場にそういう花火が上がっている風景がタイトルの原型になっています。 この曲はエイミーとの思い出を語っている曲です。 日記の終わりの方にもエルマとエイミーが見た花火の話が書いてあるんですけど、それを思い出してエルマが書いている。 過去にエルマとエイミーが出会った時のことを書いている。 雨のカフェテラスで、カプチーノを飲んでいるエイミーをエルマが見ている。 その情景をもとにした曲です。 これは「詩書きとコーヒー」と対になっていて、「詩書きとコーヒー」は詩を書くエイミーの話で、「雨とカプチーノ」はそれを見ているエルマの話ですね。 日記帳の日付では「雨とカプチーノ」を書いているのは9月の初めになっています。 歌詞にある「八月のヴィスビー」というのは、その前にエルマが居たヴィスビーのことを思い出している。 夏が終わる情景を書いています。 日記帳では4月5日にエルマがヨンショーピンに泊まって「白夜から中々沈まない夕陽を眺める」と書いている。 僕自身もそこで泊まったんですけど、本当に綺麗で良い街でした。 砂浜が綺麗だったし、湖も涼しかった。 そこで録った環境音も使っていますね。 ビートに関しては、欧米で数年前から流行り始めていたローファイヒップホップというジャンルから取り入れたりもしてます。 他のインストでもそうなんですが、サブベースという下の帯域のシンセを足したり、僕の好きなタイプの現代的なサウンドを取り入れています。 あともうひとつ、今回のアルバムではインスト曲に共通する一つの楽器を使って、それで流れを作りたかったんです。 けれど、なかなかそれが見つからなくてめちゃくちゃ苦しんだんですよね。 で、楽器屋に行って、マンドリンとウクレレが合体した謎の楽器を見つけたんです。 表がマンドリンで、裏がウクレレみたいになっている。 僕は「マンドレレ」と呼んでいるんですけど(笑)。 使ってみたら気持ちいい音になったんで、最初のピアノソロ以外のインスト3曲では全てその楽器を使っています。 n-buna そうですね。 「踊ろうぜ」という曲は、エイミーが芸術という神様に踊らされる自分のことを書いている曲です。 エイミーにとって神様とは作品の中にいるものなので。 対して、エルマにとっての神様はエイミーのことなので、エイミーが作った音楽を「神様のダンス」と表現したわけですね。 そういう対比があります。 だからこそ、これもシャッフルビートではあるんですけど、ジャジーながらも楽しげなピアノ主役の曲になっています。 「六月は雨上がりの街を描く」は雨上がりの曲じゃなくて、雨上がりの街を描きたいということをエイミーが書いている曲。 そして、実際に、雨が上がって晴れた六月の街の曲をエルマが書いた曲が「雨晴るる」です。 これは山頭火の句から題を取っています。 山頭火は「山は街は梅雨 晴るる海のささ濁り」という歌を旅の途中で詠んでいるんですが、そこからとって「雨晴るる」というタイトルにしました。 そのことによって山頭火へのリスペクトを示しています。 君が旅した街を歩くという、そこに尽きる曲ですね。 これは「五月は花緑青の窓辺から」という曲と対になっていて、だから歌詞の中に「頬を伝え花緑青」と書いている。 「五月は花緑青の窓辺から」で「例う涙は花緑青だ」と、毒性を持った染料に涙を喩えて歌っていているので、それを「歩く」の中でも引用しています。 n-buna これは「夜紛い」と対になっている曲ですね。 「夜紛い」では「人生とはマシンガン」と自分の人生をマシンガンに喩えている。 「ただ一つでいい 君に一つでいい 風穴を開けたい」と、音楽で君に穴を開けたいんだと言っている。 そしてエルマは「だから心に穴が空いた」と返している。 そういう構造ですね。 n-buna 環境音はゴットランド島のヴィスビューからフォーレスンドに向かう途中にある森の教会で録音しました。 すごく静かで、綺麗な教会なんです。 『だから僕は音楽を辞めた』の木箱の中にも教会を撮った写真があります。 それを見てエルマは「写真の場所だ」と思ってその教会に足を運ぶ。 日記の中でも7月4日にそこでお婆さんと再会するという話が書かれています。 「パレード」のリフをそのまま使っているんです。 あとは『だから僕は音楽を辞めた』の手紙の中で「パレード」について「声のことだよ」と書いているんです。 「誰も見たことが無いのに、話をすると顔を見せる」とか「気分によって暖かくもなり、冷たくも成る」と、謎かけっぽくエイミーが書いた詩が「パレード」。 それに応じてエルマが「声」という詩を書いたという形です。 n-buna そうですね。 エルマはエイミーのことを模倣して、エイミーの気持ちになろうと曲を書いているわけですね。 そのうちに、エイミーと同じ行動原理を持つようになって、同じところにまで行き着いてしまう。 その結果、エイミーと同じことを考えて、エイミーの辿り着いた桟橋に向かうという。 エルマという人間がそのまま出ている作品です。 日記帳の文字の筆跡もここだけ字体が違うのは、エルマがもうエイミーの模倣を辞めているからです。 「このまま、何処か遠くの国で」と「エルマ」の詩をそのまま引用しているところもあるんですけれど、エルマ自身が初めて自分の音楽を作りたいと思って書いたという立ち位置の曲です。 これは僕自身の原風景でもあります。 岐阜の山の上にあるプールによく行ったんですけど、底が深いプールで、身体から完全に息を吐き切って沈んで上の方を見ると、日光が綺麗に差している。 口から吹いた泡も綺麗に写って、その景色を今でも鮮明に覚えている。 その原風景が投影されています。 『エルマ』の物語の中では、エルマが湖に飛び込んだ後、月明かりのような日の光が見える。 それを心底綺麗だと思う。 そういう瞬間を切り取ったインストです。 これはとても重要な曲ですね。 n-buna そうですね。 「ノーチラス」という言葉は、ジュール・ヴェルヌの『海底二万マイル』に出てくる「ノーチラス号」からとっています。 潜水艦で世界を旅する話なんですけれど、すごく好きな小説なんです。 あの艦長もエゴの塊みたいな人間ですけど、主人公よりそっちの方に感情移入をしていて。 n-buna アルバムにおいては、海の底に沈んで、そこから潜水艦のように浮上するという曲です。 これは夢の中から目を覚ますということでもあるんです。 深い夢の中、海の底みたいな眠りの中から目を覚ます。 それを潜水艦に喩えたのが「ノーチラス」という曲です。 歌詞でも「眼を覚ます」と書いている。 そして、眠りは死や別れの隠喩でもある。 そういうところから書いています。 物語の中では「ノーチラス」はエイミーが最後に残した曲ということになっています。 エイミーが最後に自分の原風景を書いた。 その曲をエルマが最後に歌って終わるというアルバムです。 きっとMVを見たら、いろいろとわかると思います。 であると同時に、物語がたどり着く場所でもある。 n-buna この曲はヨルシカの到達点だと思います。 僕の個人的な思いもいろいろ詰まっていて。 たとえば、僕は昔から同じ夢を何度も見るんですけれど。 その中の一つで、向こう側が見えない丘の前に誰か人が立っていて、そこに向かって歩いていく夢です。 僕の中では、その丘の向こう側にスウェーデンの景色があったんですよね。 ラップランドの納屋や、ガムラスタンの古通りがあった。 そういう情景も元になった曲です。 こうして聞くと、『エルマ』の14曲と『だから僕は音楽を辞めた』の14曲、それぞれ一つ一つにディテールと奥行きがあることが伝わってきます。 n-buna 無駄な曲は一つもないですね。 構想自体はずっと前からあったんですけれど、それをもとに曲を完成させて、詩を書いて、レコーディングに臨んでいった。 楽しくやれました。 これはどんなイメージで作っていったんですか? n-buna 監督の方と「このMVではこういう場面を描きたい」という話をして作っていきました。 初回盤を手にとった方が「あ、これはこの場面を描いたものだったんだな」と納得してもらえればいい。 ストレートにその場面や心情を描いたMVを作っています。 n-buna そうですね。 映画とか小説と同じように、エルマとエイミーの物語を楽しんでもらえればと思います。 10月に東名阪でツアーが予定されていますが、これはどんな感じになりそうでしょうか? Suis ライブという舞台装置のある場所で、生の音楽でこの2枚のアルバムの世界観を届けられたらなって思います。 n-buna コンセプトを大事にした、コンセプトありきのライブにしたいなと思います。 エイミーとエルマの物語の中に入り込んでもらうような感覚で、一つのライブ作品として徹底してやれたらなと思っています。

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ヨルシカ

ヨルシカ エルマ エイミー

Amazon. jp オリジナル缶バッチ• タワーレコード オルゴールCD (M1. 盗作・M2. 花に亡霊)• ヴィレッジヴァンガード オルゴールCD (M1. 思想犯・M2. 夜行)• HMV オルゴールCD (M1. 春ひさぎ・M2. レプリカント)• TSUTAYA RECORDS 一部店舗除く ステッカーシート• アニメイト A4クリアファイル• 楽天ブックス オリジナルブックカバー(紙製)• 予めご了承ください。

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